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主日礼拝説教「何のためにするかが問題です」 日本基督教団藤沢教会 2007年8月26日 10あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。11しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 12あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。13わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。 (出エジプト記 23章10〜13節) 1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。 「主は言われる。 『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。 (ローマの信徒への手紙 14章1〜12節) 考えを批判しない しばらく祖父母の家に帰省していた子どもたちが、牧師館に戻ってきました。親馬鹿でしょうか、離れて過ごしたのはたった二週間ですが、どことなく成長して帰ってきたように思います。帰ってきて明らかに変わっていることがありました。子どもたちの間で、食事の際のルールが一つできていたのです。我が家では、ずいぶん長い間、食前の祈りをもっぱら上の子がする習慣となっていました。もちろん、私や妻がすることもあるのですが、特別の意図がなければ、上の子が食前の祈りをしてきました。ところが、今春、下の双子が幼稚園に入園してからは、食事のたびに誰が食前の祈りをするかで一悶着を起こすようになっていました。皆、自分が食前の祈りをしたいのです。「ぼくがする」、「わたしがする」と宣言する子がいても、他の子も黙っていません。二人、三人が、同時に食前の祈りを始めてしまいます。そして、「ぼくがするって言ったのに!」、「わたしがしたかったのに!」と、誰かしらが怒り出したり泣き出したりするのです。親としては複雑な思いです。お祈りをしたいという子どもたちの気持ちも大切にしてやりたい。けれども、お祈りのことで喧嘩したりするのはおかしいと、教えてやらなければいけない。複雑な思いをいだいたまま、この食事のたびに起こっていた騒動を、なかなか収められずにいました。それが、帰省中にうまく解決する方法を見つけて帰ってきたのです。ルールはいたって簡単です。3人の子どもたちが、朝昼晩に順番にお祈りを担当するのです。各自、一日一回は食前の祈りを担当します。子どもたちも、それですっかり納得したようです。お互いにルールを確認しながら、食卓に着くようになりました。 ところで、私が神学生時代に二年間お世話になったある教会の牧師は、神学生である私を、日曜日には夕食に必ず招いてくださっていました。お子様方は皆自立なさっていましたので、牧師ご夫妻と神学生の私との三人の食卓でした。その食卓では、必ず牧師が食前の祈りをなさっていました。当たり前のようにそうなさっていたので、私は、なぜそうするのかを問うこともなく過ごしていましたが、何かの話をきっかけに、牧師かご夫人のどちらかが、こういうことを言われたことがありました。「食卓の祈りは、その家の主人がするものです。」私は、食卓の祈りの持ち方について教えられたのは、そのときが、初めてだったのかもしれません。この考え方を、ちょっとした衝撃をもって受けとめたのです。 この考えを語られた牧師夫妻は、他の人に自分たちの考えを押しつけるような方ではありませんでした。けれども、私は、もしかすると、キリスト者の中にはそのようにすべきだと強く信じている人もいるのかもしれない、と思うようになったのです。ここにいらっしゃる皆さんは、どのようにお考えでしょうか。もしも、「食卓の祈りは、その家の主人がするものだ」と強くお考えの方がいらっしゃるとしたら、最初に私がお話しした我が家の食卓事情は、あるいは多少の不快な思いを抱かせるものだったかも知れません。何せ、我が家では、幼い子どもたちに好き勝手に食卓の祈りをさせてきたのですから。いや、実は、私自身も、時々、食卓の祈りは、子ども任せにしないで父親か母親がすべきではないか、と思ったりもするのです。それでも、今のところ子どもたちに任せているのは、どちらのやり方が正しい考え方だとも言えないからです。どちらでも良いとも思えるからです。むしろ大切なことは、どのようなやり方にしろ、子どもたちが、また親である私どもが、この一事を通しても、できるだけ一人一人、心から神と向き合う歩みへと導かれていくことだと思っているのです。そのような者として、共に歩む家族の歩みが整えられていくことが大切なのだと思っているのです。 食べる人、食べない人 パウロがローマの教会に宛てた手紙の中の御言葉を与えられています。その終盤、教会の信仰者同士の人間関係のあり方を教えた勧めの部分です。 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 信仰が強い、弱い、ということを、私たちもしばしば口にします。私たちは、信仰が弱いままでよいとは考えません。強い信仰の持ち主になりたいと考えます。それでは、どういう信仰を強い信仰だと考えているでしょうか。揺るがない、確固たる信仰生活を築いて何十年と歩んできた人の信仰は、強く見えます。