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主日礼拝説教「だれと一緒に行きますか」 日本基督教団藤沢教会 2007年6月24日 1主の言葉がわたしに臨んだ。2「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。4お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。5彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。9それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。(エゼキエル書 34章1〜10節) 26さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32彼が朗読していた聖書の個所はこれである。 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。 毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。 33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。 彼の命は地上から取り去られるからだ。」 34宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」† 38そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。39彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。40フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 (使徒言行録 8章26〜38節) 3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書 15章3〜7節) だれと一緒に? 今日6月24日は、教会では古くから守られてきた記念日の一つです。主イエスのご降誕を祝うクリスマスの前日から遡ることちょうど半年、主イエスよりも六ヶ月前に誕生したと伝えられる洗礼者ヨハネを記念する日なのです。私たちの教会の伝統ではすでに失われた習慣ですが、あながち捨てたものでもありません。ペンテコステの祝いを終え、クリスマスの祝いまでの半年を歩み始めるにあたって、主イエスの先駆者、主の道を整えた人、洗礼者ヨハネを覚えるのです。 《主イエスの先駆者》とは、人々が主イエスをお迎えするための道備えをした者、という意味です。クリスマスに洗礼を受けることを志願される方の多くは、ちょうど今頃から相談にお出でになられます。そして、クリスマス礼拝に向けて洗礼準備の歩みをご一緒に始めます。それは、まるで主イエスの先駆者ヨハネと共に、主イエスに至る道をご一緒に歩んでいくかのようなことです。 もちろん、一人の人を洗礼まで導くことは、牧師ひとりによって為されることではありません。洗礼志願者が牧師のところに相談に来られるまでに、すでに、どなたかが、教会に誘い、礼拝に導いてくださっていたのに違いありません。あるいは、礼拝生活をご一緒に過ごしてきてくださっていたのに違いありません。 四月の教会総会で採択した三ヶ年伝道基本方針等をまとめた小さなパンフレットに、「一人が一人をキリストのもとへ」という表題を入れました。教会はいろいろな伝道方針を掲げるけれども、要するにこれが私たちの営みの原点だという意味で、この言葉を表題としたのです。私たちの信仰の営みは、決して自分一人で為しうるものではありません。むしろ、いつも誰かに導かれながら、誰かに誘われながら、誰かに伴われながら、信仰の営みを続けます。あるいは逆に、誰かを導きながら、誰かを誘いながら、誰かを伴いながら、信仰の営みを続けます。 難しく考える必要はありません。素朴に考えていただきたいのです。 礼拝に、だれと一緒に来られたでしょうか。一人で来られたのでしょうか。ご家族や友人を伴われて来られたのでしょうか。ぜひ、誰かを伴ってお出でいただきたい。そうでなければ、ぜひ、誰かに伴われて、お出でいただきたい。あるいは、一人でお出でになられても、ぜひ、誰かを伴って席に着いていただきたい。誰かに伴われて、席に着いていただきたい。そのようにして、私たちの信仰というものが、ただ一人で為しうるものではないことを、思い起こしていただきたいのです。キリストに伴われ、キリストにある信仰の友に伴われて、私たちの信仰が成り立っていることを、確かめていただきたいのです。 さらに申し上げるならば、礼拝を終えてこの世の生活に戻って行かれるときにも、誰かと一緒に歩み出していっていただきたいのです。もちろん、夫婦ででもなければ、実質的に一緒に歩むことは難しいかもしれません。けれども、それぞれの生活があってもなお、週日の生活の中で信仰者の友が自分と共に歩んでくれる存在としていてくれることを、繰り返し確かめていただきたいのです。