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主日礼拝説教「苦しみを受ける理由」 日本基督教団藤沢教会 2007年7月29日 3それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、4彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」5彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」6見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。7主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。8エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。9エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」10エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」11主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。13それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」15主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。16ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。17ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。18しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」 (列王記上 19章3〜18節) 8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。10「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、11悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。12主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」 13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。 (ペトロの手紙一 3章13〜22節) キリスト者として生きる 教会学校の教師方と共に夏期学校の準備の話し合いを進める中で、久しぶりにマザー・テレサさんの本を読む機会を与えられました。教師方が、十年前に亡くなられたマザー・テレサさんの信仰に触れながら、主題聖句「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ15:12)の御言葉を子どもたちと共に学びたいという提案をしてくださったのです。教師方は、神学生を中心にしてあらかじめ良い学びをされてから、当日を迎えられました。 このマザー・テレサさんについて、皆さんにあらためて紹介する必要もないと思います。カトリックの信仰者ですが、修道会を立ち上げて、四十年以上にわたって、カルカッタを拠点に、飢えや病気に苦しむ貧困層の人々の救済、なかでも孤独に死んでいく人々の看取りに全精力を注いだ人です。「善いことに熱心であった人」「愛の行為に生きた人」と、私たちが素朴に考え得る人であったと思います。聖書の教えをそのまま素直に生きられたキリスト者だったと思います。 教会学校の教師方が、そういう一人の信仰者を選んで、夏期学校の中で子どもたちと共に学ぼうと願われました。教師方自身がどのような思いによってそう願われたかはともかくとして、私は、そのような願いが出てきたことに、一つの祈りを見る思いでいます。教会学校の子どもたちに、この世の現実の中で、キリストを信じる信仰をもって、確固たる生き方を選び取っていって欲しい。マザー・テレサさんという人の姿を学ぶことを通して、この世界の現実の中で、信仰をもってキリスト者として生きることの意味を、しっかりと見出していってもらいたい。そういう祈りです。私たちは、そのような祈りの中で、教会学校や幼稚園の営みを続けているのではないでしょうか。 ペトロの手紙一は、伝統的に、洗礼教育に用いられてきました。今日の御言葉の後半部にも、洗礼についての教えが含まれています。私も牧師として、この箇所に限らず、この手紙の様々な箇所を、受洗前の準備のために、あるいは受洗後の指導のために、引用してお話しいたします。洗礼を受けたキリスト者として生きることの意味が、随所で非常に簡潔な言葉で言い表されているのです。 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(8〜9節) この箇所は特に、一つのまとめのように語られています。キリスト者として神に召された者が、どのような心構えで、どのような態度で、他者と接していったらよいかが、簡潔にまとめられています。決して特別な言葉を語っているわけではありません。一つ一つの言葉から、主イエスの教えや、使徒パウロの勧めを思い起こすこともできます。そのような広がりも含み持った言葉が選ばれています。 