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三位一体主日礼拝説教「語るべきこと、聞くべきこと」

日本基督教団藤沢教会 200763

16三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。17しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。18シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。20主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。         (出エジプト記 191620節)

 

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。26だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。35わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで。」』

36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」   (使徒言行録 22236節)

 

三位一体主日

ペンテコステの次の主日を、西方教会は十世紀頃から《三位一体主日》と呼んできました。《三位一体》とは、《父・御子・聖霊》なる唯一の神を言い表すために古代教会以来用いられてきた用語です。教会史上、この《三位一体》の教義が、いわゆる正統と異端を分ける境目となってきました。《三位一体》の教義を受け入れる教会は正統、受け入れない教会は異端、とされたのです。そのような歴史の中で、ペンテコステに続く主日が《三位一体主日》と呼ばれて覚えられるようになりました。《三位一体主日》は、約束の聖霊を与えられた教会が、自らの言葉によって、自分たちの信じる神を言い表したことを覚える主日なのです。

 

ペトロの説教を聴く

さて、しかし、キリスト教会が自分たちの信じる神を自分たちの口で告白し、言い表したのは、《三位一体》の教義ができてからではありません。教会は最初から、自分たちの信じる神を自分たちの口で告白し、言い表してきたのです。

主イエスの復活を信じる弟子たちの群れに聖霊が降って教会が誕生した、最初のペンテコステの日、弟子たちは、自分たちの信じるところを語り始めました。使徒言行録は、その最初のペンテコステの日に語られたペトロの説教の一部を、今に伝えています。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げて、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知って頂きたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」(使2:14~16

このように始められたペトロの説教の後半部分を、私たちは今日の御言葉として与えられているのです。

ペトロはまず、旧約聖書のヨエル書三章を引用して、主イエスの約束くださった聖霊が老若男女すべての人に注がれることは、確かに旧約聖書によって約束されていたことだと語ります。主イエスは、旧約聖書の御言葉に徹底的に立ち戻って神の言葉を聞かれ、弟子たちに教えられました。それに倣うように、主イエスの弟子であるペトロも、旧約聖書の御言葉に立ち戻って、自分たちの群れが経験している聖霊降臨のペンテコステの出来事を語ろうとするのです。いや、ペトロらが語ろうとするのは、ペンテコステの出来事だけではありません。それまでに経験してきた主イエスの十字架の死と復活という出来事を、ペトロは、旧約聖書の御言葉を開きながら、語り告げるのです(22節以下)。

このペトロの説教を、あらためて詳しく解説するように語り直さなくてもよいでしょう。ペトロは、ここで詩編168~11節や詩編1101節などを引用しながら語っていますが、要するに彼が語ろうとしていることは、こういうことです。ナザレの人イエスこそが、神から遣わされた方であること、このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、人々に引き渡されたこと、そして人々は、十字架につけて殺してしまったこと、しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられたこと、そしてイエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださったこと、自分たちはそのことの証人であり、また今この言葉を聞いている人々は、まさに今このことを見聞きしているのだということ。

しかし、ここに伝えられていることを、このように要約してしまうのは、いかがなものかとも思います。これは、まさしくペトロが語った説教なのです。もちろん、誰かが録音をしておいたわけではありません。速記をしていたわけでもありません。その意味では、文字通りではないかも知れません。けれども、初代教会にあって、この説教は、間違いなくペンテコステの日のペトロの最初の説教として伝えられ、書き記され、繰り返し朗読され、聴き直されてきた説教なのです。そのような説教、ペトロやパウロが語ったとされる説教が、使徒言行録には、いくつも収められています。初代教会は、これらのペトロやパウロの説教を繰り返し聴き直したのでありましょう。ですから、私たちも、これを、ペトロの説教として、そのまま朗読し、聴き直すのが、一番良いのかもしれないのです。

今は、あらためて朗読をいたしません。けれども、各自で思い巡らして頂きたいのです。聖書という書物に記された文字の言葉としてではなく、もちろん朗読者の言葉としてでもなく、ペトロがここに説教者として立って、私たちに面と向かって、この説教を語ってくれたのだとしたら、私たちは、この説教をどのように聴くのでしょうか。主イエスの一番弟子、大使徒とも呼ばれるペトロ先生の説教だから、それだけでありがたいと思って、拝聴するのでしょうか。あるいは、いくら大使徒ペトロといっても、地方出身の無学な漁師出身の男だから、学問を修めたパウロのように洗練された深みはないな、などと思いながら聞くのでしょうか。いや、そのような先入観からの評価ではなく、実際、ここに伝えられているペトロの説教の言葉を聴いたならば、どのような感想を持たれるのでしょうか。

