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復活節第4主日礼拝説教「命のパン、あります」

日本基督教団藤沢教会 2007429

4主はモーセに言われた。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。5ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」

6モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。

「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、7朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」

8モーセは更に言った。

「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」

9モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、10アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。11主はモーセに仰せになった。

12「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

13夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。14この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。15イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。

「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。16主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」           (出エジプト記 16416節)

 

34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」              (ヨハネによる福音書 63440節)

「パンをください」

「命のパン、あります」。この礼拝のために予告した説教題です。礼拝の予告を見た人に、「おかしな説教題だ」と言われました。確かに、いかにもおかしな説教題です。まるで、パン屋の入り口に手書きで張り出された宣伝の言葉です。先週、教会の掲示板に今日の礼拝予告が張り出されてから、私は、ひそかに期待をしていたことがありました。だれか、この礼拝に、本当にパンを求めてこられるのではないだろうか。ここがキリスト教の教会で、日曜日ごとに礼拝をしているということなど知らずに、ただお腹を空かせて、あるいは珍しいものを食べたくて、《命のパン》とやらを求めてここを訪ねてくる人が、いやしないだろうか。

残念ながら、今日、私たちの教会でパンにあずかることはできません。「パンをください」と求められても、牧師館に残っているパンを少しばかり分けて差し上げるのが関の山です。もしも、本当に《パン》を求めて来られた方がいらっしゃったら、怒られるかも知れません。「命のパン、あります」などと張り出して、看板に偽りありだと言われれば、そのとおりかも知れません。けれども、たとえそのように指摘されても、私は、「命のパン、あります」の張り紙(礼拝予告の看板)を取り外すつもりはありません。それどころか、私は、今日の礼拝が終わっても、「命のパン、あります」という張り紙だけは、ずっと教会の入り口に張り出し続けても良いのではないかとさえ思っているのです。そして、私たちの教会が道行く人々に「命のパン、あります」と自信をもって宣伝できるような教会になっていくことを、教会員の皆様には提案したいとさえ思っているのです。

主イエス・キリストのご復活を記念して祝うイースターを迎えた今月、5回の日曜日に、私たちはことごとく、パン=食事に関係する聖書の御言葉に触れてきました。2回は、聖餐にあずかって、事実パンと杯をいただきました。2回は、復活の主が弟子たちのところに現れられて食事を共にされたことを伝える聖書の御言葉を聴きました。そして今日は、「わたしが命のパンである」という有名な主イエスの御言葉、主イエスを理解する上でも最も重要な御言葉の一つ、を伝えるヨハネ福音書6章の聖書の御言葉を聴いているのです。

このように毎週パン=食事に関係することに触れるというのは、決して偶然の巡りではありません。聖書は、イースターの前でも後でも、主イエスと食事との関わりを繰り返し語るのです。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後に四十日間荒れ野に出て断食をなさいましたが、その後宣教活動を始められてからは、断食をなさることはなかったようです。むしろ、主イエスはさまざまな人との食事を楽しまれた、というのが福音書の伝えるところです。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」(ルカ7:34)と言われるほど、主イエスは飲み食いをなさったのです。もちろん、ただの宴会好きであったということではありません。主イエスは、食事を通して、神の御心を人々に示されたのです。あらゆる人に恵みを与えたまう神、あらゆる人々が共に平和のうちに生きることを望みたまう神、ご自身を差し出されてでもその御心を実現しようとなさる神。そのような神の御心を、主イエスは、人々や弟子たちとの食事を通して、繰り返しお示しになられたのです。

教会は、そのような主イエスの食事の営みを受け継ぐ弟子の群れです。ですから、教会は、《パン》をいい加減に扱いません。《食事》をお座なりにいたしません。しかし、今日はただ、「わたしが命のパンである」、この主イエスの御言葉に耳を傾け、《命のパン》の所在を確かめることにいたします。

 

「わたしが命のパンである」

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(34〜35)

私たちの多くの者が暗誦している主の御言葉です。覚えようとして覚えたというよりも、一度聴いたならば誰も忘れ得ないような、言葉自体に私たちの魂をとらえる力を備えた主の御言葉です。

