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主日礼拝説教「善意を尽くすならば」 日本基督教団藤沢教会 2007年7月15日 8ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。9ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、10サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。11今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。12わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。13主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。14古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。15イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。16主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」 17ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、18ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。19お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。20自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。21今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。22主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」 23ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った。 (サムエル記上 24章8〜23節) 1兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。3実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。5めいめいが、自分の重荷を担うべきです。6御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。7思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。 (ガラテヤの信徒への手紙 6章1〜10節) 《霊》に導かれて生きる 兄弟たち、…“霊”に導かれて生きているあなたがた…(1節)。 パウロは、そのようにガラテヤの教会の人々に、呼びかけています。この手紙を記してきたパウロが、最後にたどりついたのが、このことです。「あなたがたは、《霊》に導かれて生きる者です!」。パウロは、ガラテヤの教会の人たちが《霊》に導かれて生きる者なのだと、ここで断言しているのです。 このパウロの呼びかけ方は、ある意味で不思議です。パウロは、ガラテヤの教会の人たちがパウロの教えた福音から離れてしまっていることを、厳しく咎めてきたのでした。「あなたがたは、《霊》の導きに従わずに、《肉》の望むところに従っているではないか」と警告して、「霊の導きに従って歩みなさい」(5:16)と告げなければならなかったのです。それが、ここでは、「“霊”に導かれて生きているあなたがたは」と、呼びかけている。しかも、そのあなたがたは「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら…そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と、勧めているのです。 パウロという人は、《霊》に導かれて生きた人でした。彼は、《霊》に導かれて生きることをひたすら求めて生き抜いた信仰者だったのです。ところが、パウロの宣教によって生み出されたガラテヤの教会の人たちは、必ずしもパウロ先生のようには生ききることができなかったのだろうと思います。いや、ガラテヤの教会の人たちだけでなく、私たちの多くも、とてもパウロのように《霊》の人として生ききることができない、という思いを抱きながら、信仰者としての道を歩んできたし、今もそのように歩んでいる者なのではないでしょうか。 そういう、教会に連なる一人ひとりに、パウロは、大胆にも告げているのです。「あなたがたは《霊》に導かれて生きている者です。だから、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら…そういう人を…正しい道に立ち帰らせなさい。」 こういう御言葉を聴くとき、私たちは、簡単にへりくだって見せたりしてはいけないのだと思います。「いえいえ、私など《霊》に導かれて生きるなんて、まだとてもそんな信仰に達していませんよ」などと、いかにも謙虚な顔をしてみたところで、何の意味もないと思います。そうではなく、パウロが大胆にも私たちに告げてくれている言葉、「あなたがたは、《霊》に導かれて生きている者なのです」という言葉を、大まじめに「これは自分のことなのだ」と受けとめたいと思うのです。なぜなら、パウロは、信仰者の群れに属し、教会の交わりの中に生きるとは、そのような者として歩み、生きることなのだと告げているのだからです。 互いの《重荷》・自分の《重荷》 もちろん、パウロは、《霊》に導かれて生きている者が優れていると言うのではありません。「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。…」とも告げています。そのように警告しながらですが、パウロは、《霊》に導かれて生きる者の歩み方を、こう教えるのです。 