印刷用PDFA4版2頁

主日礼拝説教「キリストのおかげです」

日本基督教団藤沢教会 2007617

 

11わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。12あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、14心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、15炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、16あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。17あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。18むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

19もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。20主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。         (申命記 81120節)

 

1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

隅の親石となった石』

です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4112節)

 

男の数が五千人

およそ二千年前の最初のペンテコステの日、聖霊に満たされて立ち上がった弟子たちが人々に語り始めたとき、人々は問いました。「わたしたちはどうしたらよいのですか」。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使2:37〜39)

教会は、誕生したその日から、人々に神の招きを告げて、キリストの名による洗礼を授けることによって仲間に加わるように呼びかけてきました。ペトロらの熱心な宣教活動は、ただの宗教的啓蒙活動でもなく、またただの宗教的慈善活動でもなく、新しい神中心の共同体形成に参与するようにという呼びかけとして、行われたのです。その結果を、使徒言行録は、ペンテコステのその日に三千人が洗礼を受けて仲間に加わった(2:41)と伝え、また、次のようにも伝えています。

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。(使4:1~4)

男の数が五千人ほど。聖書は、しばしば、男の数しか報告しませんが、初代教会では女性が活躍していたことが伝えられていますから、男性よりも女性が多く加えられていたかも知れません。私たちの教会のような男女比だったとしたら、女の数は一万人ほど、合計一万五千人ほどの信者が、ペンテコステから間もない初代教会には、仲間として加えられていたということでしょうか。

初代教会のこのような急激な数的成長は、にわかには信じがたいと思われる方もあるかも知れません。しかし、それにしても、聖書は、このような急激な成長を、一度ならず繰り返し、報告して記すのです。

確かに、時代状況によっては、このような急激な成長があり得ないわけではないことを、私たちは知っています。十八世紀のアメリカで起こった大覚醒運動・信仰復興運動は、新しい教会の急激な成長という結果を得ました。また、過去十年ほどの中国では、ある統計によれば、非公認の地下教会組織全体では、一日平均で数万人の新しい信者が洗礼を受けているとも言われます。二千年前、ペンテコステの教会の急激な成長も、あながち誇張とも言えません。

日本の教会でも、かつてキリスト教ブームと呼ばれた時代に、多くの信者が新しく加えられた経験をいたしました。規模は大小様々でしょうが、教会の急激な数的成長というのは、ときに起こりうることです。しかし、そのときに大切なことは、それが、だれのおかげで起こったと考えるか、というところにあるのではないでしょうか。

「何の権威によって? だれの名によって?」

表面的に見れば、ペトロやヨハネら使徒たちを中心とする熱心な宣教活動によって、初代教会の急激な成長はもたらされました。彼ら使徒たちのおかげで、初代教会は急速に発展することができたのです。

けれども、彼ら使徒たち自身は、自分たちの働きや教会の成長発展が自分たちの力によるなどとは、少しも主張しませんでした。ユダヤの宗教指導者たちに捕らえられて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によって、ああいうことをしたのか」と尋問(7)されたとき、ペトロは、こう答えたのです。

そのときペトロは聖霊に満たされて言った。「…この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(8〜12)

「イエス・キリストの名によって」。ペトロは、いつも、このように語ります。いつも、イエス・キリストの名を出すのです。しかし、それは、私たちが何か議論しているときに、自分の主張を正当化するために専門家やその筋の権威の名前を挙げて、その人の主張を援用するのとは、訳が違うようです。ペトロは、ユダヤ人やその宗教指導者たちに向かって語りますが、彼らは、そもそもイエスという人物を専門家とも律法研究の権威とも考えてはいませんでした。ですから、ペトロがイエス・キリストの名を出すのは、相手を説き伏せるためではないのです。

それでは、なぜ、ペトロは繰り返しイエス・キリストの名を出すのでしょうか。

旧約聖書に出てくる十戒の第三戒に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という言葉があります。この戒めに従って、ユダヤ教徒は聖書中の神の名とされる単語を、わざわざ、「主人」という意味の語の発音で置き換えて読みます。しかし、どうして、「主の名をみだりに唱えてはならない」のでしょうか。いろいろな理由があるのでしょうが、一つの理由は、名を唱えるということが、元来、その相手を呼び出すことと一つだからだと言われます。

私たちは、誰かに用事があるとき、相手が大人であれば、遠くから呼びつけたりしないで、自分から近くに行って用事を告げるでしょう。相手が子どもだと(ましてや我が子だと)、用事を言いつけるために、遠くにいる子どもの名を呼んで、自分のところに来させます。ところが、そのように名を呼んで近くに来させる子どもが、今度は逆に、その大人(親)を必死に呼んで、願い事を実現しようとしたりいたします。特に親子の場合には、対等ではない関係の中で、しかも互いに相手の名を呼び合うという、一種の信頼関係が生まれてくるようです。

ペトロは、イエス・キリストの名を出します。主イエス・キリストの名を呼ぶのです。しかし、私たちが思い起こしておくべきことなのは、ペトロが、すでに主イエスから何度も名を呼ばれてきた者だ、ということです。主イエスに名を呼ばれて弟子となり、従い、教えられ、導かれてきたのです。そのペトロが、主イエスの名を呼ぶとき、そこには、子が親を呼ぶような意味での、深い信頼が込められていたのに違いありません。「主イエスであったら、必ず来てくださり、その力でお働きくださる」という信頼によってこそ、ペトロは、イエス・キリストの名を繰り返し出して語ったのでありましょう。

その意味で、ペトロは、自分の経験した病気の癒しの出来事や教会の成長発展が、キリストのおかげなのだと、そのことを告げているのです。

 

主を忘れない

礼拝のたびに新約聖書と合わせて開かれる旧約聖書が、私たちに繰り返し告げていることは、私たち人間が、いかに忘恩の輩かということです。「神の民・イスラエル」と呼ばれるユダヤ人たちでさえ、神の恩義を忘れる危険にいつもさらされていたことを、私たちは、主ご自身の警告の御言葉から教えられます。

わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい(8:11〜18)

「ただキリストのおかげです」と、私たちは、日々の生活の中で、教会の営みの中で、どれだけ徹底して言えているでしょうか。私たちは、「皆さんのご協力のおかげです」とか、「誰々さんの貴いご奉仕のおかげです」ということは言うのです。けれども、それだけのことしか言わないのだとしたら、私たちは、教会である必要はないでしょう。キリスト信者である必要はないでしょう。そういうことをきちんと互いに言える人は、世の中にいくらでもいらっしゃるのです。私たちがキリスト信者であるということは、キリストの教会であるということは、そこで、互いの働きを覚え合うだけでなく、その背後に本当にお働きくださっている方、主イエス・キリストをきちんと認めて、そのことを証しする者である、ということです。

主の御名を呼び、イエス・キリストの名を口にするとき、私たちは、そこで確かに主がおいでくださり、イエス・キリストがお働きくださることを、腰を据えて見届けたいと思います。キリストの名を出したならば、自分の手の業や知恵に頼ることを、少しずつでも捨てるのです。自分の《我》の領分を、少しずつでも明け渡すのです。キリストが、そこにお出でくださってお働きくださることを、確かめるのです。「キリストのおかげです」。キリストの名によって立つ私たちには、いくらでも、そのように証しして言うべき経験が与えられているのです。

 

祈り

主なる神。御名によって人々を招き、仲間とならせてください。キリストのゆえに今あることを深く認め、御業を証しする言葉を得させてください。アーメン