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子どもの日花の日合同礼拝説教「招待状は届いています」 日本基督教団藤沢教会 2007年6月10日 招きの言葉 38(すると、ペトロは彼らに言った。) 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 (使徒言行録 2章38〜39節) 詩編交読 1【都に上る歌。ダビデの詩。】 見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。 2 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り 3 ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。 シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。 (詩編133編) 福音書聖書日課 15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16そこで、イエスは言われた。 「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 (ルカによる福音書 14章15〜24節) 《子どもの日・花の日》 今日は、《子どもの日・花の日》の合同礼拝です。《花の日》という呼び方のほうが親しみがあるかも知れません。 《花の日》は、今から150年ほど前にアメリカの教会で始まった行事です。初めは、《子どもの日》として始められたそうです。日本では5月5日が《子どもの日》ですが、そのころのアメリカの教会では、大人の人たちが中心の行事ばかりで、《子どもの日》はありませんでした。そこで、子どもたちのための特別な行事をしよう、ということになり、《子どもの日》が始められたのです。そのときから、子どもたちが皆、神さまを信じ、イエスさまに従う心を持つようにと、6月の第2日曜日を《子どもの日》と決めてきました。 この《子どもの日》が、《花の日》と呼ばれるようになりました。それは、《子どもの日》に、教会の礼拝堂を美しい花で飾るようになったからです。その花のことを、アメリカの教会の人たちは《シャロンのばら》と呼びます。旧約聖書には、「わたしはシャロンのばら、野のゆり」(雅2:1)と歌う詩があります。「シャロンのばら」とか「野のゆり」というのは、美しく香りのよい花です。そこで、神の御子イエスさまのことを、教会の人たちは「シャロンのばら」とか「野のゆり」と呼びました。そのことを歌う讃美歌がたくさんあります。今日の礼拝でも、初めに聖歌隊が「シャロンの花」という讃美歌を歌いました。イエスさまは、美しく香りの良いシャロンの花のようなお方、そのイエスさまに心向けましょう、そのイエスさまの美しく良い香りを私たちもいただいて、イエスさまの美しさ、良い香りを他の人に伝える者になりましょう。そのように歌います。 今日、私たちも礼拝堂に美しい花を飾りました。この美しい花を見ながら、イエスさまの美しく香りよいお姿を心に思い描きましょう。子どもも大人も皆、イエスさまに集められた神さまの家族として、イエスさまの美しい良い香りを思い出しながら、神さまの恵みを分かち合いたいと思います。そして、この礼拝が終わったら、私たちは皆、この礼拝に出られなかった家族の人や隣人、友だちにも、イエスさまの良い香りを伝える者にならせていただきたいと思います イエスさまの大宴会のたとえ話 イエスさまは、いつも、私たち皆が、いいえ、私たちだけでなく世界中のすべての人たちが、イエスさまの良い香りを香らせる神さまの家族となることができるようにと、お働きくださったお方でした。今日も、ご一緒に、美しく良い香りのイエスさまがお話ししてくださったたとえ話に、耳を傾けましょう。 今日、私たちが聞いたのは、「大宴会のたとえ」と呼ばれるイエスさまのたとえ話です。イエスさまが、神さまを信じている人たちにお語りくださったたとえ話です。教会に集まる私たちにお語りくださったたとえ話です。 イエスさまの願いは、私たちが皆、神さまの家族となり、神さまの国に入れていただくようになることでした。ただ自分一人で「神さまを信じているよ」と思っているだけではなく、私たち皆が神さまを信じて、神さまの家族となって、神さまの国に住む人、《神の民》として共に、皆が一緒に生きるようになることを、願ってくださいました。そこで、イエスさまは、神さまの国、神さまの家族とは、神さまが招いてくださったたくさんの人たちが、神さまの開いてくださる盛大な宴会、パーティに集められているようなものだと、お教えくださったのです。 イエスさまのたとえ話は、このようなお話しです。 あるお金持ちの家の主人が盛大な大宴会を開くのです。家の主人は、あらかじめ大勢の人に招待状を送って、宴会に招いていました。さあ、宴会の準備ができました。家の主人は、招待状を送っていた人たちのところに使いの人を送って、準備ができたことを知らせます。