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主日礼拝説教「遣わされる」 日本基督教団藤沢教会 2007年5月20日 1それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。2見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。3わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。4主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。5霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。6わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。7彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。8彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。9今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。 (エゼキエル書 43章1〜9節) 12使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。13彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。14彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。15そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。16「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。17ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。18ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。19このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。20詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』21-22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」23そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、24次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。25ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」26二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 (使徒言行録 1章12〜26節) 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書 28章16〜20節) キリストの昇天 教会の暦は、イースターから四十日目の先週木曜日に《キリスト昇天日》を迎えました。イースターに復活なさった主イエス・キリストが、四十日にわたって弟子たちと共に過ごされた後、天に昇られたことを記念する祝日です。 ルカ福音書と使徒言行録が伝えるところによると、主イエスは、ベタニアのオリーブ山(「オリーブ畑」と呼ばれる山)に弟子たちを伴われて、そこで天に昇って行かれました。それは、弟子たちにとって、愛する主イエスとの地上での最後の別れのときでした。しかし、それはつまり、弟子たちの新しい歩みの段階が始まることを告げ知らせる出来事であったのです。ある人は、このときを境にして、《キリストのとき》から《教会のとき》へと歴史が移ったと説明します。キリストの昇天という歴史上ただ一度起こった出来事によって、弟子たちは、間もなく約束の聖霊を受けて《教会》として歩み始めるための備えのときを歩み始めたのです。使徒言行録1章は、まさにこのことが進行していく様を物語り、伝えています。キリスト昇天の後、弟子たちは、オリーブ山を降り、一つところに集まって祈りを合わせ、主イエスのお選びくださった十二使徒の欠員の補充を行い、聖霊降臨のとき、つまり教会として歩み始めるときを迎える備えをしたのです。 昇天されたキリストと出会うところ マタイによる福音書は、このことを少し別様に告げています。 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(マタ28:16〜17) これは、弟子たちが主イエスの指示に従って山に登り、そこで主イエスに出会い、礼拝した、という出来事です。礼拝の出来事です。それを、マタイ福音書は、昇天の出来事の代わりに、ここに伝えています。山は、主イエスが弟子たちや人々に教えを語られた場でした。そこはまた、ごく限られた弟子たちだけにご自身の光り輝く栄光のお姿をお示しになられた場でもありました。今また、復活の主イエス、昇天なさるキリストが弟子たちに出会ってくださる場として、山が備えられたのです。そこで、弟子たちは礼拝をささげた。私たちもこれに加わるようにと教えられているのではないでしょうか。 私たちの礼拝です。主の日ごとの礼拝です。私たちは、主の日ごとに、いわば主イエスの指示しておられた山に登ってきているのです。そして、そこで主イエスと出会う礼拝をささげている。ここで出会う主イエスは、復活なさり、そして昇天された主イエスです。神の右に座しておられる神の子キリストです。神と等しいお方です。それ以外のお方ではない。そのような主イエス・キリストと出会い、伏し拝み、その御言葉を聴く。そのような主の日ごとの礼拝が、弟子たちの歩みの中で始められたことを、マタイ福音書は告げているのです。 