牧師は、礼拝が終わった後に受付に立って、お帰りになられる皆さんとご挨拶をさせていただいています。大抵の方とは、お互いに「ありがとうございます」との言葉を交わすだけです。けれども、中には、説教の感想をひと言おっしゃって帰られる方もいらっしゃる。そして、中でも良くお聞かせいただくのが、「今日は、痛い説教でした」というような感想です。牧師は、何も、皆さんの心を痛めつけようとして説教をしているわけではありません。できれば、聴く人の心が神の恵みに満たされて、充実感を味わいながら礼拝堂を後にしてもらいたいとも思っています。そういう説教を期待されているのだろうとも、思っています。けれども、そのような願いを持ちながらも、聖書の御言葉が、その御言葉を説き明かす説教の言葉が、聴く人の心を貫き、チクチクと痛めつけ、罪や弱さを明るみに出すことがある、ということから、説教者は逃げ出すわけにもいかないのです。

ペンテコステの日のペトロの説教を聴いた人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(37)たと、使徒言行録は伝えています。人々はこれを聞いて、強く心を刺され(口語訳)たのです。ペトロの説教は、人々の心をジーンと感動させるようなお話しではなかったし、今週一週間のための活力を与えてくれるようなお話しでもなかった。そうではなく、聴く人々の行ってきた過ち、間違いをはっきりと示し、自覚させるような言葉を、ペトロは語ったのです。

そのような説教を聴かされた人々は、ペトロから離れていったのでしょうか。ペトロの説教を、「もう結構だ」「うんざりだ」「聴く価値がない」と酷評して、別の説教者のところに行ったのでしょうか。

使徒言行録は、不思議な光景をここに伝えます。ペトロの、人の心を打ち、突き刺す説教を聴いた人々は、その日、ペトロの勧めに従って、悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しを信じて教会の仲間に加わったのです。その数三千人ほど。もちろん、離れていった者、別の説教者のところに行った者もいたかも知れません。また、聖書は大げさな数字を挙げているのだと言う人もあるかも知れません。けれども、少なくとも初代教会が、こう信じたことは確かです、ここに伝えられたものをはじめとするペトロらの説教こそが、教会に仲間を加え、成長させる原動力になると…。

 

「この時代」から救われるために

ペトロの説教の最後の言葉を聴き直したいと思います。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなければなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

この言葉は、直接には主イエスを十字架につける裁判に荷担したユダヤ人に向けられた言葉でしょう。けれども、私たちには関係ない言葉だとは言えません。ペトロは、こう言っているのです。「あなたがたは、過ちを犯した。あなたがたの今までの考え方、その考えに基づいた行動は、間違いだった。しかし、神は、その、あなたがたの過ちや間違いさえも用いられて、ご自身のご計画を遂行され、実現なさったのです。」

ペトロは、この日、このほかにもいろいろな話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた(40)と伝えられています。何も二千年前のペトロの時代が殊更に邪悪な時代だったというわけではないでしょう。私たちの時代も、同じなのです。今の時代を、私たちは、邪悪な時代だとは、あまり考えないかも知れません。そのような時代の中に生きているとは思っていないかもしれません。いや、時代が邪悪であっても、自分だけは、そんな邪悪な時代の中から抜け出して、きちんと距離を置いて生きていると、そのように、私たちは思いたいのです。一時的な時代の精神に絡め取られないで、永遠のキリストの精神・神の聖霊に導かれて歩みたいのです、生きたいのです。

だからこそ、私たちは、聖書の御言葉によって、御言葉を説き明かす説教によって、御言葉の礼拝によって、繰り返し悔い改めに導かれたいと願います。私たちの生きる姿勢を、自分たちの考えや思いや行動を中心に据える姿勢から、神の御心やご計画、その御業を中心に据える姿勢に変えられたいと願います。

初代教会の歩んだ歩みを、今ここでもはっきりと見ることが許されているということを、私たちは信じて歩み続けるのです。

 

祈り

主よ。約束くださった聖霊のお働きを信じます。恵みの御業を語らせてください。聴く者を深く悔い改めに導き邪悪な時代精神から救い出してください。アーメン