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主日礼拝説教「憐れみの突破力」 日本基督教団藤沢教会 2007年9月30日 1 災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。 諸国民の頭である国に君臨し、イスラエルの家は彼らに従っている。 2 カルネに赴いて、よく見よ。そこから、ハマト・ラバに行き、ペリシテ人のガトに下れ。 お前たちはこれらの王国にまさっているか。彼らの領土は、お前たちの領土より大きいか。 3 お前たちは災いの日を遠ざけようとして、不法による支配を引き寄せている。 4 お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、 羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き 5 竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。 6 大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。 7 それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き、寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。 (アモス書 6章1〜7節) 1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 (ヤコブの手紙 2章1〜13節) 19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 (ルカによる福音書 16章19〜31節) 「金持ちとラザロ」の物語 「金持ちとラザロ」の物語は、ルカ福音書だけが伝えているたとえ話ですが、昔から人々に教えるためによく用いられてきた物語だと言われます。ヨーロッパの多くの教会では、この物語をモチーフにしたレリーフが教会堂の入り口付近に彫られています。この物語に出てくるアブラハムが大きく彫り込まれ、その膝の上に小さなラザロが幸福そうな様子で乗っている、という具合です。そしてまた、このアブラハムとラザロの姿と対になって、こちらは地獄らしきところで恐ろしい形相をした人物=金持ちも、彫り込まれている。礼拝に来た人は、入り口で、まずこの物語を思い出す。そして、死後、天国に至る道から外れないようにと身を正してから礼拝にあずかり、御言葉に耳を傾けたのです 生前、贅沢に遊び暮らし、門前にいる貧しいラザロを疎んじていた金持ちと、悲惨な貧しさを舐め尽くしたラザロ。ラザロは、死ぬと、天使たちに連れて行かれ、アブラハムのもとに憩う。金持ちは、死んで、恐らく立派な葬式を挙げてもらうが、陰府でさいなまれ、炎の中でもだえ苦しむ。二人の間には、生前、門扉という大きな隔てがあったように、死後も、大きな淵があって、渡ることも越えて来ることもできない。このように、死後、人間の行き着くところが大きく二つに分かれているとしたら、あなたは、どちらに行きたいのか、どちらに至る備えを、生きているうちにするのか。そのように問いかけているようにも思えます。 確かに、そういう教えとして聴くことができるかもしれません。そのような教えとして聴いて、私たちの死への備えを尽くすことも、大切かもしれません。ただ、主イエスは、ここでは、ひとつのたとえを話されている。たとえ話によって、何か別のことを指し示して、教えようとなさっているのです。 この物語の後半に描かれているのは、一人の金持ちの男の、死後に後悔する姿です。人は、まかり間違うと、死んだ後、死後の世界で、地獄の炎に焼かれながら、このように後悔することになる、というのです。けれども、主イエスがここで描いていらっしゃるのはもっと私たち一人ひとりにとって切実なことではないでしょうか。つまり、ここに描かれている金持ちの後悔、罪にさいなまれ、もだえ苦しむという経験は、決して、死んだ後初めて味わうようなものではない、ということです。自分の死期を予感し始めた多くの方、余命を宣告された方が、この金持ちのように、罪にさいなまれて、もだえ苦しむ経験をされます。生きているうちに罪の許しを請わなければならないあの人この人のことを思い起こし、和解の機会を得られるだろうかと心悩まれるのです。恐らく、牧師はだれよりも、そのような心苦しむ思いを打ち明けていただく機会が多いと思います。だからこそ申し上げるのですが、本当に、多くの方が、そのような思いを抱かれるのです。 人は、自分の罪を告白して、神と和解し、大切な人々と和解するということが、自分の死への備えとして必要なのです。そして、主イエスは、もしかしたらその備えを十分に終えないまま死のときを迎えてしまうかもしれない私たちに、きちんと、死の前に、いやできれば今から、そのような意味での死の備えを始めるようにと、このたとえを通してお教えくださっているのではないでしょうか。 