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ペンテコステ礼拝説教「与えられる」

日本基督教団藤沢教会 2007527

1世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。3彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。5主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。7我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」8主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。9こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。  
(創世記 1119節)

 

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」     (使徒言行録 2111節)

 

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

  (ルカによる福音書 11113節)

《聖霊》が与えられる

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)

主イエス・キリストの約束してくださっていた聖霊が与えられて、《教会》の歩みが始められた日。その日の出来事を、私たちは、《ペンテコステ(聖霊降臨祭)》として記念し祝っています。

ペンテコステとは、使徒言行録21節に出てくる《五旬祭》の原語に基づく呼び方です。《五十日目》という意味で、ユダヤの祭りの一つ《過越祭》から五十日目に祝われる《七週祭》を指すもう一つの呼び名です。過越祭の最中に起こった主イエスの十字架と復活の出来事、主の復活を記念するイースターから五十日目の日曜日に、キリスト教会はペンテコステを祝います。

もちろん、教会が祝うペンテコステは、ユダヤ教の祭ではありません。使徒言行録2章が語り伝えているように、主イエスの復活を信じて集まっていた弟子たちは、ユダヤの祭であるペンテコステの祝いのときに、新しい出来事を経験したのです。そのとき、弟子たちの集団のもとに聖霊が降り、皆が聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに諸国の言葉で神の御業を語り出した、そして人々はそれを聞いた。これが、教会の誕生とも表現される、新しいペンテコステの出来事です。

聖書に描かれているペンテコステの出来事は、何とも不思議な現象を伴った出来事です。けれども、聖書の物語が、言葉を尽くして告げようとしていることは、聖霊自体を私たちがどのように認識するのか、感じるのか、ということではないようです。むしろ、ここに描かれているのは、弟子たちの集団が聖霊を与えられたことによって、結果として、どのような集団になったのか、ということです。

主イエスの復活を信じて集まっていた弟子たちは、それまで一つところに集まって、自分たちの仲間内だけで、じっと祈りを合わせているばかりでした。ところが、聖霊が与えられたペンテコステの日から、皆が語り出したのです。神の偉大な御業を、語り出した。しかも、仲間内で語っただけでなく、外に向かって語り始めたのです。そして、その語られた言葉は人々に聞かれることとなった。しかもその言葉は、諸国の言葉で語られ、諸国の人々に聞かれるようになっていった。それが、このペンテコステの出来事として伝えられていることです。それが、教会の誕生として理解されてきたことの中心の事柄です。

聖霊が与えられるところ、しかもそれが一人一人に与えられて一同が聖霊に満たされるところで、神の御業が語られ、聞かれる。内に閉じてしまうことなく、外に向かって開かれながら、語られ、聞かれる営みが続けられる。私たちの教会も、そのような教会の末裔として、その一枝として、今に生きているのです。

《祈り》と《聖霊》

「聖霊よ、来てください」と、聖霊が与えられることを求めて、私たちはペンテコステの讃美歌を歌います。最初のペンテコステの前、主イエスから「父の約束されたものを待ちなさい」(使1:4)と告げられていた弟子たちも、「聖霊よ、来てください」と祈り求めていたのでしょうか。

主イエスは、十字架に架けられる以前から、繰り返し弟子たちに、神からの聖霊が与えられることを約束してくださっていました。私たちは、今日の礼拝のために定められた聖書日課の一つとして、そのような主イエスの約束が語られたことを伝える福音書に耳を傾けています。

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
                                 (
ルカ11:13)

主イエスはここで、弟子たちに乞われて《祈り》を教えていらっしゃいました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1)。そのように願う弟子に、主イエスは、まず、祈りの言葉をお教えになられました。「祈るときには、こう祈りなさい(2)、そう言われて教えられたのは、私たちが《主の祈り》として知っている祈りの言葉です。ほとんど同じ祈りの言葉が、マタイ福音書6章にも伝えられています。恐らく、主イエスが、弟子たちに繰り返しお教えになられた祈りの言葉であったのでしょう。弟子たちは、主イエスがお教えくださったこの祈りの言葉を覚え、自分たちが祈るときの言葉といたしました。そして、初代教会以来、キリスト信者は皆、信仰生活のはじめに、この祈りの言葉を教えられるようになったのです。

