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復活節第5主日礼拝説教「選ばれる」 日本基督教団藤沢教会 2007年5月6日 6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。9あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、10御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。11あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。 (申命記 7章6〜11節) 3:23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。24こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 4:1つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。3同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。5それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 (ガラテヤの信徒への手紙 3章23節〜4章7節) 11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。 (ヨハネによる福音書 15章11〜17節) 「わたしがあなたがたを選んだ」 キリストの復活を記念するイースターから聖霊降臨を記念するペンテコステに至る復活節の期節も後半。復活の主イエスが今も共に歩んでくださっていることを確かめながら、私たちが聖霊の降臨と共に確かな礎のもとに教会の群れとして建てられていくための備えのときを、御言葉に導かれつつ過ごしています。 《教会》と、私たちは自分たちの団体のことを呼びます。私たちが用いる《教会》という呼び名のもとになっている語は、新約聖書の中に出てくる《エクレシア》というギリシア語です。当時、《集会》という程度の意味で一般的に用いられていたギリシア語の単語のようです。ただし、この《エクレシア》には、独特の響きがあったのです。それは、ただ単に《集会》という人が集まっている状態を指しているだけではなく、《呼び集められた者の集団》《招集された組織》を意味しました。私たちの日本基督教団信仰告白もこのことを特に意識して、「教会は…恵みにより召されたる者の集ひなり」と語るのです。 この《エクレシア》というギリシア語の響きの中で理解される《教会》を考える上で、その《教会》に集わされている私たち一人ひとりが繰り返し立ち帰らされる御言葉が、今日、告げられたヨハネ福音書に伝えられる主の御言葉です。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。 洗礼〔バプテスマ〕を受けることを志願された方と、受洗前の準備会を重ねる中で、必ずこの御言葉を共に味わいます。恐らく、多くの牧師が、同じようにこの御言葉を受洗準備会の中で取り上げていると思います。私たちキリスト者の信仰にとって、大切な理解が告げられている御言葉です。 洗礼を受けようと決心された方は、確かに一つの決断をもって受洗志願を申し出てくださいます。どなたも、いい加減な決断ではありません。いい加減な決断なのではないかと思わされるところがあれば、牧師は、その決断がいい加減なものではないことを確かめるために時間をかけてでもその人と向き合います。いずれにしても、最後には、いい加減な決断ではなく、ある意味で覚悟を決めた決断をもって受洗を志願されるのです。それは貴いことです。貴い決断だと思います。 けれども、そのことを大切に受けとめさせていただきながら、牧師は、そのこととはおよそ正反対のようなことを受洗志願者によく理解していただくために、努力をするのです。すなわち、私たちの信仰とは、私たち自身が選び取ったものではない。むしろ逆に、私たちがキリストによって選び取られたゆえに、私たちは信仰者として生かされている。私たちの信仰とは、そのように、私たち自身の主体性にではなく、どこまでもキリストの主導権の中にあるものなのだと、このことを、受洗の決断をなさった志願者に、繰り返しお話しするのです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 受洗のための準備をほぼ終えられた志願者が、役員会の試問会で証しをしてくださるとき、役員の方々は一様に、その確かな信仰の証しに驚かれます。「キリストがこの私を選んで、洗礼を受け教会に連なる者としてくださった」という信仰を、志願者が明らかにされるからです。もちろん、役員方も、その同じ信仰に生きていらっしゃる。だからこそ、ご自分たちが立ち帰るべき信仰の原点を証しされて、驚かれるのです。 「互いに愛し合いなさい」 キリストの選び、神の選び。そこに、私たちの信仰の土台があり、出発点があります。そしてまた、そこに、私たちの信仰の屋台骨があり、目的地がある、と言っても良いかもしれません。 