ところで、この御言葉を、主イエスは人々の「そのパンをいつもください」という願いに応えられる形で語られました。そのパンとは、直前に主イエスが語られた天からのパン神のパンのことです。

すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32~33)

ここで人々と対話されている主イエスが触れられているのは、かつてイスラエルの民が荒れ野で空腹を訴えたときに、神が天からのパン、マナを降らせてくださり、日毎の糧としてくださった物語です。その物語は、今日朗読を聴いた出エジプト記16章に語られていました。この物語で、イスラエルの指導者モーセは、腹を空かせて不平を訴える人々に対して、「あなたたちは主に向かって不平を述べているのだ」(16:8)と苛立ちを顕わにするのです。ところが、神は、不平を述べる人々に対して、それを当たり前の要求であるかのように受けとめられて、こう告げられるのです。あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」(16:12)

腹が減ったから、満腹になることを神に願う。随分、低次元な神との関係のようにも思えます。けれども、そこで神は、腹を空かせた者にパンをお与えになる。そして、そのことを通して、ご自身が主なる神であることを知らしめようとなさる、というのです。神はご自身の目的があって、パンをお与えになるのです。

この物語に触れられて主イエスが語られる天からのパン神のパンとは、そのような神の目的のために与えられるパンのことだと教えられます。そして、それは、世に命を与えるもの、命のパンだと、主イエスは語られるのです。

私たちにとって命とは何か。主イエスは、神を知り、神の御心を行って生きることこそが、まことに命を得ること、永遠の命にあずかることだと、ただこのことを私たちにお教えくださるのです。そのためにこそ、ご自身が命のパンとして差し出されているのだ、神から遣わされているのだと、お告げになられるのです。

見て、信じる

さて、そのようにお告げになられる主イエスは、ここで最後にこう言われます。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40)

この言葉を聴いて、すぐに思い起こすことができるのは、復活なさった主イエスが弟子のトマスの前に現れられて告げられた御言葉ではないでしょうか。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」(20:29)。当たり前のことですが、主イエスは、肉の体をもって生きて活動されていたときにも、復活の体をもって弟子たちに出会われたときにも、見えるお姿で人々や弟子たちと接せられたのです。そのような主イエスの時代の人々を羨ましく思います。ところが、見えるお姿の主イエスと接した人々の多くは主イエスを信じませんでした。見ているのに、信じない(36)人々がいたのです。もちろん、一方で、トマスのように、見たから信じた人もいました。けれども、主イエスは、そのトマスに向かって、結局は、「見ないのに信じる者は幸いである」と告げられたのです。

主イエスは、私たちに、見ないで信じる信仰を得なさいと言われているのでしょうか。確かに、「信仰とは見えない事実を確認することです」(ヘブ11:1)とも言われます。私たちは、事実、主イエス昇天後の時代に生きているのですから、見えない主イエス・キリストの事実を確かめ、信じる以外にない、とも言えます。

けれども、私たちは、このところで主イエスが「わたしが命のパンである」と告げられた上で、「御子キリストを見て信じる者が…」と言われていることに、もっと注意したいのです。私たちは、聖餐にあずかるたびに、「これはあなたがたのためのわたしの体である」と主が告げられたパンを見て、口にしています。主イエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6:56)と告げていられることを知っていて、聖餐のパンを食べているお互いの内にキリストが生きていられることを信じています。そして、それゆえに、使徒パウロの教えに倣って、「教会はキリストの体である」と宣言しています。私たちは、そのような営みを行い、信じて宣言している信仰者の群れ、つまり教会に、主イエス・キリストのお姿を見ているのです。教会の群れのここそこに、命のパンとしてご自身を差し出してくださったキリストの生きたお働きを、見ているのです。そして、そのようなキリストのお姿、お働きを見て、信仰を新たに深められてもいるのです。

「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37)

「命のパンを求む者、皆、来たれ。ここに、命のパン有り。」そのように告げ知らしめる群れとなるために、主の教会の内に生かされているのです。

 

祈り

主よ。今も命のパンとして私どもにご自身をお与えくださいます。ここで命のパンに与らせてください。見て信じ、御心を行う者とならせてください。アーメン