主イエスは、弟子たちを必ず二人一組にして送り出されました。この礼拝に集う皆さんが、今週の週日の歩みの中で、どの信仰の友のことも思い出さないというようなことがあってはなりません。皆さんの中に、週日の歩みの中で、どの信仰の友にも覚えられていないというような思いに駆られる方があってはならないのです。 追いかけて、一緒に行く これらのことを心に留めつつ、その上でなお、私たちにもう一つ踏み込んで呼びかけられていることを、御言葉から聴き取りたいと思います。 使徒言行録8章は、フィリポという一人の人の伝道の歩みの逸話を伝えています。フィリポは、初代エルサレム教会で、使徒たちとは別に立てられた奉仕者の一人でした。もっぱら伝道牧会者としての務めを行う使徒たちに代わって、教会の中で食事の分配の世話などの奉仕をするために、フィリポら七人の奉仕者が立てられたのです。ここに記されているのは、そのフィリポが、エチオピアの女王に仕える高官に伝道する機会が与えられ、洗礼を授けるに至った逸話です。 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。(26節) 主の天使というものが、どういう存在を指しているのかは分かりません。しかし、天使と訳されているのは、「使者・伝令」という意味の語です。要するに、フィリポは、この言葉を、主の命じられたことと受けとめて聞いたのです。 主は、人々が多くいるところにではなく、寂しい道に、彼を遣わされます。そこに人がいるとすれば、ひとりでいる可能性の高いところに、フィリポは遣わされたのです。そして、そのようなひとりを、フィリポは見出します。 折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。(27〜28節) エチオピア人の高官は、エルサレムで礼拝をして帰る途中でした。礼拝帰りに、聖書を読んでいたのです。けれども、彼はひとりだったのです。だれも伴ってくれない寂しい道を、この人は歩んでいました。 私たちは、新来会者、未信者、求道者の人を、このように礼拝から帰してしまっていないでしょうか。勇気をもって礼拝に来られ、熱意をもって聖書を学ぼうとしているのに、教会の誰も、その人に伴おうとしない。一緒に歩もうとしない。そういうことにならないようにと、主の天使は、命じて探させるのです。主の霊は、命じて、追いかけて行かせるのです。 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。(29〜31節) フィリポは、こうして、この高官に同道します。そして、聖書に物語られているとおり、この高官に洗礼を授けるに至るのです。 このフィリポは、教会で伝道牧会者として立てられた人ではありません。ひとりの奉仕者に過ぎないのです。それでもフィリポは、そのときごとに、ひとりの人をキリストへと導き、洗礼へと導くために、用いられました。交わりから忘れられていたひとりの人を探し出して、追いかけて、一緒に行き、伴った。これは、教会に集わされている私たち一人ひとりに託され命じられている使命なのです。 九十九人を残しても、一人を見つけ出そう 主イエスの語られた《見失った羊のたとえ》を、思い起こしたいと思います。 主は、「…その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15:4)と語られます。私たちは、教会という主の牧場の中にいると、どうしても九十九匹に気をとられてしまうように思います。けれども、主イエスは、九十九匹を残しておいてでも、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回られる、というのです。 もちろん、その見失った一匹を見つけ出してくださるのは、究極的には主イエスその方です。しかしまた、主イエスは、天使を通して、霊によって、フィリポに命じられたように、私たち一人ひとりにも、その一匹を捜し回ることを、見失った一匹を見つけ出すことを、命じてもいらっしゃるのです。 難しいことではありません。主は、勇気をもってこの礼拝にお出でになられたのに、ひとりで帰って行ってしまうことになるかもしれない一人を、見出しなさい、追いかけなさい、その人と一緒に行きなさい、と言われるのです。そのとき、私たちは、もしも九十九人の中に残っていたのでは知ることができなかったかもしれない喜びを発見するでしょう。 …彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。(38〜39節) 九十九人の中で喜びを分かち合うことも、私たちに与えられた恵みです。そしてまた、そこを離れて、見失われた一人を捜し出し、キリストのもとへと導き、その人が喜びにあふれて歩み続けることになるのを見ることも、私たちに与えられた大きな恵みなのです。 あなたは、だれと一緒に行きますか。 祈り 主なる神。あなたはいつも一緒にいてくださいます。どうぞ、私どもを遣わしてください。だれと一緒に行けばよいか、聖霊によってお示しください。アーメン
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