心を一つにすること、同情し合うこと、兄弟愛をもって接すること、憐れみ深くあること、謙虚であること、行動によってまた言葉によって相手の悪意に応酬しないこと、むしろ相手のために神の祝福を祈ること。私たちは、これらのことを繰り返し心に留めてきました。これらのことは、神の御心にかなった善いことであるということを、私たちは信仰者として知っているからです。そして、あらためて言う必要もないことですが、私たちは、子どもたちや周囲の人たちに、キリスト者として生きることを伝えていこうと思うならば、やはり、これらのことを、深くおぼえ、意識し続けないわけにはいかないのではないでしょうか。 苦しみを受ける この手紙は、続いて、こう問いかけてます。「このような善いことに熱心であるならば、だれがあなたがたに害を加えるでしょうか」。 実際には、この手紙の最初の聴き手だった人々は、キリスト者として善いことに熱心に生きていても、人々から悪意を向けられることがしばしばでした。ですから、こう続くのです。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。…神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(14〜17節)。 この手紙が記された時代、教会に対する迫害は厳しさを増していたようです。官憲による取り締まりも始まっていました。しかし、たとえ官憲の取り締まりがなくても、キリスト信者として生きることは、人々からしばしば白眼視されたのです。キリスト信者が、罪を犯して打ちたたかれるというのでなく、善を行っていながら不当な苦しみを受けることもありました。そのような時代の中で、この手紙は、不当なものであっても甘んじて苦しみを受けとめることを勧めます。そして、キリスト者がなぜ苦しみを甘んじて受けるのかを、こう教えるのです。 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。(18節) 別のところでは、こう教えています。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。( 要するに、キリスト者は、キリストと結びつき、キリストの後に従う者として、当然、キリストが受けられたような苦しみを受けるのだ、というのです。 そのように教えられることは、当時の迫害の厳しかった教会の状況を考えれば、当然のようにも思います。キリストが受けられたのと同等の迫害の苦しみ、殉教を覚悟しなければならないような苦しみを、初代教会の人々は事実受けたのです。 私たちの生きるこの時代のこの社会で、キリスト者であることによる厳しい迫害があるわけではありません。むしろ、だれに干渉されることもなく自由に教会としての活動を行い、一人ひとりはキリスト者としての生活を送っている、と言えるかもしれません。しかし、逆に、私たちは、ちょっとした苦しみや痛みを与えられただけで、大騒ぎしてしまうことがあるのではないでしょうか。教会生活の中でさえ、ちょっとした行き違いから不快な思いをさせられただけでも、私たちは、「どうして、この私が、こんな不当な苦しみを被らなければならないのか」と訴えるかもしれません。「私がこの不当な苦しみを味わわされた原因は何か、それは誰のせいか」と、責任追及しようとさえいたすかもしれません。 そのようなことを考えると、ペトロの手紙の時代の教会が殉教を覚悟しながら受けていた苦しみの話と、私たちの抱く苦しみは、相当、質も違うかもしれません。しかし、ペトロの時代の教会が受けたような苦しみを期待するというのは、ちょっと違うのだろうと思います。大切なことは、私たちは私たちで、この時代に生きる者として今受けている苦しみを、きちんと見つめ、キリストのお受けになられた苦しみの中に取り込んでいただくことなのではないでしょうか。 神のもとへ導くために マザー・テレサの「主はいずこに」と題された祈りを紹介します。 主よ多くの場所で私はあなたにお会いしました。静かな畑の中で、空っぽの大聖堂の薄暗い聖櫃の中で、あなたを慕って寄り集う人々の心と思いの一致の中で、私はあなたの心臓の鼓動を聴いたのです。そういえば、喜びの中にあなたを探したとき、そこにもあなたはおられました。でも、苦しみの中でこそ私は、確実にあなたを見出します。苦しみは鐘の響きのように、神の花嫁を祈りへとさそいます。主よ、私は他人の苦悩をとおしてあなたにお会いしました。苦しむ人々の示す崇高な受容の態度と言いしれぬ喜びとの中で、私はあなたにお会いしたのです。それとは反対に、私自身のつまらぬ不都合や、取るに足りぬ不満の中で、あなたを見いだすことはできませんでした。苦難に見舞われながらも、私はあなたの贖罪的な受難のドラマを惜しいことに無駄にしてしまい、あなたの過越の喜びを安っぽい自己憐憫によって曇らせてしまったのです。主よ、私は信じます。私の信仰を強めてください。(『マザー・テレサの祈り』より) この時代に生きる私たちキリスト者は、自分の受ける苦しみを信仰の目できちんと捉えるのが上手でないのかもしれません。しかし、だからこそ、キリストの苦しみをしっかりと見つめたいと思います。自分の出会う隣人の中に、苦しみを受けられるキリストの姿を見、その人を通してキリストの苦しみに触れさせていただくことを、信仰の目をもって覚えたいと思います。そして、キリストの苦しみに触れさせていただくことによって、自分が受ける苦しみの意味もまた、知る者とならせていただきたいと願うのです。 祈り 主なる神。主の御苦しみを見つめさせてください。隣人の苦しみに触れる勇気をお与えください。隣人を通して主の御苦しみに触れさせてください。アーメン |