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(2節) 「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5節) パウロは、この二つが《霊》に導かれて生きる者の群れ、教会の交わりの歩みの中で大切な点だといいます。 「互いに重荷を担いなさい」。ここで「重荷」と訳されている語は、「苦労・負担」という意味の語です。「まわりに負担をかけるところがあっても負ってやりなさい」という意味だと理解してもよいかもしれません。ある人は、「《お荷物になる人》であっても一緒に連れて行きなさい」という意味だと解説しています。 そのように説明されると、思い当たります。まわりに負担をかけてばかりの人、いつもお荷物になっている人。もちろん、私たちは、たとえそのように思われる人であっても、簡単に厄介払いいたしたりはしません。パウロが直前で「愛によって互いに仕えなさい」(5:13)と教えているように、私たちは、教会の中で負担をかける人がいても、お荷物になっている人がいても、そのような人に愛をもって接して、一緒に教会生活を送っていこうと、努力して歩んでいるのです。少なくとも、そのような願いを持って歩んでいます。ただ、私たちは皆、そういった努力を惜しまないものであっても、しかし、それがあまりに長期戦になり、事態が一向に改善しないということになると、だんだんと倦み疲れてきてしまうということも事実ではないでしょうか。これが、キリストの律法を全うすることになると言われるほど善いことであるとしても、報われることの少ないとき、私たちは徒労感ばかり抱いて、もう一歩も前に進めないというところに立ち止まってしまうこともあるのではないでしょうか。 そういう現実を思い起こさせながら、パウロは二つ目の教えを加えて記します。 「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」。こちらの「重荷」という語は、「積荷・荷物」という意味の語が用いられています。主イエスが「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ11:28)と語られたときの「重荷」と同じ語です。「自分の責任を自分で果たすべきです」という意味だと理解してよいでしょう。 私たちには、担っていかなければならない責任があります。互いに負担をかける人を一緒に連れて行くということについても、教会に連なる私たちの担うべき責任として託されていることです。一人ひとりに神から託された責任です。誰かに代わってもらうわけにはいきません。教会の交わりの中で、あの人のこと、この人のことを、私たちは、この自分が負っていくべき一人、歩調を合わせて一緒に歩んでいくべき一人として、神から与えられているのです。しかし、そのように重い責任・使命を神から与えられているからこそ、私たちは、その責任を果たそうと努力するとき、その使命を果たそうとするとき、疲れてしまうのです。 このようなことを強いて教えるパウロは、私たちとは信仰のレベルの違う、疲れ知らずのスーパー信仰者だったのでしょうか。聖霊が特別たくさん満たされたカリスマ伝道者だったのでしょうか。私は、むしろ、パウロが常に主イエスの御言葉と深く結びつきながら言葉を語っていることに、答えがあるように思います。パウロもまた、主イエスの「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という御言葉を知っていたのでしょう。彼もまた、神から託された責任・使命に向かっていくとき、ときに疲れ果ててしまったことがあったのではないでしょうか。そして、そのような中で、祈りのうちに主イエス・キリストのもとに立ち帰り、心身の休息を得たのではないでしょうか。 《神の家族》の中でこそ サムエル記上24章のダビデとサウル王の物語を聴きました。サウル王が若きダビデに対して悪意をもって攻め立てたとき、ダビデは、サウル王を攻撃するのではなく、むしろ、「この人は主が油注がれた方だ」と言い、善をもって応じ続けたと、この物語は語っています。サウルとダビデは、共にイスラエルの全家を治めるために神によって油注がれ、立てられた人物でした。お互いに、神の民の仲間でした。ところが、サウルは、主の御心から離れ、過ちに陥るようになったのです。神の家族の中で、サウル王は、いわば《お荷物》になったのです。けれども、ダビデは、サウル王に対して善意を尽くしました。サウル王が、主の油注がれた一人だからです。少なくとも一時は主の聖霊が降っていた人だからです。しかし、ダビデは、その歩みの中で疲れ果てていったのです。何度も、絶望的な思いにとらわれたのです。そして、結局、ダビデは、二度とサウル王と共に歩むときを迎えることができなかったのでした。 私たちは、教会という《神の家族》の交わりの中の人間関係で、ダビデほどに疲れ果ててしまうことは滅多にないと思います。しかし、たとえサウル王のように悪意をもって向かってくる者と向き合わなければならないことがあるとしても、私たちは、ダビデのような絶望を味わうことはないのです。ダビデのように疲れてしまうことはないのです。なぜなら、私たちには、主イエス・キリストが与えられているからです。主の油注がれた方=キリストであられながら、人の手によって打たれ、十字架に死なれた主イエスがいらっしゃるからです。 この方、主の前で、私たちは立場が逆であることに気づきます。この自分こそ、神にご負担をおかけしている一人ではないか。この自分こそ、周囲の人たちのお荷物になって世話を焼かせている者ではないか。この自分こそ、サウル王のように振る舞ってきた者ではないか。にもかかわらず、私たちは、キリストに結ばれる洗礼によって、主の油を注がれた者、主の聖霊を注がれた者とされているのです。《聖霊》に導かれて生きる者とされているのです。 私たち自身が疲れ果て、善意が尽きてしまうときにも、私たちは、聖霊の導きのうちに、キリストの尽きない善を行い続ける者とならせていただくのです。 祈り 主なる神。洗礼によって聖霊に導かれて生きる者とされていることに堅く立たせてください。御心に適った善を行い続ける者とならせてください。アーメン
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