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主日礼拝説教「本当に聴いていますか」

日本基督教団藤沢教会 2007819

18 災いだ、主の日を待ち望む者は。

主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。

19 人が獅子の前から逃れても熊に会い、

家にたどりついても、壁に手で寄りかかると、その手を蛇にかまれるようなものだ。

20 主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。

21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。

祭りの献げ物の香りも喜ばない。

22 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、

わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。

23 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

竪琴の音もわたしは聞かない。

24 正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。

  (アモス書 51824節)

 

19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。20人の怒りは神の義を実現しないからです。21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。              

(ヤコブの手紙 11927節)

聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅く

今夏、私は、少しばかりまとまった夏休みをいただきましたので、妻と子どもたちが実家に帰省するのに合わせて、小さな家族旅行を楽しみました。さほど長距離ではありませんが、借りた自動車で移動する旅行です。子どもたちは皆、チャイルドシートに縛り付けられていましたが、最近では年少の子らも一緒にお喋りをしたり歌を歌ったりすることを楽しめるようになってきていましたので、それなりに楽しんで自動車での移動時間を過ごしました。けれども、お喋りを楽しむようになってきたということは、その分、口喧嘩も多くなってきたということです。小さな車の中で、今お喋りを楽しんでいたかと思うと、次の瞬間、口喧嘩を始めていたりするのです。どうも、様子をうかがっていると、三人とも皆、自分が喋りたいのです。ですから、他の者が喋っていても、つい割り込んで話し始める。他の者を黙らせようとする。他の者の話しを遮って自分が喋り始めるための常套手段は、「違うよ!」と言う言葉で割り込むことです。上の子がそうすれば、下の子らも、すぐに真似します。エスカレートして誰かが泣き出さなければ収まりません。とうとう、私は、子どもたちに二つの禁止命令を出しました。一つは「他人の話していることに『違う』と言ってはいけない」、二つ目は「他人の話しを最後まで聞く」。この二つは家族全員の約束だと言い聞かせたのです。

このことを子どもたちに言い聞かせながら、私は、自分自身の子どもの頃のことを思い出していました。五人兄弟の真ん中に育った私は、兄弟の中では口数が少ない方だと言われていましたが、それでも、思い起こしてみると、毎日のように兄弟の誰かと喧嘩をしていました。ほとんどの場合、口喧嘩です。他人の話しを最後まで聞かずに、遮って自分の話しを始めてしまうのです。兄弟の間では、それが日常茶飯事でした。ところが、学校や教会の友達との間では、ときに、それが厄介なことを引き起こしたのです。気づいたのは高校生にもなってからでした。親しいはずの友達との関係が、ぎくしゃくするのです。仲の良いはずの友達が、私に向かっては大切な話をすることをためらっているように見えました。そのようなことに気づき始めたときに、一つの御言葉に出会ったことを、私は、今でも鮮明におぼえています。ヤコブの手紙の、この聖句です。

だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

聖書の教えの底流にはいつも、言葉を聞く姿勢をただすこと、語る言葉を制御することがあるようです。旧約の箴言には、多くの格言も収められています。「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」(10:19)、「自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる」(13:3)、「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる」(17:28)、等々。また、これら箴言の言葉がまとめられていった同時代のギリシアの哲人は、こういう言葉を残しています。「私たちは二つの耳を持っているが、口は一つしかない。私たちがより多く聴き、より少なく語るためだ」。

もちろん、私たちは、他人との関係の中で、自分の考えや意見をきちんと語れることも大切です。むしろ、私たちの社会では、自己表現や自己主張をできないことのほうが問題がある、とされるかもしれません。そうであっても、なお、古い時代から聖書の内外に伝えられる、聴くこと語ることについての格言は、傾聴に値します。人は、自分の話しを聞いてくれる者を信頼するものだからです。極論すれば、私たちの他者との関係は、お互いが相手の話しにどれだけ本気で耳を傾けているかによって決まってくるものだからです。人間の経験から得られるこのような知恵を、聖書もまた、知っているのです。

 

御言葉を聞く

ところで、このヤコブの手紙の聖句は、ただ人間同士の関係の中で覚えられる格言に過ぎないものではないようです。

だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

この聖句を、この手紙の著者ヤコブは、聖書の御言葉=神の言葉に対する姿勢を問う中で、告げているのです。直前には、こう記されています。

御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです(18)

また、直後では、こう記されていきます。

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい(21)

そして、御言葉を聞いたら、それを行いなさい、という教えへと展開していくのです。ですから、ヤコブが、聞くのに早く、と言っているのは、何よりも、《御言葉》を聞くのに早く、ということだと受けとめることができるでしょう。まず何よりも、御言葉を聴き取ることに思いを集中しなさい、と教えているのです。