《主の祈り》の言葉を教えられたのに続いて、主イエスは、一つのたとえ話をされました。一人の人が、旅行中に立ち寄った友に出すためのパンを、真夜中に、別の友のところに借りに行く、というたとえ話です。はじめは冷たくあしらっていた友も、しきりに願われたならば、最後には、必要なものを出してくれるだろう。そういうたとえ話です。そして、このたとえ話を語られたのに続いて、主イエスは、有名な、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる(9〜10)という教えを語られたのです。主イエスは、弟子たちに、ただ祈りの言葉を教えられたのではなく、熱心に祈り願う態度、しきりに祈り求める姿勢をも教えられたのです。

もちろん、主イエスは、何でもわがままに欲するところを祈り願ってもよい、と言われたわけではありません。人間の父親が子供の欲するものを必要に応じて与えるように、天の父も、私たちの願いに応えて、私たちの必要なものをお与えくださる。そのような確信のもとに、熱心に祈り願うこと、しきりに祈り求めることを、お教えくださったのです。

ところが、この祈ることについての教えの最後に主イエスがおっしゃられたことは、少し唐突な気がいたします。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」というのです。ここではだれも、聖霊を願い求めているわけではありません。にもかかわらず、主イエスは、「熱心に祈り願う者、しきりに祈り求める者には、天の父が聖霊を与えてくださる」と、ここで告げられたのです。

《教会》が与えられる

フォーサイスという神学者の著書『祈りの精神』の最初のページで述べられている有名な一句に、「最悪の罪は祈らないことである」という言葉があります。私たちは、確かに、祈ることを疎かにする者だと思います。個人生活の中でも、教会生活の中でも、私たちは、形式的な祈りはささげているとしても、本当に祈ることを大切にしているとは言えない自分がいることに気づかされます。そして、私たちは、個人レベルでも教会レベルでも、祈りを疎かにすることによって様々な問題が生じ、また解決できずに暗礁に乗り上げてしまっていることを、薄々気づいているのではないでしょうか。にもかかわらず、私たちは、祈りの生活を熱心にすることが難しい。大切にすることさえ、なかなかできないのです。

こんな私たちには、天の父が聖霊を与えてくださらないのではないかと、心配になります。教会を造り上げる土台の聖霊を与えられなかったら、私たちの信仰生活はどうなってしまうだろうかと、心配になります。

けれども、私たちは、あまり自分の祈りの姿勢が熱心だとか不熱心だとかということに、とらわれるべきではないのかもしれません。私たちの祈りの生活がなっていないことなど、実は主イエスがよくご存じでいらっしゃることだからです。

主イエスは、なぜ私たちに、他でもない《主の祈り》をお与えくださったのでしょうか。幼児でも暗誦できる祈りの言葉です。何十年も唱えていなくても、だれかが唱え始めたとき記憶の底から甦ってくるような、祈りの言葉です。もしかしたら、私たちの気持ちが萎えていて祈ることができなくなってしまっているときでさえ、信仰者の仲間の唱える声に誘われて唇の先が自然に唱え始めるような、祈りの言葉です。そのような祈りの言葉である《主の祈り》を、主イエスは、私たちの祈りが絶えてしまわないように、お与えくださったのではないでしょうか。

《主の祈り》を唱えて祈り続ける信仰者の群れに、天の父は、聖霊をお与えくださる。聖霊を土台として、神の御業を語り聞く《教会》を立ち上がらせてくださる。その教会に連ならせていただいている私たち一人一人は、自分で自覚があろうがなかろうが、天の父からの聖霊をいただいているのです。私たちは、自分に与えられた聖霊が分からなくても、ここにいる教会の友に与えられた聖霊は分かる。信じることができる。その人が語る言葉を、神の御業を語る言葉、神に祈る真実の祈りの言葉として、聞くことができる。私たちには、そのような友と出会い、共に歩む《教会》を与えられているのです。

私たちの間に、すでに聖霊は与えられています。私たちは、この教会の交わりの中で、聖霊の現実を信じようではありませんか。神の御業の現実を信じようではありませんか。そして、この現実を大胆に証しする者として、この世へと出て行こうではありませんか。

 

祈り

教会の主よ。私どもを一つの共に祈る群れとならせてください。この交わりのただ中に聖霊の現実を信じ、見て、証して語る者とならせてください。アーメン