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敬老の日 合同礼拝説教「新しい人」

日本基督教団藤沢教会 2007916

《詩編交読》

18 わたしが老いて白髪になっても

神よ、どうか捨て去らないでください。

御腕の業を、力強い御業を 来るべき世代に語り伝えさせてください。

19 神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。

あなたはすぐれた御業を行われました。

神よ、誰があなたに並びえましょう。(詩編 711819節)

 

《聖書朗読》

12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙 31217節)

 

もう一つの《家族》

今日は、今年度二回目の合同礼拝(教会学校礼拝と主日礼拝)、「敬老の日合同礼拝」です。特にご高齢の方たちのことをおぼえて礼拝をささげています。

今日、この礼拝に集った子どもたちの内で、自分のお祖父様お祖母様と一緒に住んでいる子どもは、どのくらいいるでしょうか。一緒に住んでいなくても、近くに住んでいて、良く行き来して会うことの多い子どもは、いるでしょうか。

教会は、不思議なところです。本当の家族ではないのに、そしていつも一緒に暮らしているわけでもないのに、毎週日曜日ごとに礼拝に集まってくることを通して、だんだんと、お互いが家族の一人のように思えてきます。子どもたちから見れば、教会には、たくさんの兄弟たちやお父さんお母さん、お祖父さんお祖母さんがいます。大人の人にとって見れば、たくさんの子どもたち、孫たちがいます。お互いに他人ではありません。仲良く楽しくすごせることもあれば、喧嘩することもあるでしょう。でも、そういうことを一緒に経験して、一緒に喜んだり悲しんだりすることを通して、私たちは、大きな一つの家族になっていきます。生まれ育った家族は皆違っていても、神さまが一つに集めてくださって、イエスさまを通して結び合わせてくださって、本物の家族、神さまの家族になるのです。

子どもたちは、ぜひ、教会には皆のことを喜んで迎えてくれる家族がいることをおぼえてください。家の家族の他に、皆さんには、教会の家族、兄弟、お父さんお母さん、お祖父さんお祖母さんがいるのです。

大人の人たちにお願いします。教会に集まるすべての人を、ご自分の家族として迎え入れてください。それぞれの家庭の家族のことだけでなく、神から与えられた家族、兄弟姉妹、わが子ら、孫たちを、心に掛けていただきたいのです。

 

新しい人、古い人

今日は、神さまの家族として一緒に、聖書の御言葉から、《新しい人》ということをおぼえたいと思います。

「コロサイの信徒への手紙」という手紙の中から御言葉を聞きました。パウロという人が教会の人々のために書いた手紙です。この手紙の中で、パウロは、《新しい人》《古い人》ということを、丁寧に教えてくれています。

《新しい人》、《古い人》。皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。

《新しい人》というと、新しく来るようになった人のことを思い浮かべるかもしれません。そうすると、《古い人》というのは、前から長く来ている人のことを指しているということでしょう。教会にも、古くから、もう随分長く来ている人がいますし、最近、新しく来るようになった人もいます。そういう《古い人》と《新しい人》がいます。皆さんは、自分が《古い人》だと思いますか、《新しい人》だと思いますか。最初はだれでも、「自分は《新しい人》だ」と思って、分からないことは何でも、だれかに聞きます。それが、教会がどんなところなのか、だいたい分かってくると、「自分ももう《新しい人》ではないな」、と思うでしょう。そして、教会のことをいろいろ他の人から聞かれるようになってくると、「自分も段々《古い人》になってきたな」と思うかもしれません。私たちは、最初はだれでも《新しい人》なのに、だんだんと《古い人》になってゆきます。でも、《古い人》がいるおかげで、《新しい人》も安心して教会に来ることができるのです。皆が《新しい人》だったら、日曜日に教会に来ても、いったい何をしたらよいのかだれもわからない、ということになってしまうかもしれないからです。

子どもの皆さんは、どちらかというと、教会では、《新しい人》かもしれません。そして、大人の人、高齢の人は、どちらかというと、その年齢の分だけ、教会では《古い人》になっているかもしれません。もちろん、大人になってから、年を取ってから、教会に来るようになった人もいますから、そういう人は、大人でも《新しい人》かもしれません。子どもでも、生まれたときからお父さんやお母さんに連れられて教会に来ていた人は、《古い人》のようにも思えます。教会のことだけを考えると、人それぞれです。でも、教会の外のことも考えたらどうでしょうか。この世の中で生きていくということを考えたら、自然と、子どもは、より《新しい人》、大人は、《古い人》、ご高齢の人は、とても《古い人》、と言えるかもしれません。大人やお年寄りのような《古い人》のおかげで、《新しい人》の子どもたちも迷わずに生きていくことができます。だから、聖書でも、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ19:32)と、高齢の人を敬うように教えています。《古い人》を大切にしましょう、という教えです。私たちも、よくおぼえておかなければいけない教えです。

