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主日礼拝説教「招待の作法」

日本基督教団藤沢教会 200792

1 これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。

2 ことを隠すのは神の誉れ、ことを極めるのは王の誉れ。

3 天の高さと地の深さ、そして王の心の極め難さ。

4 銀から不純物を除け。そうすれば細工人は器を作ることができる。

5 王の前から逆らう者を除け。そうすれば王位は正しく継承される。

6 王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。

7 高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい。  

(箴言 2517a節)

 

7それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。8わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。9あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。10わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。11なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。

12わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。13こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。14だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。15だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

               (コリントの信徒への手紙二 11715節)

 

7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」     (ルカによる福音書 14714節)

 

食事への招待

英語で《サンデー・ディナー》という言葉があります。イギリスの人々の習慣で、日曜日の午後、家族揃って遅い昼食をいただくことを指します。かつてはヨーロッパ各地にあった習慣でしょう。日曜日の礼拝に家族そろって出席した後、用意しておいた食事をゆっくり楽しむのです。教会に行く人が少なくなった現在でも、《サンデー・ディナー》という言葉や習慣は、広く残されているそうです。

日本では、そのような習慣を守ることのできる家庭はほとんどないかもしれませんが、それに代えて、毎日曜日の礼拝後に昼食会・愛餐会を催している教会があります。やり方は様々ですが、礼拝にあずかった者が、まず共に食事を楽しむ、ということでは同じです。教会の日曜日ごとの営み方を考えていく上で、極めて大切な何かを示していることなのではないかと思います。もっとも、日曜日の礼拝に続いて食事を共にするという習慣は、ある部分、ユダヤ人の習慣を受け継いだものかもしれません。福音書は主イエスが安息日にある人に招かれて食事を共にしたことを伝えますが、それは、当時のユダヤ人の大切な習慣だったようです。

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。(ルカ14:1)

安息日は、ユダヤ人の礼拝日です。人々は、それぞれの町に立てられていた会堂に集まり、会堂長やラビなど信徒の指導者を中心にして律法や預言書の朗読を聞く礼拝を守っていました。初期のキリスト教会が自分たちの礼拝スタイルの原型とした礼拝です。そして、安息日の礼拝が終わると、多くの場合、会堂長や議会の議員であるような地元の名士が、自宅に用意した祝宴に人々を招いたのです。もちろん、選ばれた人や客人だけだったでしょう。異邦人や病人、貧しい者や罪人と見なされた者は、決して招かれることはありませんでした。

主イエスは、そのような安息日の祝宴に招かれました。ファリサイ派のある議員の招きだったと、ここでは伝えられています。このとき、主イエスは、どういうわけでこの人に招かれたのでしょうか。旅の途上でしたから、寄留者として歓待を受けたのかもしれません。ユダヤ人は寄留者や旅人を大切にもてなす習慣があるからです。けれども、この人はファリサイ派の議員でした。ファリサイ派は、しばしば主イエスと対立した人々です。この町では、まだ対立していなかったのでしょうか。少なくとも、このとき、主イエスはファリサイ派の人から見ても食事の席から排除すべき人物とは見なされなかったのです。いずれにしても、ここで主イエスが食事を共にした人々は、少なくともこのような食事の会を大切にしていました。そして、恐らく主イエスも、食事を共にすることを大切にされていたからこそ、招きに応えてこの人の家に入られたのではないでしょうか。

 

招かれたら

安息日の食事です。イギリス風に言えばサンデー・ディナー、日本の教会の営みでいえば愛餐会です。礼拝の喜びと祝いの気持ちを、親しくゆっくりと分かち合うひとときです。新しい出会いと、深い交わりが培われる機会です。

ところが、主イエスは、そのような食事の席で、人々に苦言を述べられました。招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話されたのです。

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(7~11)

このとき、この食事に招かれていた人たちのほとんどは、主イエスよりも年長の男性ばかりだったでしょう。その人たちが、たまたま客として招かれた若い教師に、このようなことを言われたのです。面目丸つぶれです。確かに、主イエスが告げられたことは、箴言(25:7)にもあるような、ユダヤ社会で受け継がれていた格言だったのかもしれません。しかし、そのような格言だったとしても、人々の面前で言われて恥ずかしい思いをした者は、少なくなかったかもしれません。

