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主日礼拝説教「主イエスの弟子募集要項」 日本基督教団藤沢教会 2007年9月9日 24ダビデは二つの城門の間に座っていた。城壁に沿った城門の屋根には、見張りが上って目を上げ、男がただ一人走って来るのを見た。25見張りは王に呼びかけて知らせた。王は、「一人だけならば良い知らせをもたらすだろう」と言った。その男が近づいて来たとき、26見張りはもう一人の男が走って来るのに気がつき、門衛に呼びかけて言った。「また一人で走って来る者がいます。」王は、「これもまた良い知らせだ」と言った。27見張りは、「最初の人の走り方はツァドクの子アヒマアツの走り方のように見えます」と言った。王は、「良い男だ。良い知らせなので来たのだろう」と言った。28アヒマアツは「王に平和」と叫び、地にひれ伏して礼をし、言った。「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」29王が、「若者アブサロムは無事か」と尋ねると、アヒマアツは答えた。「ヨアブが、王様の僕とこの僕とを遣わそうとしたとき、大騒ぎが起こっているのを見ましたが、何も知りません。」30王が、「脇に寄って、立っていなさい」と命じたので、アヒマアツは脇に寄り、そこに立った。31そこへクシュ人が到着した。彼は言った。「主君、王よ、良い知らせをお聞きください。主は、今日あなたに逆らって立った者どもの手からあなたを救ってくださいました。」32王はクシュ人に、「若者アブサロムは無事か」と尋ねた。クシュ人は答えた。「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」19:1ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」 (サムエル記下 18章24節〜19章1節) 11このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。 (ガラテヤの信徒への手紙 6章11〜18節) 25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」(ルカによる福音書 14章25〜35節) 主イエスの弟子であるならば 主イエスの旅路には、弟子たちばかりでなく、多くの人々が行動を共にしていました。大勢の群衆が一緒について来た…。聖書が大勢の群衆として描き出す人々です。もちろん、主は一人山に逃れて祈られることがありました。選ばれた弟子たちだけを集めて行動なさることもありました。けれども、多くの場合、来る者はだれでも拒まず、大勢の人々をご自分の群れとして率いて行かれたのです。 教会にも、多くの人々が連なって歩みを共にしてくださっています。いまだ洗礼を受けていない未信者の方々が幾人も集ってくださっている。教会の歩みを共にしてくださっている。この礼拝に集われている方々だけではありません。教会学校の子どもたちやそれぞれの家庭、附属幼稚園の園児たちや保護者家族が、教会の営みに連なっています。今ここに集われている皆様のご家族も、様々な機会に教会の営みの中、行動を共にしてくださっています。教会は、そのような広がりを持った群れとして歩むことを許されている。それは、何よりも主イエスが、そのような広範な人々と共に歩まれることを良しとしてくださっていたからです。まず、そのような、だれもが拒まれることなく歩みを共にすることが許される群れとして、この教会の営みが整えられていくことを祈り願いたいと思います。 主イエスと、行動を共にする多くの人々との群れ。主イエスの後ろ姿を見ながら多くの人々が後について行く。それが、教会の一つの原風景です。ところが、主イエスは、ご自分の後についてくるその人々に対して、問いを発せられます。 イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。…」 どんな者のことも拒まず迎え入れてくださる主イエスです。多くの人々は、その心の広い寛容な人柄に惹かれるものがあったに違いありません。ところが、その主イエスが、ここでは、一つの、非常に厳しい問いを投げかけられたのです。「これこれこういう者でなければ、わたしの弟子ではありえない」。 おかしな表現かもしれませんが、主イエスはここで、人々に向けて、弟子の募集要項を発表なさいました。「弟子になることを希望する者は、次の条件を満たすように。云々。」明確な要項です。家族や自分の命を憎むこと、自分の十字架を背負っていくこと、自分の持ち物を一切捨てること。 そこには、すでにそのような生き方を始めていた者もいたかもしれません。しかし、多くの人々は、驚いたのではないでしょうか。だれをも受け入れてくれるはずの方が、突然、難しい要求を告げられたのです。ある人は、「そういうことであれば、もう行動を共にすることはできない」と思ったかもしれません。「これからも行動は共にさせてもらうが、弟子にしてもらうのは遠慮しておこう」と考える者もいたかもしれません。しかし、あるいは、こう思う者もいたかも知れません、「そうか、ようやく分かった。今までは、どうしたら弟子にしてもらえるか分からなかったが、そうすればよいのか。それでは、早速そうしよう」、と。 家族も自分も憎む? 私たちの多くは、すでに洗礼を受けたキリスト信者です。主イエスの弟子である、と言っても良いでしょう。けれども、あらためてこの弟子募集要項を見て、心のどこかで「ちょっと困ったな」と思うところがないでしょうか。そう思わざるを得ない難しい要求が、ここには、あるのです。 