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主日礼拝説教「管理人の生きる道」

日本基督教団藤沢教会 2007923

4このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。5お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。6弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」7主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことを、いつまでも忘れない。」      (アモス書 847節)

 

1軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。2主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。

これらのことを教え、勧めなさい。3異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、4その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、5絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。6もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。10金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

(テモテへの手紙一 6112節)

 

1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカによる福音書 16113節)

 

《不正な管理人》

ルカ福音書には、他の福音書には伝えられていない主イエスのたとえ話が、いくつも伝えられています。今日の御言葉は、そのようなたとえ話の一つです。

《不正な管理人のたとえ》あるいは《不正な家令のたとえ》と呼びならわされてきました。内容に即して言えば、《管理人》というよりは《家令》と言うべきかも知れません。ここに描かれている人物は、マンションに常駐しているような管理人のことではなく、一家一族の、場合によっては国家の、財産管理や運営を任されているような重要な人物のことだからです。

よくできた、分かりやすい物語です。登場するのは、ある金持ちと、その金持ちの財産管理を任されている管理人、そして、この金持ちに借りのある人々。この管理人の男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった、というのが、たとえの物語の始まりです。主人は、管理人の男に会計報告を出させると共に、免職にすることにします。困った管理人は、思案したあげく、管理していた借用証を書き換えて、人々に恩を売ることにするのです。そうすれば、管理人を辞めさせられた後、恩を売った人々に助けてもらえると考えたからでした。ある者の借用証は、油の借用量を半分に、別の者の借用証は、麦の借用量を二割減らして書き換えさせます。そのようにして、管理人の男は、辞めさせられる前に、主人に借りのある人々に恩を売るのです。すると、どういうわけか、この管理人のやり方を知った金持ちの主人が、そのやり方をほめたというのです。

物語として難しいところはありません。けれども、このたとえ話は、昔から、解釈がとても難しいものの一つとされてきました。主イエスが、ここで何を言わんとなさっているのか、理解しがたいところがあるのです。たとえば、ここで、管理人の男は、主人の財産を管理する立場にありながら、不正を働いたか、あるいは力不足であったか、いずれにしても、主人の財産を無駄にしてしまった。そして、そのことを指摘されると、謝罪するのでもなく、弁解するのでもなく、借用証の書き換えという不正を働いて、自己保身をはかったとされる。そのように、不正に不正を重ねて自己保身をはかっているらしい男のやり方が、なぜほめられるのか。むしろ、その不正や、その力不足が、糾弾されるべきなのではないのか。この管理人は、主人から罰を受けこそすれ、ほめられる筋合いはないのではないでしょうか。それとも、主イエスは、ここでだけは、この世にあって抜け目ない賢さをもって生き抜くことを、私たちに教えていらっしゃるのでしょうか。

神の恵みの管理人

私たちは、このたとえで描かれている管理人とは、他でもない私たち信仰者のことなのだということに立ち帰って、もう一度、聴き直してみたいのです。

この管理人の男は、金持ちの主人の財産を管理していた一人です。素直に読めば、この主人とは、主なる神のことでしょう。ですから、管理人が主人の財産を管理していたというのは、私たちが神の恵みを預けられ、管理させていただいている、ということです。私たちは、神のさまざまな恵みの善い管理者として(Tペト4:10)生かしていただいているわけです。別の言い方をすれば、私たちは、神から恵みとして与えられているものを、それにふさわしく用いることによって、もっとも良い生き方をさせていただけるのです。ところが、私たちは、たとえのように、主人から管理を託された財産、恵みを、無駄遣いしてしまっているのです。

私たちには、もちろん、そういう自覚があります。神からたくさんの恵みをいただいて、豊かに用いることができるようにさせていただいているのに、私たちは、自分がその恵みのどれほどをきちんとそれにふさわしく用いることができているか、まったく心もとない。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません(Uコリ6:1)という呼びかけを聴かされるたびに、内心恥じ入らざるをえないのです。決して、神の恵みを無駄にしてやろうと思って、無駄にしているわけではない。不正を働くつもりでもない。ただ、与えられた神の恵みを十分に使いこなすのに、力不足なのです。それが、私たちの自覚であろうと思います。