《良いもの》をもらっているのだから このたとえの物語の金持ちは、陰府で罪にさいなまれながら、ラザロを抱くアブラハムに願います。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。ここで、金持ちは死後も貧しいラザロを顎で使おうとしている、などと意地の悪い見方をする必要はないでしょう。私は、この金持ちの願いの中心は、「ラザロをよこしてください」というところにあるのだと思います。生前、自分の家の門前にいながら招き入れようともしなかったラザロを、金持ちは、自分のところに寄越して欲しいと願っている。そうしてもらわないと、自分の苦しみは解消しないと訴えている。ラザロとの和解を求めているのです。蔑ろにしてきたラザロを迎えることによって、赦しを求めているのです。 そのような和解を求める行動は、死んでからでは遅い。生きているうちに、今から、赦しを求めなければ、死を迎えるときに後悔することになる。主イエスは、私たちに、そうお教えなのではないでしょうか。 私たちの多くは、この世にあって、間違いなく、このたとえ話のラザロであるよりは金持ちなのだろうと思います。もちろん、ここに描かれるような贅沢三昧をしているわけではないかもしれません。しかし、この金持ちが告げられているように、私たちは、この世にあって、すでに良いものをもらっているのです。この世にあって、どうしてこれほど不平等があるかとも思いますが、しかし、私たちの多くは、どう見ても良いものを与えられている。良い生活、安全な生活を与えられ、それどころか、信仰も与えられ、礼拝を守る生活も与えられている。神から恵みとしていただいている良いものを数え始めたら、きりがありませんが、私たちは、それをきちんと数え上げるべきなのではないでしょうか。神からいただいている良いものが、どういうものなのか、きちんと把握すべきなのではないでしょうか。そして、なぜ、私たちにそれらの良いものが与えられているのか、神から託されているのか、よくよく考えてみるべきなのではないでしょうか。 「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。ここで、主イエスは、良いものをもらっている者には、一つの責任があると言われているのだと思います。その良いものを用いて、人を慰め、和解への行動を起こしていくという責任です。いや、責任があるというよりも、そのことができるように、神が良いものをくださっていると、もっと深く悟ることを、私たちに求めていらっしゃるのだと思うのです。 主が憐れんでくださるならば… このようなことを、主の教えとして受けとめていても、私たちの隣人との和解に向けた行動は、いつも遅すぎるのだと思います。いつも、私たちは、どうしようもないほど関係を壊してしまったり、巧妙に関わりをもたないようにしたりしてしまって、自分ではどうにもならなくしてしまう。だれかに、どうにかしてもらうしかないと、思い至らされる。いや、だれも、自分の壊してしまった関係を修復してくれる人などいないと、思い至らざるを得ないことだって、ある。 ところが、このたとえの物語で、死後、金持ちは、ラザロとの和解を仲介してもらおうと、アブラハムに頼んで「わたしを憐れんでください」と訴えますが、アブラハムは、何とも冷たく退けている。信仰の父と呼ばれるアブラハムであっても、和解を執り成すことができないことがある。憐れみを与え得ないことがある。それが、人間の現実です。どんなに立派な信仰者であろうと、牧師であろうと、本当の意味で和解を求めている人に、助けを与え得ないことがあるのです。 しかし、私たちは、これを最後の結論であるかのように考えてはいけないのだと思います。この物語を語られたのは、主イエスです。アブラハムの限界、人間の限界を告げられたのは、主キリストです。その主イエス・キリストは、私たち人間の限界を超えてお働きくださる神の恵みをお示しくださるために、死んで陰府に降られた後に、死者の中から生き返られた、復活なさったのです。復活なさった主イエスが、自らモーセと預言者、つまり聖書の御言葉を弟子たちに説き明かしてくださり、彼らを憐れんで助け励ましてくださったのです(24章)。 私たちは、私たちが関わりを断っていた隣人たち、心の中で殺してしまっていた人々、ラザロのように死者同然に見なしてしまっていた者、そのような死者の中に、主イエスがご自身の身を置かれたということを、心に刻みたいと思います。そこに至っても、なお、和解を実現し、関係を修復しうる力をお持ちの方、主イエス・キリストを、私たちは、神からいただいているのです。真実に良いものとしていただいているのです。私たちは、この方にこそ、この方をお与えくださった神にこそ、求めて訴えることが赦されているのです。 「主よ、わたしを憐れんでください。神よ、私たちを憐れんでください。」 祈り 主よ。憐れんでください。心の内に殺していた隣人と心から和解させてください。友とならせてください。恵みの賜物をふさわしく用いさせてください。アーメン |