「信仰者は、こうあるべきだ」、「教会は、こうあるべきだ」と、確信をもって語れる人は、強い信仰の持ち主に見えます。そして、私たちは、しばしば、そういう人の頑固な振る舞い、変わらない確信と比較して、自分が信仰者としていかにもあいまいで中途半端な者であるかを嘆きながら、「私は、信仰が弱い」と言うのです。 ところが、パウロが言う「信仰の弱い人」というのは、どうもそういう弱さではない。むしろ逆です。信仰者として、自由に、柔軟に振る舞えない人、自分の考えや行動を旧態依然変えられない人のことを、パウロは信仰の弱い人と呼ぶのです。例えば、食べ物の選び方です。私たちは、食べ物にこだわりをもって、何を食べるかをしっかりと自己管理している人を見ると、偉いな、立派だな、強い意志の持ち主だな、と思いがちです。しかし、パウロは、そういう人は、結局のところ神を信頼しきれていない、信仰の弱い人だ、というのです。神を信頼しきっていれば、「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」(Tテモ4:4)と言いうるから、あれこれの考え方に縛られないで自由に食べ物を選べる。けれども、神を信頼しきっていなければ、結局、自分の考えのおよぶ範囲で納得できるやり方や選び方にこだわらざるを得ない。だから、こだわりから自由になれない人や、柔軟に考えを変えられない人は、神を信頼しきれていないという意味で、信仰の弱い人なのです。 けれども、パウロは、そういう信仰の弱い人を受け入れなさい、と教えます。その考えを批判してはなりません、と言います。信仰の弱い人を説得して、その弱さを克服させよ、とは言わないのです。そしてまた、逆の立場でも、考え方や信仰のあり方が違うからと言って、相手を裁いてはなりません、と告げるのです。 主のために、神に感謝して 私たちは、この世を生きていく上では、ある意味で批判精神をしっかり持っている責任があるでしょう。過ちを指摘して、罪を断罪し、悪を裁かなければならないこともあるかもしれません。けれども、教会が同じであってはいけない、とパウロは言います。教会では、信仰者の仲間同士では、互いの信仰に基づく考えをやたらに批判し合ってはいけない。軽々に相手を裁いてはいけない。なぜなら、神はこのような人をも受け入れられたからです。なぜなら、教会は、神の召しを信頼して、あの人、この人を群れの中に受け入れたからです。教会は、神の召し使い=「神の家の者」の一人として、その人の名を覚えたからです。神ご自身が、一人ひとりの信仰者を、御自分のものとして導かれる。信仰による完全な自由へと導かれる。神ご自身のお考えに従って、導かれる。そのように信じるからです。 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 各自が、自分の内心と良く向き合って、それぞれに、このことは、神への感謝のうちに、主のためにする、と決断する。それを、お互いに認め合う。それでは、一見すると、皆がバラバラに自分勝手に信仰者としての生き方、振る舞い方を考えているように見えるかもしれません。けれども、どこかの新興宗教のように、誰に聞いても金太郎飴のような答えが返ってくることが理想と言えるでしょうか。人間の考えや計画に過ぎないことが、完全な賛同を得て行われるというような事態が起こるとしたら、それはかえっておかしなことではないでしょうか。 パウロは言います。わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。表面的なことではありません。他人の目にどう映るかでもありません。まず、私たち一人ひとりは、各自が心のもっとも深いところまで開かれて、神の御前に立つよう、キリストによって導かれている、このことを深く悟らせていただくのです。皆がそのようなところへと導かれていることを信じ、互いに認め合うのです。一人ひとりが直接神に導かれることを、私たちは、互いに妨げないよう、心を配るのです。どんなに気に掛かっていても、他人と神との間に割って入るようなことがないよう、私たちは自己規制するのです。 冷たいでしょうか。厳しいでしょうか。けれども、信仰には、このような孤独な一面があるのです。しかし、それは決して、自分だけ良ければよい、自分は自分のために生きる、というような個人主義に終わるものではありません。聖書が教える信仰の孤独は、私たち人間が、本当の意味でお互いを受け入れ合うために必要なプロセスなのです。お互いを、キリストに真の自由をいただいた、自立した人格として認め合うとき、私たちは本当の意味で、互いの弱さを担い合い、存在そのものを受け入れ合う関係へと導かれるのです。 私たちの誰も、そのような関係を完全には知らないかもしれません。ただ、私たちが知っているのは、二千年前に主イエス・キリストが、そのような関係を完全に始めてくださったということです。一方的に、弟子たちをそのような関係へと招き入れてくださり、その営みを教会という群れの中で続けさせてくださったということです。そして、私たちもまた、そのような主キリストの始めてくださった教会という営みの中に招き入れられているということです。 祈り 主なる神。主のために、神に感謝して、私はこうすると、心の深いところで主と向き合って決断する者とならせてください。私どもお互いが、主と向き合う祈りの歩みを妨げず、心を用いて励まし支え合う者とならせてください。 |