ですから、このたとえの管理人についても、私たちは同情的に見ざるをえません。主人から財産の管理を託されていたのに、どうもうまく運用できずに、無駄遣いをすることになってしまったのではないか。主イエスは、そういう一人の人の現実を語っていらっしゃるのではないか。そのように考えるのは、あながち間違っていないと思います。主イエスはここで、「この管理人の男が主人の財産を無駄遣いしていた」というのではなく、丁寧に、「この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」と物語っていらっしゃるからです。

実際、私たちは、自分がどれだけ神のくださる恵みを無駄にしているか、十分に自覚しているつもりですが、実は、本当のところ、無駄にしていることのほんの一部しか分かっていないのだろうと思います。いや、実は、口では無駄にしていることを自覚しているようなことを言っていながら、本当には神の恵みを無駄にしているとは、私たちは思ってもいないのかもしれない。それどころか、神の恵みは無限大だから、自分一人がいくら浪費したって、無駄にしたって、構うものかと、心の奥底で思っているところがあるのではないか。

だから、私たちは、神の裁きが語られ、恵みが取り上げられると告げられても、どこか真剣に受けとめていないところがある。このたとえの管理人ほどにも、自分の将来を、自分の身の行き所を、考えていないところがあるのです。

 

不正にまみれた富で友達を作る

しかし、主イエスは、私たちがそのようなところに留まっていて良いとおっしゃられているのではないと思います。このたとえの管理人の男のように抜け目のないやり方で賢くふるまってでも、神の恵みの管理人として本当にふさわしい生き方に立ち帰ることを、主は私たちに望んでくださっているのだと思います。

主イエスは、このたとえ話で管理人の男が借りのある人々の借りを減じるように借用証を書き換えさせて恩を売ったことを、不正にまみれた富で友達を作ることだと言われています。そして、そうすることを勧められました。この不正にまみれた富というのは、必ずしも不当な方法で得た利益ということではないようです。ある人は、これを「この世の富」と一般的な意味に解釈しています。そのような理解も、可能かと思います。しかし、もう一歩踏み込んで、これを「自分に正当な権利のないもの」と解釈することもできるようです。つまり、自分ではなく他人に与えられている神の恵みのこと、あるいは、自分に与えられていても、ふさわしい用い方ができていない神の恵みのこと、と理解するのです。

こういうことです。たとえ話で、管理人の男が人々の借りを勝手に減じて、借用証を書き換えさせたことは、この男には何の権利もないことでした。自分に与えられている分で埋め合わせできるわけでもないからです。ただ、主人の財産を勝手にあてにして、主人だけに損をさせて、人々の借りを減じさせた。そして、恩を売ることで友達を作ったのです。主イエスは、私たちに、この管理人の男のように他者隣人と接したらよい、と言われるのです。自分に与えられた神の恵みを無駄にしているとか、ふさわしく用いることができていないとか、そのことについて言い訳がましいことを語る前に、まず、ごく小さな事不正にまみれた富=自分に権利のないもの、つまり他人のものについて、神の恵みをあてにして語るのです。「神は、ご自分が損しても、あなたの借りを免じてくれるでしょう。罪を赦してくれるでしょう」、と。そのようにして、他者隣人を、神の恵み深い世界へと誘うのです。神の恵みを少しずつ悟りながら生きていく道へと誘うことで、その道を共に歩む友となっていくのです。

主は言われます。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」。「不正にまみれた富について忠実ならば、本当に価値あるものを任せていただけるだろう」。「他人のものに忠実ならば、あなたのものを与えていただけるだろう」。

自分に与えられている神の恵みを無駄にしてばかりいる私たちです。無駄にしていることさえ十分に自覚していない私たちです。自分に与えられていることについては、あまりに無頓着で、手前勝手な考えを持つ私たちです。そうであっても、いや、そうだからこそ、私たちは、周囲の隣人に与えられている神の恵みの豊かさに、深さに、目を向け、語ることをおぼえさせていただきたいと思います。そのようにして、神の恵みの善き管理人として本当にふさわしい者へと成長させられる日を待ち望みつつ、歩ませていただくのです。

 

祈り

主なる神。与えられ託されている恵みを無駄にしてきました。恵みを見失っていました。友との歩みの中で恵みに生きる道に立ち帰らせてください。アーメン