さて、けれども、今日は、聖書が教えている、もう一つ別の意味の《新しい人》《古い人》ということを、良くおぼえて帰りたいと思います。それは、今お話ししたのとは全く反対に、《古い人》を大切にしていてはいけない、皆が《新しい人》にならなければいけない、というお話しです。それが、今日、先ほど皆さんで一緒に朗読を聞いた聖書の箇所、コロサイの信徒への手紙でパウロが教えていることです。いったい、どういうことでしょうか。

 

本当の《新しい人》=イエス・キリスト

パウロは、この箇所のすぐ前で、こういうことを言っています。

古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。(3:910)

パウロは、私たちが皆《古い人》から《新しい人》に変わらなければいけない、と言っています。よく読んでみると、パウロが言う《古い人》というのは、こういう人のことです。《古い人》とは、みだらな行い不潔な行いをする人、情欲悪い欲望貪欲を心に持つ人で、そういう心の人は、神さま以外のものを神さまにしている(偶像礼拝をしている)。そして、《古い人》は、怒り憤りが心に満ちていて、悪い心で人をけなしたり、神さまの前で恥ずかしい言葉を口にしている。そういう人のことを、パウロは、私たちの中の《古い人》だと言うのです。

皆さんはどうでしょうか。自分の中に、どうしようもなく貪欲な心、あれが欲しいこれが欲しいという心が、とめどなく出てきてしまうことはないでしょうか。そして、神さまを忘れてしまうことがないでしょうか。友達や家族との間で、気に入らないことがあって、心の中が怒りの気持ちで煮えたぎってしまうこと、それが爆発して、悪口を言ったり、相手が悲しむようなことを言ったりしてしまうことがないでしょうか。そんなことは全然ない、という人はいないと思います。だれでも、そういう気持ちになったり、そういうことをしてしまったりすることがあると思います。そういう自分の姿を、パウロは、《古い人》と言って、「そういう《古い人》《古い自分》は、脱ぎ捨てましょう」と言うのです。

でも、どうやって、そうすることができるでしょうか。私たちは、自分のそういう気持ちを、どうにも抑えられないことが多いのです。

パウロは、「だから、《古い人》を脱ぎ捨てたら、今度は、《新しい人》を身に着けなさい」と言います。《新しい人》を身に着ける。ちょうど、服を着がえるように、《古い人》は脱ぎ捨てて、《新しい人》を身に着けて、自分の中の《古い人》に代えて、《新しい人》を自分のものとするのです。その《新しい人》として身に着けることが、今日、先ほど読んでいただいた箇所に書いてあることです。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。…

難しい言葉もありますが、子どもの皆さんでも、だいたいのところは分かると思います。私たちは、《新しい人》として、憐れみの心とか慈愛とか、謙遜柔和寛容とか、互いに忍び合うとか、赦し合うとか、するとか、このようなことを身に着けて、そのように生きる。それが、神さまに喜ばれることなのです。

「でも…」と思うかもしれません。「とても、こんなこと全部できないよ」と思うかもしれません。憐れみの心とか慈愛とか、謙遜、柔和、寛容とか、互いに忍び合うとか、赦し合うとか、愛を身に着けるとか、こういうことは、大人になればなるほど、とても難しいことなのだと、分かってきます。

けれども、難しいからといって、あきらめないでください。パウロは、とても大切なことを教えてくれています。それは、この《新しい人》というのは、私たちはなかなかそのようにはなれないかもしれないけれども、本当は、それは主イエスのことなのだ、ということです。主イエスこそ、本当の《新しい人》、私たちの悪い心に満ちた姿、《古い人》とは全く違う、神さまに喜ばれる人間の姿なのです。そして、その本当の《新しい人》である主イエスを、私たちは、服を着るようにして、上から着させてもらうのです。私たちが急に中身から全部《新しい人》にならなければいけないとなったら、大変なことです。私たちは、いつまでたっても、悪い心がなくならないので、《新しい人》になれないままになってしまう。でも、主イエスという《新しい人》は、私たちの上から私たちを包んで、覆って、私たちを《新しい人》に変えてくださるのです。中身まで、すぐには変わらないかもしれません。でも、主イエスという《新しい人》を上にまとって、考え、話し、行動するとき、私たちの中身まで、変えられていくのです。主イエスという《新しい人》が、私たちを、《新しい人》へと変えてくださるのです。

私たちは皆、子どもも、大人も、お年寄りも、この主イエスという《新しい人》を身に着け、上から着させていただけるよう、一緒に祈りたいと思います。私たちの内のだれも《古い人》のままでいるのではなく、皆、主イエスによって、日々、少しずつでも、本当に神さまに喜ばれる《新しい人》に造りかえられていくのです。だれも、だんだんと《古い人》になる人はいません。皆が、日ごとに、少しずつ、本当に《新しい人》になっていきます。《古い人》から《新しい人》へ。主イエスに導かれるとき、私たちは皆、そのようにして、日々、《新しい人》へと成長していく。私たちは、そのようにして共に成長していくために集められた《神の家族》なのです。

 

祈り

主なる神。子どもも大人も皆、《古い人》を捨てて、主のくださる《新しい人》を身に着け、生涯、《新しい人》となり続けることができますように。アーメン