印刷用PDFA4版2頁 |
---|
復活節第6主日礼拝説教「聴き従う」 日本基督教団藤沢教会 2007年5月13日 10ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。11ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。12役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、13王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」14彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」15王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。16役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」17それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」18一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。19王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、20夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。21洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」22ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。23神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」(ダニエル書 6章10〜23節) 1終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、2また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。3しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。4そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。5どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。(テサロニケの信徒への手紙二3章1〜5節) 1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。(ルカによる福音書 7章1〜10節) 「これほどの信仰を見たことがない」 教会は、神の招きに応えて集う信仰者の集まりです。キリストを通して神に招かれていると信じ、洗礼を受けたキリスト者の群れ、それが教会です。教会は信仰を告白する者の共同体、神を礼拝する神の民、とも言われます。 けれども、教会には、いわゆる信者だけがいるのではありません。教会の礼拝には、洗礼を受けたキリスト信者だけが集っているわけではありません。教会には、いまだ公に信仰の告白をしていない子どもたちがいます。教会の礼拝には、いまだ洗礼をいけていらっしゃらない、いわゆる未信者の人たちも、たくさん集ってくださっているのです。そのような人たちと共に、礼拝をいたします。もちろん、礼拝の中で、洗礼を受けた者だけが与る聖餐のような部分もあります。洗礼を受けた信者の中から選ばれた一部の者だけが受け持つ奉仕もあります。それでも、教会の営みの多くは、信者も未信者も分け隔てなく、共に参与していただくのです。そして、信者も未信者も共に歩んでいく中で、私たちは、未信者の人たちが、いずれ近い将来、公に信仰を告白されて、洗礼を受けられて、キリスト信者となられることを、祈り願っているのです。 ところで、私たちは、すでに洗礼を受けた信者だから信仰がある、いまだ洗礼を受けていない未信者だから信仰がない、と単純に分けて言うことができないことを知っています。私たちすでに洗礼を受けた信者であっても、我がこととなると、「本当に自分には信仰があるのだろうか」と思わざるを得ないことがしばしばです。一方で、いまだ洗礼を受けていらっしゃらない未信者の人たちの中に、「この人は、こんなにはっきりとした信仰があるのに、どうして洗礼を受けないのだろう」と思わされる方を見出すこともあるのです。 ルカによる福音書7章の物語は、一人の異邦人、いわば一人の未信者であった百人隊長のことを指して、主イエスが「これほどの信仰を見たことがない」と人々に告げられた出来事を伝えています。 「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。イスラエルとは、ユダヤ民族を生まれながらの信仰者の民、神の民と理解するときの呼び名です。ユダヤ人とほとんど同義で用いられる言葉です。しかしまた、初代教会にとっても、神の民という言葉とともに、自分たちキリスト信者を指す言葉となりました。そのイスラエル=神の民の中で見られないほどの信仰がここに見られると、主イエスは、一人の百人隊長を指して言われたのです。 私たちがどこに信仰を見るべきなのか、主イエスは人のどこに信仰を見られるのか。この物語の告げることに、耳を傾けたいと思います。 百人隊長の願い イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところが、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ(1~3節)。 カファルナウムは、主イエスがしばしば滞在された町です。その町に配属されていた一人の百人隊長が、病気で死にかかっている自分の大切な部下を、主イエスに助けていただこうとしたのでした。 