そこには、疑う者もいた、と物語られています。私たちの礼拝にも、あるいは疑いつつ礼拝に加わっていらっしゃる方があるかと思います。けれども、疑いとは、信じないこととは違います。疑うと訳されている語は、「二つの方向に向かう」という意味の語だそうです。自分の中で、信じようとする思いと、信じない思いとが、同居している。神の右におられる主イエス・キリストに向かう思いと、別の者に向かう思いとが、同居している。それが、疑う、ということです。私たちの誰もが自分のことだと思い当たるかもしれません。しかし、そのような疑う者を含みながら、礼拝は進められるのです。それどころか、疑いを抱きながら集っている者に対して、主イエスは、語り告げられているのです。 「天と地の一切の権能」 イエスは…言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 (18節) 私たちは礼拝で、ただ聖書の知識を学んでいるのではありません。神について、キリストについて、神学的な解説を聞こうとしているのではありません。私たちは礼拝で、神の権能・権威の体現者としての主イエス・キリストと出会うのです。 そればかりか、主イエスを通して、真の権威の源である神と出会います。人が主張するあらゆる権威を捨てて、神の権威に服しようとしているのです。私たちの礼拝では、だれも、自分の権威、権能を主張しないのです。 もちろん、私たちは、礼拝が権威主義的になる危険を知っています。牧師や礼拝奉仕者が権威主義者になってしまう恐れがあることを知っています。そのことに対しては、私たちは、よく反省して自己を抑制しなければならないでしょう。けれども、そのことをわきまえた上で、なお良く覚えなければならないと思います。礼拝とは、真の意味で神の権威を明らかにし、私たちがそれに服する営みである、ということです。真の権威が決して軽んじられないためにこそ、私たちは、人間の主張する権威と神の権威とを峻別する主イエスの教えに、繰り返し耳を傾けようとしているのです。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。私たちは、信仰者らしく謙りながら、しかしなお、小さな些細な権威を主張しようとするかもしれません。しかし、「一切の権能を授かっている」と告げられる主イエスの権威に服することを学びたいと思います。 「すべての民を弟子にしなさい」 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(19~20節) 主イエスは、私たちを礼拝に導き、そこで出会ってくださいます。そしてそこで至福のときを私たちに与えてくださるかも知れません。私たちの礼拝の場は、昇天される主イエスのいらっしゃる山なのです。特別な場所です。主が、地上よりも少し天に近いところに、私たちの礼拝の場を設けてくださっているのです。そこで、至福のときを経験させていただくことが、私たちには許されています。 けれども、主イエスは、私たちを、いつまでも山の上の礼拝に留まらせはなさいません。「あなたがたは行きなさい」と、山の上から麓の地上へ、私たちを送り出されるのです。 そのように送り出されるのは、主イエス・キリストに目的がお有りだからです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、主イエスは命じられます。すべての人々をキリストの弟子にすること、つまり、父と子と聖霊の名による洗礼を授けてキリストと結びつけて、キリストの教えの権威に服して生きるように導くこと。そのことのために、私たちは、山から降り、礼拝から出て行って、この世の中で生きるのです。私たちの生きる目的です。キリストから与えられた生きる目的です。その目的を確かめ、見据えながら、キリストの派遣と祝福の言葉を思い起こしながら、牧師は礼拝の終わりに祝祷を告げているのです。キリストの祝福のうちに、礼拝の場からこの世の生活の場へと、送り出されていくのです。 「いつもあなたがたと共にいる」 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。 昇天なさって神の右にお座りになられた主イエスが、弟子たちから全く離れられたのであれば、このように告げられことは、おかしな気がします。けれども、昇天なさった主イエス・キリストは、山の上で、天と地を結ぶ礼拝で、繰り返し私たちと親しく出会ってくださるのです。 それでは、山から降りていったときは、どうでしょうか。礼拝からこの世へと送り出され、遣わされていったときは、どうでしょうか。そこでは、キリストが共にいてくださることを実感しているでしょうか。まさか、私たちは、この世の生活へと出て行ったときには、いつもキリストが共にいられたのでは困る、などと思っていやしないでしょうか。 私たちが礼拝からこの世へと出て行くとき、そのときに、主イエス・キリストは、どのようにして私たちと共にいてくださるのでしょうか。 主イエスは、「聖霊によって…」と約束されます。「聖霊に満たされた教会によって…」と約束されます。つまり、「聖霊を授けられた私たちお互いの一人ひとりによって」、主イエスは、今も、この世の生活の中で、私たちと共にいてくださるのです。 聖霊降臨祭を、間もなく迎えます。私たちは、聖霊を待ち望みます。聖霊を信じる信仰を、祈り求めます。自分に与えられる聖霊のみならず、むしろ、教会に与えられる聖霊、信仰者の友に与えられる聖霊を、信じて求めるのです。この信仰に生きるとき、私たちは、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げられる主イエスの御言葉に、確かな確信をもって、「アーメン」と応えることができる、そして、主のご命令に従ってこの世へと送り出されて行くことができるのです。 祈り 主よ。疑いながらも御前に進み出てひれ伏します。真の権威をもって御言葉をお告げください。主に結ばれて、御言葉を守る者とならせてください。アーメン
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