当たり前のことかもしれません。目新しいことではないかもしれません。この手紙は、誰よりも、すでにキリスト信仰に入った信者に向けて語られているのです。キリスト信者が、神の言葉と信じ、主キリストを証ししていると信じる聖書の御言葉を、どれだけ大切にしているか。それを、ここであらためて語る必要もないでしょう。もしかすると、ここに集われている方の中には、礼拝には牧師の話しを聞くために来ている、と言う方があるかもしれません。しかし、私たち信者は、礼拝で神の御言葉を聞く、と言うのです。聖書朗読や説教はもちろん、讃美や祈りを通しても、私たちは、神の御言葉を聞こうとしているのです。日曜日、決まった時間に共に集まって礼拝を守るのは、何よりもそこで集中して神の御言葉を聴き取るためです。この新しい一週間を、何よりも神の御言葉を聴くことから始めて、御言葉を聴き取ることを最優先にした歩みへと方向づけるためです。

ヤコブの手紙が語ることは、ですから、こう続くものとして受けとめることができます。「御言葉を話すのに遅くしなさい」。あなたが御言葉についてあれこれと語るのは後回しにしなさい、というのです。

こういうことを言われたことがあります。「牧師は、聖書や神学の専門家なのだから、説教の準備に多くの時間を必要としないでしょう。」そういう牧師もいるかもしれません。けれども、多くの牧師は、ベテランになっても、説教の準備に多くの時間を費やすと言います。名説教家として知られている牧師でも、少なくとも金曜日土曜日の丸二日は時間を取らないと説教の準備は出来ない、と言います。御言葉を語り、御言葉について話すことが多いからこそ、それに見合った、御言葉を聴く時間、深く黙想して聴き取る時間が必要なのです。

私たちは、実にしばしば、御言葉を本当に深く聴き取ることなしに、その御言葉について語りだし、あるいは御言葉を用いて自分勝手な考えを話し出してしまうのではないでしょうか。そして、結局、御言葉に基づいているつもりで、実は自分の言葉で、他人を裁き、怒りをぶつける、ということに至ってしまうのです。

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を捨て去り、心に受け付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

御言葉を聴くこと、聴き取ることに集中するとき、自ずと、私たちの唇は沈黙します。御言葉を聴く以前から持っていた自分自身の言葉、汚れた言葉、悪い言葉が、心の中で、聴き取った神の御言葉に置き換えられる。それには、時間がかかるからです。

 

自分を欺かないで、御言葉を聞いて行う

主イエスが、山上の説教の中で、御言葉を聞くだけで行わない人のことを砂の上に家を建てた愚かな人にたとえられたことを思い起こします(マタ7:2427)。ヤコブは、鏡を眺める人にたとえます。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようなものであったか、すぐに忘れてしまいます。

私たちは、日曜日の礼拝で、聖書の御言葉を聞き、御言葉に従って生きる決意をあらたにします。いわば、礼拝で語られる御言葉によって自分自身を見つめ直すのです。ところが、礼拝が終わって家路につくと、もう、その日の礼拝で語られた御言葉がどのようなものであったか忘れてしまっている、ということが何と多いことでしょうか。御言葉に従って生きる決意を新たにした自分の姿など、次の日曜日まで思い起こしもしない。そのような一週間を過ごしてしまうことが、多いのではないでしょうか。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

主イエスもヤコブら使徒たちも、「信仰か、それとも行いか」というような単純な二者択一を教えません。「御言葉に聞く信仰は、そこに集中するならば、必ず行いを伴う」と教えます。しかし、御言葉を聞いて行う人になるには、本当の意味で信仰への集中が必要なのです。主の御言葉を信じる信仰です。主イエス・キリストが証ししてくださった神の御言葉を信じる信仰です。ただ御言葉への揺るがない信頼です。本当に信頼に足る言葉として御言葉に聴く姿勢です。

聖書の御言葉は、ただのありがたい格言ではありません。自分の考えを補強してくれる古典に過ぎないのではありません。聖書の御言葉は、自分の言葉に代えて私たちが信じる、神の言葉です。私たちが信じ従う主イエス・キリストが、今ここでも、聖霊の働きのうちに語ってくださる、神の御言葉です。

 

祈り

主よ。私どもの心に植え付けられた御言葉を豊かに実らせてください。私どもの舌を自分の言葉を語る舌から御言葉を語る舌へと造りかえてください。御言葉によって主ご自身が私どもの体を用いてお働きくださいますように。アーメン