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。 家族も自分も憎め、そのようにして弟子となれ。もちろん、「憎め」と言っても、「敵対せよ」という意味ではありません。口語訳では「捨てる」と訳されていました。別の機会に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)と教えられたのと同じことでしょう。歴史上、多くの信仰者たちが、これを文字通りに受けとめて、家族から離れ、一生独身を通してキリストの弟子としての生涯を全うしようとしました。そのような生き方をした多くの信仰者のことを、私たちは知っています。しかし、それにしても、家族も自分も憎み、捨てるとは、弟子として生きていく上で、本当に必要なことなのでしょうか。いや、逆に言えば、文字通りそれを実行して、親の家、家族の家を出て、持ち物も処分して、天涯孤独の生活を始めさえすれば、それで主イエスの弟子としての条件が整ったと言うことができるのでしょうか。 まず腰をすえて考えてみる ここで、主イエスは、二つのたとえを語られました。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。…また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。… 大きな目標を達成しようとするならば、着手する前に、十分に計画を練り、状況判断をして、それから行動に移すべきだと、私たちも考えます。この世の組織にしろ、教会にしろ、一つのことを実行するにあたっては、多くの時間と労力を裂いて会議を開き、計画を練り、状況判断をするのです。そして、どうも目標達成が難しそうだと判断すると、その計画を変更したり、縮小したり、やめてしまったりする。それは、万国共通のこの世の人間の知恵です。 しかしながら主イエスは、ここで、わざわざ、このたとえを語られました。そして、「まず腰をすえて考えてみないだろうか」と繰り返して、問われたのです。 家族を捨て、持ち物を捨て、自分を捨てて、主イエスの弟子としての生涯を歩む。簡単なことではありません。難しいことです。私たちは、当然、躊躇してしまう。立ち止まって考えてしまう。良く言えば、「まず腰をすえて、できるかどうか、考えてみよう」となる。「自分の弱い信仰心で、主イエスの弟子を名乗る生き方を全うできるだろうか」。私たちは、信仰者として教会に日曜日ごとに集っているといっても、日々、そういうことを悶々と考えているようなところがある。そして、私たちは、そのように悶々として過ごしている弱く悩める信仰者としての自分のことを、案外、それでよいと思っているのです。主イエスの弟子として一歩も前に進んでいないのに、そういうふうに悩み続けている自分の姿こそ信仰者としてのあるべき姿であるかのように、言い訳をしていたりするのです。 塩気のない塩 主イエスは、最後に、塩気のない塩のたとえを語られました。 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 塩気のない塩。肝心のものが欠けているのです。人に求められる性質が、もはや備わっていないのです。いわば知恵も力もない。いや、元来はあったのかもしれません。元来は塩気のある塩だったのに、塩気が完全に抜けてしまったのです。抜け殻となった塩です。そんなものは、何の役にも立たず、投げ捨てられるだけです。信仰者としても、そんな者になってはいけない、強い信仰と聖書の知識を備えて、この世にあって地の塩としての力強い役割を果たすべきだと、私たちは考える。そして、私たちの各自は、そのような努力に邁進するか、あるいは、努力をあきらめて、悶々として一歩も前に進まない悩める信仰者に留まろうとするか、どちらかとなっている。そうではないでしょうか。 けれども、ここで主イエスは、本当はこうおっしゃっているのではないでしょうか。「あなたが自分で良いと思っている塩気などは、捨ててしまいなさい。」 私たちは、人の役に立たず、捨てられるしかないような者として、自分を神の前に差し出してみたことが、ないかもしれません。そんなこと、恐ろしくてできないかもしれません。けれども、主イエスは、十字架に捨てられて、そしてなお復活の命に引き上げられる道筋を、私たちに開いてくださったのです。その主イエスの弟子となるとは、自分のものだと思って手の内に握っておきたいと思ってきたものを、皆、いったん手放して、捨てて、自分自身を神の御前に差し出す、そのような神への信頼に生きるようになることに他ならないでありましょう。 主イエスは、別のところで、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世では何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(18:29~30)と教えられました。家族を手放し、持ち物を手放し、自分自身を手放して、神の御前に差し出すならば、自分でどうにかしようと思っていたときよりも何十倍も豊かに、神が恵みを与えてくださる、実りを実現してくださると信じて歩む。そのように信じて歩んだ者だけが味わうことのできる信仰の世界、主イエスの弟子として生きる世界が、約束されているのです。 祈り 主よ。こだわっている家族のこと、自分の持ち物、自分自身を、手放させてください。弟子として生きる者に驚くべき恵みの世界を見させてください。アーメン
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