百人隊長とは、文字通り、百人ほどの兵士の部隊を指揮する隊長です。ユダヤ人ではありません。恐らく、時の支配民族であるローマ人でもない、他民族出身の傭兵で、ヘロデ・アンティパス王の支配下にある部隊の百人隊長であったと想像されます。それは、ユダヤ人にとっては、自分たちを抑圧する支配者の手先の一人といってもよい存在でした。事実、ここで百人隊長は、自分の命令でユダヤ人の長老たちを使いに出すことさえできる権力を持っていたのです。普通ならば、ユダヤ人たちから嫌われこそすれ、尊敬されることなどあり得ない立場にあったのが、百人隊長という身分でした。ところが、この百人隊長は様子が違うのです。 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4~5節)。 当時のユダヤ教では、異邦人であっても、ユダヤ教を受け入れ、適当な手順を踏めば、ユダヤ人の会堂の一員になることもできたのです。この百人隊長が、そのようなユダヤ教改宗者であったかどうかは分かりません。しかし、少なくとも、ユダヤ教に敬意を払い、ユダヤ人を愛して、自ら私財を投じてユダヤ人のために会堂を建てるような人物でした。そして、ユダヤ人たちもまた、その百人隊長を、好意をもって受け入れていたのです。 とても不思議な光景にも思えます。もしかすると、この百人隊長は、主イエスの教えを聞いて知っていたのではないか、とも思わされます。ルカ福音書ではすぐ直前の6章に、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(6:27)との主イエスの教えが伝えられています。百人隊長は、まさに、この教えを実践しているかのようです。そして、ユダヤ人の長老たちも、百人隊長に対して、同じ教えを実践することによって応えているかのようです。百人隊長とユダヤ人の長老たちとの間に、互いに受け入れ合い、愛し合う、特別な関係ができていたのです。 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬところまで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました…」(6~7節)。 はじめ百人隊長が願っていたことは、自分の大切な部下の病気をいやしてもらうために、主イエスに来てもらうことでした(3節)。ところが、いよいよ主イエスが来てくださることになると、彼は、主イエスを迎えることを固辞するのです。呼んでおいて、追い返すような形になってしまいました。何か身勝手な態度のようでもあります。しかしまた逆に、非常にへりくだった態度のようでもあります。 私たちであったら、どうでしょうか。せっかく主イエスがおいでくださることになったのだから、是が非でもお迎えしようとするところではないでしょうか。そして、主イエスご自身にその御手を働かせていただけることなど、滅多にないことです。最初にお願いしたことだけでなく、ついでに、あれこれと求めたくなるところではないでしょうか。しかし、百人隊長の言葉は、こう続けられます。 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」 主の御言葉を一つ。百人隊長は、主イエスにそれだけを願います。主イエスにお出でいただきたい、しかし、ただ主の御言葉一つが自分のもとに届けば、それで十分だ。百人隊長は、使いによってそのように主イエスに伝えさせたのでした。 御言葉を聴く、御言葉を行う 私たちも、ある意味では、この百人隊長のように、主の御言葉だけで満足しています。私たちは、礼拝で、何よりも主の御言葉を聴きます。御言葉を聴くために礼拝に集ってきていると言っても、過言ではない。主のご復活を信じて、復活の主が今も生きてお働きくださっていると信じていても、だからといって、今、私たちは、目に見える姿で復活の主が現れてくださらなければ信じるのをやめる、というわけではありません。復活の主が、聖書を開いてくださり、そこから日々御言葉をお与えくださっていることを信じ、それで十分だとも思っているのです。 そのことも、私たちにとっては大切なことでしょう。ただ、主イエスが、この百人隊長を指して、「これほどの信仰を見たことがない」と告げられたのは、そのことに留まらない信仰を百人隊長の言葉に見られたからではないでしょうか。百人隊長は、こう続けたのです。 「わたしも権威のもとに置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。 百人隊長は、主イエスの御言葉一つが届くことを願いました。しかし、それは、ただ聴いてありがたいと満足して終わってしまう言葉ではありません。百人隊長は、主の御言葉を、権威あるものとして聴くのです。それに従い、行わなければならない命令として、聴くのです。彼は、御言葉の権威に服して、それに従い、忠実に行うとき、それを命じられた方の権威が実現することを知っているのです。ただ御言葉一つを与えていただいて、それを行うとき、主ご自身がおいでくださっておこなってくださるのと同じことが起こることを、知っているのです。 主イエスは、この百人隊長の信仰を見られたと、福音書は告げているのです。 私たちは、主の嘆きを思い起こさないではいられません。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(6:46)。私たちは、祈らないではいられない者です、「主よ、助けてください。お願いします。主よ、おいでください」。そのように祈りつつ、私たちは、「ただひと言おっしゃってください。主の御言葉一つをください」と求める信仰を導かれたいと願います。主の御言葉は、私たちに権威をもって告げられます。私たちが、主の御言葉に服し、従い、行うとき、必ず、主は私たちの間で御心を実現してくださるのです。 祈り 主よ。おいでください。ただ御言葉一つをお与えください。御言葉を聴く私どもを御言葉に服し、従い、行い、御心を実現する者とならせてください。アーメン |