「もう宴会の用意ができましたから、どうぞ来てください」。ところが、どういうことでしょうか、招待状をもらって呼ばれていた人たちは、次々に皆、行けなくなりましたと、断り始めたのです。ある人は、「新しく畑を買ったので、それを見に行きますから、宴会には行けません」と言います。別の人は、「牛をたくさん買ったので、それを確かめに行きますから、宴会には行けません」と言います。また別の人は、「結婚したばかりなので、宴会には行きません」と言います。皆、自分の用事があって、忙しいのです。自分の都合があるのです。それで、皆、宴会には行こうとしなかったのです。 せっかく盛大な宴会を開く準備をしたのに、招待状を送っておいた人たちが誰も来てくれなくて、その家の主人は、どう思ったでしょう。皆さんだったら、どうでしょうか。せっかくパーティの準備をしたのに、もちろん招待状も出しておいたのに、だれもパーティに来てくれなかったら、どんな気持ちになるでしょう。 その家の主人は、きっと、悲しい気持ちになったのだと思います。そして、怒って家の召し使いに言いました。「町に行って、だれでも、どんな人でも、連れてきなさい。特に、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を、連れてきなさい。そうだ、町中の人たちを、無理にでも連れてきて、宴会の席をいっぱいにしよう。そして、その人たちと宴会を楽しもう」。 神さまからの招待状 神さまは、私たち皆を、このたとえ話のような盛大な宴会に招いてくださっています。イエスさまは、神さまがご準備くださった宴会に招いてくださっているということを、何度もお教えくださったのです。言葉でお教えくださっただけではなくて、お弟子たちや他の人たちと食事をするときには、その食事の場が神さまの開いてくださる宴会を思い出す場となるようにと、導いてくださったのです。 イエスさまに従う私たちの教会の礼拝堂には、そんな神さまの宴会、イエスさまの食事をいつも思い出すために、大きな食卓(テーブル)が置いてあります。このテーブルは、《聖餐卓》とか《主の食卓》と呼びます。これは、ただの台ではありません。イエスさまの食事の食卓、神さまの宴会の食卓です。だから、やたらに物を置いたりしないのです。ただ、イエスさまの食事を記念する聖餐式のパンと杯、そして、私たちのささげる献金、この二つの種類の物だけを、藤沢教会では、ここに置きます。イエスさまの食事、神さまの宴会に招かれたら、それに応えて食事の席、食卓に着くのです。そして、お招きにお応えしたしるしとして、私たちは献金をこの食卓におささげするのです。 皆さん。神さまからの招待状は、皆さんのところに届いていますか。もちろん、もう届いていますよ。どこに届いているのでしょう。皆さんの家の郵便受けでしょうか。そういうこともあるかもしれません。でも、私たちは、神さまからの招待状を、今日は三つ、おぼえて帰りたいと思います。 一つ目。聖書が、神さまからの招待状です。聖書には、どこを開いても、もう、神さまの宴会の準備ができていること、神さまが私たちを招いてくださっていることが書かれています。聖書が、神さまからの招待状です。 二つ目。イエスさまが、神さまからの招待状です。イエスさまは、最初に聖書という招待状が届かなかった人たちにも神さまの招待状が届くようにと、神さまがお送りくださった招待状です。私たちは、何よりもイエスさまという招待状を心の中に覚えて、今も日曜日ごとに、神さまの宴会、イエスさまの食事に集められているのです。イエスさまが、神さまからの招待状です。 三つ目。世界中の教会と教会に集められている私たち一人一人が皆、神さまからの招待状です。世界中には、まだ聖書もイエスさまのことも知らない人たちが、たくさんいます。この藤沢の町の中にも、たくさんの聖書もイエスさまのことも知らない人たちがいます。そういう人たちにも神さまの招待状が届くようにと、神さまは、教会と私たち一人一人に聖霊をお与えくださって、神さまの招待状にしてくださったのです。だから、教会に集められている私たちは皆、礼拝が終わったら、神さまからの招待状として、出て行きます。そして、まだ聖書もイエスさまのことも知らない人たちに、神さまの招待状を届けるのです。教会と私たち一人一人が、神さまからの招待状です。 神さまからの招待状が、私たちのもとに届いています。お招きに応えてイエスさまの食卓の周りに集まりました。私たちの中で洗礼を受けた人は、イエスさまの食卓を信じる人です。私たちは、まだ洗礼を受けていない皆さんがイエスさまの食卓を信じて、洗礼を授けていただくときを迎えられますように願っています。 私たちは、イエスさまの食卓に招かれています。この食卓が、神さまの国、神さまの家族のしるしです。私たちは皆、この食卓に、いつも帰ってきましょう。 祈り 宴会にお招きくださる神さま。私たち皆がお招きに応えられますように。イエスさまと共に、どんな人とも食卓を囲む喜びを分かち合えますように。アーメン
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