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主日礼拝説教「キリスト者らしさって何ですか」 日本基督教団藤沢教会 2007年7月22日 1ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。2ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、3王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」4女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。 「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。5日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」 6彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、7追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。 8二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、9言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。10あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。11それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。12わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。13父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」14二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」 (ヨシュア記 2章1〜14節) 3:17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 (フィリピの信徒への手紙 3章17節〜4章9節) キリスト者らしさ 私たちの教団の主日聖書日課は、先週から使徒書簡を中心に御言葉を聴くように定めています。あらかじめ与えられている御言葉を見渡してみると、そこには、私たち教会に連なる信仰者、キリスト者が、教会にあって、またこの世にあって、いかに生きていくべきかという指針が、二千年の時の隔たりを越えて、私たちに告げられていることに気づかされます。そのような見通しを立てながら今日の御言葉を聴く備えをすでに六月初頭には始めたのですが、そのような中で、「キリスト者らしさって何ですか」という、些かおかしな説教題を付けてしまいました。 「キリスト者らしさとは何か」ということを、私たちすでに洗礼を受けたキリスト者として歩みを始めている者は、あまり真剣に考えなくなっているかもしれません。ところが、これから洗礼を受けようという求道者の多くは、このことを非常に真剣に問われます。あるいは、すでに洗礼を受けた方であって、ご家族の中の洗礼を受けていらっしゃらない方から、このことを厳しく問われているという方がいらっしゃる。牧師も、ときに教会の中で人間関係がこじれた場合などに、当事者の一方から、「あの人はあれでもクリスチャンですか」と問いつめられることがある。キリスト者自身が考える以上に、私たちは、「キリスト者らしさとは何か」という問いに囲まれながら、キリスト者として歩まされているのです。 自分の信仰の歩みを振り返るならば、私たちはそれぞれに、かつて、真剣に「キリスト者らしさとは何か」ということを問うたときがあったと思います。 私が初めて「キリスト者らしさ」ということを考え始めたのは、中高生の頃でした。三浦綾子さんの小説などを紹介されて読み始めていたこともありました。しかし、もっと身近なところで、教会の先輩の姿を間近で見るようになったことが大きかったようです。たとえば、当時、私の通っていた教会では、アウトドアのキャンプが盛んに行われていました。自前のキャンプ場を持っていて、男子学生を中心とする青年が大勢、キャンプ委員と称して、七月下旬からキャンプ場入りし、十日ほどかけて設営準備、その後、二週間ほどかけて行われる各科のキャンプが終わるまで、交代でキャンプ場とキャンパーを守る役割を果たしていました。そのキャンプ委員の青年方は、キャンパーとして参加する子どもたちにとって憧れの的でした。その黙々と禁欲的に奉仕する姿が、子どもたちに強い印象を与えていたのです。そして、そのような経験をする中で、中高生のクラスでは、おのずと「キリスト者として生きるとはどういうことか」ということが真剣に話し合われる雰囲気がつくられていたのです。教師に導かれてというよりも、中高生同士で自然に、「キリスト者らしさとは何か」ということを問い合いました。そして、一人また一人と洗礼を受けるに至ったのです。もっとも、青年キャンプ委員の禁欲的な姿というのは、自分自身がキャンプ委員として加えられていく中で徐々に一面的な見方であったことに気づかされていったのですが、その後も、教会の中の信仰の先輩方の後ろ姿を見る中で、繰り返し、「自分もああいうキリスト者になりたい」という思いを与えられながら、自分自身のキリスト者としての生き方、振る舞い方を新たにさせられてきたように思います。 