弟子たちを選び出された主イエスは、その弟子たちに任務を命じられます。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。 「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。 他の機会にも何度も語られている「互いに愛し合いなさい」という教えを、主イエスは、この短い段落の中で、二度繰り返して告げられます。「これこそが、あなたがたが神に選ばれ、信仰を与えられ、神の子として生きるようにされた理由だ」。そのように主イエスは、告げていらっしゃるのではないでしょうか。 「互いに愛し合いなさい」。私たちには、まったく異論のない教えです。教会に初めて来られた方に、「教会は何を教えているのですか」と問われれば、恐らく「愛を教えています」と答えるべきでしょうし、そう答えられるでしょう。けれども、主がこれを「掟である」「命令である」と明言されているのを聴きながら、あるいは、私たちは、内心うろたえているのではないでしょうか。 私たちには、身に覚えがあるのです。「教会は愛を教えているにしては、随分、冷たいのですね」と問われて、私たちは、「いや、教会は、神の愛、キリストの愛を教えているのですよ」と、半分ごまかすようなことを言ってしまうことがあるのです。「互いに愛し合いなさい」という主の命じられたことを、どうして、教会の中で実行できないのか、と問うているうちは、まだ良いのです。「私たちには到底実行できないから、キリストの愛がありがたく感じられて良い」などと開き直ってしまうことさえ、私たちにはあるのです。けれども、主が「掟である」「命令である」と明言されたことを、そのように蔑ろにしてよいものでしょうか。 ここで繰り返し「愛する」と訳されている語は、ギリシア語の《アガペー》の動詞形です。よく知られているように、《アガペー》は聖書で《神の愛》を示すために特徴的に用いられている語です。そこで、《アガペー》の愛は、《無条件の愛》《永遠の愛》を意味する、というように説明されたりします。そして、そのように説明されると、私たちは、「自分は神のように無条件の愛で人を愛することなどできない」と思わざるを得なくなってしまうのです。 もちろん、私たちは、神のような無条件の愛をもって人を愛することはできません。親の子に対する愛は、あるいは無条件に近いかもしれませんが、しかし、自分が親になってみると、必ずしも無条件の愛で子を愛しているとは言えない自分の姿に気づかされます。そうだとすると、主イエスは、私たちに、無理難題を掟として押しつけていらっしゃるのでしょうか。 実は、ギリシア語の《アガペー》という言葉自体には、《無条件の愛》とか《永遠の愛》というような意味合いはないといいます。むしろ、《愛》を表す他のギリシア語、《エロス》とか《フィリア》などと比べると、一般的すぎて特徴がなく、あまり価値を認められなかったのが《アガペー》の愛だったというのです。ある人たちは、そもそも、《アガペー》を日本語に訳すときに《愛》と訳したのが間違いだったと言う人もあるくらいです。事実、もっとも古い日本語訳聖書では、《アガペー》は《お大切》と訳されている。《大切にする》という程度の日本語で理解した方がよい、というのです。 「わたしがあなたがたを大切にしたように、互いに大切にし合いなさい」。 確かに、このように言われれば、主イエスが私たちに命じられたこととして、もう少し真剣に取り組めるような気がします。 「友のために…」 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。 「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)。 主イエスが、《友》について語られた、数少ない箇所です。しかも、ここで、主イエスは、ご自分が弟子たち、私たちの《友》である、と宣言なさっています。私たちが、神の御子キリストの《友》とされている、というのです。 主イエスは、ここで私たちに、「互いに大切にし合う」だけの関係から一歩踏み込んで生きる道を、示されているように思います。「互いに大切にし合う」関係から一歩進んで、「自分の命=自分自身を相手に差し出す」関係です。そのように自分自身を差し出す相手を、主は《友》と呼ばれています。ご自身を差し出した相手である弟子たち、私たちを「友と呼ぶ」と呼ばれたように、です。 「無二の親友だから、自分の命を差し出すこともできる」、ということもあるかもしれません。けれども、主イエスは、むしろ逆に、ご自分の命を差し出されることによって、私たちの友となってくださる、というのです。私たちと親友関係ができていなくても、私たちを友として選んでくださる。 私たちは、そのような主イエスの友として選ばれた一人ひとりなのです。だからこそ、私たちもまた、互いに愛し合い、大切にし合い、そして自分を差し出し合い、互いを友と呼んでいく、そのような歩みへと導かれることを祈らないではいられないのです。 祈り 主よ。ご自身を差し出してくださり私どもを友と呼んでくださるのですか。私どもも互いに愛し合い自分を差し出し友となる者とならせてください。アーメン
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