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主日礼拝説教「だれに対しても」

日本基督教団藤沢教会 200785

20寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。21寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。22もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。23そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

24もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。25もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。26なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。             (出エジプト記 222026節)

 

9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。              

(ローマの信徒への手紙 12921節)

「あなたがたに平和があるように」

日本基督教団の定める行事暦にしたがって毎年八月第一日曜日に守ってきた《平和聖日礼拝》を、今年は、第二日曜日に移して、呼び名も《平和主日礼拝》とすることになりました。《平和聖日礼拝》は、毎年、立証や平和の祈りなどを礼拝の中に組み入れて来ましたが、聖餐を執行する第一日曜日では、長時間の礼拝になることが負担になるとも言われてきました。第二日曜日に移したことで、今年は、長時間になることによる負担は緩和できると期待しています。しかし、また、このような変更によって、私たちの教会は、平和を祈り求める営みをよりいっそう深めていくきっかけを与えられているように思うのです。

私たちは、この国に生きる者としてこの八月の季節に平和を祈り求める礼拝を守る日を定めてきました。もちろん、八月第一日曜日を永遠不変の《平和聖日》とすることが目的ではありません。かつての戦争で私たちの国がこの季節に経験した敗戦への出来事を振り返る中で、悔い改めと平和を希求する祈りを集中するために、《平和聖日》を定めてきたのです。しかし、私たちは、うっかりすると、このことを《平和聖日》と定められている八月第一日曜日ばかりに押し込んできてしまったかもしれません。他の日曜日には、平和の「へ」の字も触れらないままで礼拝が済まされていても、平気な顔をしてしまっていたのです。

キリスト教会では、古来、どの日曜日の礼拝でも《平和》が告げられ、また《平和》が目指されることが、大切にされてきました。例えば、説教の冒頭に、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」という祝福の言葉を告げる習慣があります。使徒パウロの記した書簡の冒頭で必ず告げられている言葉です(ロマ1:7Tコリ1:3など)。恐らく、パウロの書簡を一つの説教のモデルとすることから生まれてきた習慣だと思います。もっとも、そのように平和を告げる言葉を述べるのは、何もパウロだけに根拠があるわけではありません。主イエスが復活なさって弟子たちのもとに現れられたときに、「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)と告げられたことを思い起こすことができます。もっと遡るならば、主イエスが弟子たちを二人ずつ組にして宣教に遣わされたときの言葉も思い起こすことができます。主イエスは、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(ルカ10:5など)と教えて、弟子たちを遣わされました。いずれにしても、主イエスも弟子たちも、まず平和を告げてから、語り、交わりに入られたのです。そのことを、キリスト教会は、礼拝の説教の冒頭で平和を告げることによって覚えてきたのです。

あるいは、また、キリスト教会では、礼拝の中で交わされる《平和の挨拶》が大切に守られてきました。たいてい、キリストの福音の説教が告げられた後、聖餐の食卓を囲む前に《平和の挨拶》を交わして、お互いが主にある平和に招かれていることを確かめるのです。市内キリスト教連絡会の《平和のための合同祈祷会》に出席された方は、経験なさったと思います。藤沢教会でも、夕礼拝で試験的に取り入れています。礼拝が厳粛であることを期待される方には抵抗があるかもしれません。また、儀式的に挨拶を交わすことを形式主義だと感じる方もあるかもしれません。けれども、実際に経験してみると、《平和の挨拶》は、必ずしも、礼拝の厳粛さを損なうものではないと思います。単なる形式主義で終わることでもないと思います。むしろ、《平和の挨拶》は、私たち信仰者の生き方が、キリストにあって何よりも《平和》へと方向づけられていることを、具体的に思い起こさせてくれるのです。

いずれにしても、教会は、主日ごとの礼拝の中で、主にある平和を告げ、具体的に平和を目指して歩んでいくことを、繰り返し確かめてきました。いわば、すべての主日を《平和の主の日》《主の平和の日》としてきたのです。《平和聖日礼拝》から《平和主日礼拝》への変更によって、私たちの主日ごとの礼拝の営みが、より深く主にある平和を目指したものへと導かれることを願いたいと思います。

 

偽りなき愛に生きる

今日の御言葉、ローマの信徒への手紙12:9以下の箇所は、新共同訳聖書では「キリスト教的生活の規範」という見出しがつけられています。キリスト教が教える生活規範が、ここには記されているというのです。ここに記されていることは、新約聖書の中で繰り返し、同じような言葉によって教えられていることです。ある学者は、ここには、初代教会で洗礼を受けようとする者に必ず教えられていた信仰生活の規範が反映している、と解説します。私たちも、繰り返し、自分自身の信仰者としての歩み方を自己吟味するために、読み直す御言葉だと思います。

ところが、多くの説教者は、ただ「ここに信仰生活の規範がまとめられているから覚えて身につけなさい」とだけ語ってきませんでした。むしろ、ここにパウロの祈りを聴き取って、語ってきたのです。

愛には偽りがあってはなりません。(9)