「わたしに倣う者となりなさい」 主イエスは、もちろん、私たちに、信仰者として歩んでいく者としての生き方、振る舞い方を教えてくださっています。福音書を通して、私たちは、繰り返し、直接、教えられます。そして、主イエスご自身が「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」(ヨハ13:15)とおっしゃられたように、私たちは、主の後に従うだけでなく、主に倣って生きる生き方へと導かれています。 しかし、また私たちは、教会に連なる一人として、教会の中で、信仰の先輩の生き方、歩み方に倣って、自分自身の信仰者としての生き方、歩み方を整えられていくことも、大切にしたいと思います。そればかりか、私たちすでに信仰者としての歩みの年月を重ねてきた者は、その年月の長さに応じて、自分自身が他の信仰者、特に後から歩み始めた信仰者にとっての倣うべき対象になっていることを、深く自覚する者でもありたいと思います。 パウロは、しばしば、教会に向かって語りました。 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(3:17) パウロのこういう勧めの言葉を聴いて、「パウロは何て自信過剰で傲慢な人間なのだろう」と感じる方もあるかと思います。確かに、私たちは、信仰の深みというものに触れるほど、自分自身の弱さ、愚かさ、罪深さを認めないわけにはいかなくなってきます。自信をもって「俺に着いてこい」とか「私の言うとおりにしなさい」などとは、言えなくなってきます。しかし、そうだとしても、私たちは、簡単にパウロの言葉を聞き流してしまってはいけないと思います。パウロは、自分に従うように教えているのではなく、また、自分のようになることを要求しているのでもないからです。そのかわりに、パウロはこう語っています。 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(3:30〜21) パウロは、「わたしたちの本国は天にあります」と語って、私たちの目を何よりも天に向けさせます。まず何よりも、私たちキリスト者がどこに目を向けて生きていくべきかということを、きちんと倣って欲しいと言うのです。すぐ前のところで、パウロは、こうも言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:13〜14)。ひたすらキリストの十字架を通して天を仰ぐこと、これが第一にパウロが「わたしに倣いなさい」と勧めていることでありましょう。 しかし、パウロは、ただ私たちキリスト者の信仰の心の姿勢について教えている、というだけではないようです。「キリストは…わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と、パウロは言います。パウロは、これを、「終わりのときには」とか「復活の日には」などといった条件を付けて言っているのではありません。今すでに、キリストが自分の内に働きかけてくださって、古い自分を新しく変え始めてくださっている。そう信じて、キリストによって変えられていく新しい人・真のキリスト者の究極の目標の姿として、主イエス・キリストを知り、キリストに倣うことを、心から願って生きたのが、パウロだったのではないでしょうか。だからこそ、パウロは、別の手紙では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(Tコリ11:1)とも勧めたのです。 主によってしっかりと立つ パウロの伝道者としての歩みは、アンティオキア教会からバルナバと共に派遣されたところから始まりました。アンティオキアは、主イエスに従って生きる信仰者たちが、はじめて「キリスト者」と呼ばれるようになったところです。その呼び名は、初め、周囲の人々が軽蔑を込めて呼んだあだ名だったといわれます。パウロ自身は、この呼び名を使うことはあまり無かったようです。けれども、パウロほど、主イエス・キリストに従う信仰者を「自分はキリスト者である」との自覚に導いた伝道者はいなかったのではないでしょうか。彼は、信仰者の生き方を明確に、キリストによるものとして教えてくれているのです。 私たち信仰者は、キリストによって示される《天》を目標として仰ぎ望みつつ生きます。私たちは、内にお働きくださるキリストによって日々新たにされ、キリストに似た者へと造り変えられながら生きます。そのようにして、私たちキリスト者は、日々、主によってキリスト者として新たに立てられていくのです。 田舎町の教会は、しばしば、近隣から「キリストさん」と呼ばれるそうです。私たちは、周囲の人から「キリストさん」と呼ばれるほどに、主にあるキリスト者として立たせていただいているでしょうか。キリスト者として生き抜いたパウロの勧める言葉を、私たちは深く心に刻みたいと思います。キリスト者として倣うべき事柄を深く体に刻みたいと思います。私たちもまた、キリスト者として後から続くものに見られ、倣われているという自覚を、深く覚えたいと思います。 祈り 主よ。主に倣い、主によってキリスト者として生き抜かれた先達に倣い、日々新たにキリスト者として造りかえられて立たせていただけますように。アーメン |