しかし、主イエスがここで告げようとなさったことは、ただ古い格言を思い起こさせることではなかった。不作法な大人たちに、正しい礼儀作法を教えようとなさった、というわけではなかったと思うのです。むしろ、主イエスが人々に告げようとなさったことは、「あなたよりも身分の高い人が招かれている」という言葉にあるのではないでしょうか。

あなたよりも身分の高い人。そのように主イエスが言われるのは、だれのことでしょうか。主イエスのことでしょうか。そうかもしれません。ただ、主イエスは、このあなたよりも身分の高い人がだれを指すのか、明確になさいませんでした。むしろ、わざと曖昧になさった。そして、示されているのではないでしょうか、「あなた自身よりも優先されるべき他の人があることをわきまえなさい」と。

こういう教えは、私たち教会に属する者には、あまり関係ないものでしょうか。確かに、教会というところでは、人の間にどんな上下関係もないことを謳います。もちろん、特別な来賓は丁重に迎えますが、通常は、だれでも特別扱いしません。それどころか、礼拝でも集会でも愛餐会などでも、席は後ろのほうから埋まるのです。教会では、皆が謙遜を旨としているからです。けれども、私たちは、教会の礼拝や集会に集うとき、本当に、自分よりも優先されるべき他の人があることを、よくわきまえているでしょうか。自分にとって大事だと思う人や仲間のことは、優先的に考えるでしょう。十分、配慮して考え、だれがどの席に着くべきか、どういう順序で教会の中で優先すべきか、判断いたします。しかし、そういうことは、あの主イエスに苦言を呈された招待客たちも同じであったかもしれないのです。そのような者に、主イエスは言われるのです。「あなたよりも優先されるべき人がある」と。主イエスは、そう、私たちに問われるのです。

 

お返しはしないでください

また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(12~14)

主イエスは、食事を主催して客人を招いた人に向けて、これを教えました。

招くべき客人はだれか。主イエスは、恐らくその家の主人がいつも招いていたであろう人々、友人や兄弟、親類、近所の金持ちたちについて、彼らを招いてはいけないと言われます。そのかわりに、およそ招くことなどなかった人々、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。なぜなら、彼らは、お返しにあなたを招くことができないからだと、主は言われます。

主イエスは、ここで、給食の慈善活動をしなさいと言っていらっしゃるのではないでしょう。それはそれで大切だとしても、ここで言われているのは、大切な祝いの食事です。皆が共に守るべき食事の会です。だからこそ、この世の感覚であれば、お互い様で招き合い、奉仕し合える関係の中だけに限って、その集まりを維持したいと考えがちなものなのです。新しい人や客人は、吟味して選ばれた人だけにしたいのです。ところが、主イエスは、それではいけない、と言われる。そういう互いに気心も知れている仲間の者は、今さら招いたりするな。むしろ、そうではない人々、まだ仲間になっていない、どんな応え方をするかも分からない人々、お返しを期待できない人々を、あなたの大切な祝いの食事に招きなさい。その人たちが、あなたよりも優先されるべき人たちだ、と言われるのです。

私たちは、神に招かれて、ここに集っています。聖餐の食卓にもあずかります。主は、喜んで私たちを迎えてくださっている。その、すでに招かれている私たちに対して、主は、「あなたよりも優先されるべき他の人が招かれている」、「あなたが仲間だと思っていない人々が招かれなければいけない」と、問いかけられます。神の御前の、キリストの座に近い上席に、私たちは、神が招いてくださるすべての人を、ご案内する役目を与えられているのです。ただ招かれた客のままで座っているのではなくて、神が招かれる多くの人々のために給仕する奉仕者として、礼拝、集会、愛餐会に、参じさせていただくことが許されているのです。

招かれた者が、次のときには、招いてくれた人を招き返すのではなくて、招く方である主に用いられて、新たに招かれた者を共に迎える。そのような招待の作法が、キリストの開いてくださった聖餐の食卓から、始まっています。神は、そのようにして、教会を用いてくださり、私たち一人ひとりを用いてくださって、ご自身の招きの御業を、この地に、全世界に展開なさっていらっしゃるのです。そのようにして、すべての者を、ご自身のもとへと招き、迎え入れてくださるご計画を進めてくださっているのです。

 

祈り

主なる神。主は聖餐を開いてくださり、食事の交わりを祝福してくださいました。教会と私どもを用いて、すべての人々を主のもとへとお招きください。アーメン