パウロの語った愛の教えと言えば、すぐにコリントの信徒への手紙一13章の「愛の賛歌」を思い起こすことが出来ます。「愛がなければ無に等しい。…愛がなければ、わたしに何の益もない」と繰り返して、信仰者の生き方のすべては愛を土台とすべきことを教えています。このパウロの教えは、当然、主イエスの「互いに愛し合いなさい」という教えから来ていることです。ですから、私たちもパウロに倣って、何につけ、《愛》という基準から吟味評価することが多いのです。

ところが、パウロは、ここで、そのような基準となるはずの《愛》そのものが、ときに偽りのもの(=偽善・仮面)になってしまうことがある、と言うのです。《愛》といっても、真実の愛と偽りの愛とがある、というのです。

主イエスの愛の教えを聴いて、だれよりも愛に根ざして生きるべきことを深く求めていたであろうパウロです。自分の手紙に「愛の賛歌」を記しさえしたパウロです。そのパウロが「愛には偽りがあってはなりません」と言うのです。そのように言うパウロは、自分自身の中で、繰り返し、偽りの愛と戦っていたのではないでしょうか。愛に生きるということが、それほど単純なことではないこと、むしろ、愛はいつでも偽りの愛によって置き換えられてしまうことを、自分自身、失敗しながら経験していたのではないでしょうか。

私たちは、愛によって生きることを目指しながら、どういう訳か、愛とは反対の結果を招く経験をします。愛に基づいて行動を起こしているつもりなのに、どういう訳か、周囲の人と衝突するのです。人間関係がうまくいかないのです。愛の行為で始めたはずなのに、平和ではなく、むしろ敵意や隔ての壁を生じさせてしまうことがあるのです。そのようなとき、私たちは、愛を勘違いしているのかもしれません。愛に生きているつもりで、いつのまにか、偽りの愛、仮面の愛、表面的な愛を取り繕っているだけになってしまっている。愛の行為にいそしんでいる自分自身に満足しているだけになっている。周囲の人を愛する素振りをしていて、実は自分自身を愛することを優先している。自分の心の中の平安ばかりを求めていて、周囲の人との平和を本当には求めていないのです。

 

すべての人と平和に暮らす

パウロがここで目指していることに、注意したいと思うのです。

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

信仰者として生きる者の目標は何か。パウロは、すべての人と平和に暮らすことだ、と言うのです。愛に生きること自体が目標とはならないのです。私たちの愛が純粋に真実になることも目標ではないのです。もちろん、私たち一人ひとりが、愛に満ちた人間になることは、キリストが望んでくださったことです。けれども、私たち自身は、自分が愛の人間として完成されること自体を目標として歩むのではないのです。むしろ、私たちの目標は、すべての人と平和に暮らすこと、平和を実現することだと、パウロは勧めるのです。

このパウロの勧めの言葉が「できれば、せめて…」と始められているからといって、割引きして聴くべきではないと思います。この部分を、口語訳聖書は「できる限り…」と訳し、新改訳聖書は「自分に関する限り…」と訳しています。パウロの言わんとしているところを、推し量っていただきたいのです。

私たちは、しばしば、平和を実現することができるかどうかは相手にも責任がある、と考えます。いや、むしろ、自分は平和実現のために努力しているのに、相手が協力しないから平和が実現しないのだと考えるかもしれません。相手が敵対的であれば、それも、もっともなことかもしれません。

しかし、キリスト者はそうではない、とパウロは言うのです。真実の愛に根ざすならば、一方的に自分だけででも、平和実現への一歩を踏み出すのだと、言うのです。その一歩を、どのように踏み出したらよいのか。その具体的な例が、ここでパウロが次々に述べている勧めの一つ一つなのです。

だれに対しても悪に悪を帰さず、すべての人の前で善を行うように…。

平和実現への一歩を、パウロは、だれに対してもすべての人に向けて、踏み出すように勧めます。パウロは、私たちの一歩は世界平和への一歩だと、言っているのです。大胆な言葉です。私たちには担いきれないのではないかとも思います。しかし、パウロがそのように言いうるのは、この平和を本当に実現してくださるのは神であることを信じているからでありましょう。私たちも、同様です。だれに対しても、愛に根ざして、平和の関係をお造りくださったのが、主イエス・キリストでした。キリストによって、私たちは、神の平和実現のご計画の一翼に加えられるべく、招かれて、教会に連ならされているのです。

教会がこの世よりも平和的だと、自信をもって言えないこともあるかもしれません。それでも、私たちは、キリストに招かれた教会で、主の平和を信じます。だれに対しても、分け隔てなく、平和の関係を持ってくださった主イエス・キリストの、事実私たちを招いていてくださることを、私たちは、主イエスの名を冠した食卓(聖餐卓)を囲んで、信じるのです。この食卓から、キリストは、平和実現を約束してくださっています。私たちは、この食卓にあずかり、ここから平和への歩みを、一歩また一歩と、踏み出させていただくのです。

祈り

主なる神。私どもを愛してくださり真実の愛に生きることをお教えくださいました。愛から始まる平和実現への一歩を踏み出させてください。アーメン