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世界聖餐日礼拝説教「食事の席に着きなさい」 日本基督教団藤沢教会 2007年10月7日 39もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。40雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。41その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。42エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。43あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。44しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の国々から得た者である場合は、それを奴隷として買うことができる。45あなたたちのもとに宿る滞在者の子供や、この国で彼らに生まれた家族を奴隷として買い、それを財産とすることもできる。46彼らをあなたの息子の代まで財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることもできる。しかし、あなたたちの同胞であるイスラエルの人々を、互いに過酷に踏みにじってはならない。 (レビ記 25章39〜46節) 1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 (ルカによる福音書 17章1〜10節) 世界聖餐日礼拝 日本基督教団が、10月第一日曜日を「世界聖餐日」と定めたのは、太平洋戦争終結の翌年のことでした。すでに1936年に米国長老教会で始められていた「世界聖餐日」は、戦争終結をもって日本の教会にも紹介され、それを受けた教団は、1946年9月に「世界聖餐日遵守の件」という通知を全教会に出したのです。 1946年当時、この通知を受けた各教会は、どのような聖餐式を執り行ったのでしょうか。当時、日本基督教団には、いまだ統一的な礼拝のあり方を示す『式文』がありませんでした。教団が初めて『式文』を発行したのは3年後の1949年なのです。恐らく、1946年当時は、各教会が教団成立以前に属していた旧教派の『式文』を用いて、それぞれのやり方で聖餐式を執り行ったのではないかと想像されます。「全世界の教会が主の聖餐を執行し、主にある交わりを堅くしたい」との趣旨を持ちながら、聖餐式自体は、各教会ごとに違った仕方で、つまりバラバラの方法で、執り行わざるを得なかったのです。 その後、1949年に最初の『式文』が発行され、それから10年後には、私たちが慣れ親しんできた『口語式文』が発行され、日本基督教団の多くの教会で、同じ礼拝順序、同じ聖餐式文が採用されるようになりました。もちろん、各教会ごとに独自の変更も施されてきました。それでも、多くの場合、基本としている礼拝・聖餐式の順序式文は同じです。ですから、私たちは他の日本基督教団の教会の礼拝に出席しても、他教派の教会に出席するほどには、違和感を感じないできたのです。その日本基督教団は、昨年、ほぼ半世紀ぶりに、新しい『式文』を公に発行しました。そこには、まず最初に、私たちが慣れ親しんできたのとは随分違う礼拝・聖餐の執行方法が示されています。解説によると、それは、20世紀の世界的な礼拝理解の変化を踏まえて、より広範なキリスト教礼拝の伝統に基づいた、エキュメニカルな礼拝式だとされています。私たちは、今日の礼拝で、その礼拝式文の中から「聖餐」の部分のみを試験的に用いることとしました。慣れたものと違うから拒む、というのではなくて、まずは正面から受けとめてみよう、ということです。その上で、私たちが知らなかったキリスト教会の財産があるのであれば、それを喜んで受け入れ、また、従来から大切にしてきたものの何を残し、何を変えていくのか、全教会的な祈りの中で、考えていきたいと思うのです。 つまずき、戒め、悔い改めと赦し それにしても、礼拝のスタイルを変更することは、多くの場合に、躓きになると言われます。私が神学生時代にお世話になったある教会は、当時、礼拝のスタイルを大幅に変更した直後でしたが、一人の年輩の教会員が、変更された礼拝順序の中に組み入れられた一つの項目だけがどうしても受け入れられないという理由で、教会を去って行かれるという出来事がありました。礼拝のごく一部であっても新しく変えられたことが受け入れられないとき、それは、一人の礼拝者にとって大きな躓きになり、教会を離れる理由にもなるのだと、神学生であった私が強く心に記憶することになった出来事でした。 主イエスは言われます。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」 主イエスはこのとき、すでに、いくつものたとえを語られた後でした。見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえ、不正な管理人のたとえ、金持ちとラザロのたとえ。それらを通して、主は、罪を悔い改めた者が神のもとに取り戻されること、そして人と人との間で失われていた交わりが回復されることを、神の御心として教えられたのです。そうであるのに、現実の主の弟子たち=私たち信仰者は、いまだに、互いの間に躓きを生じさせ、関係を壊し、交わりをバラバラにしてしまうことが、どれほど多いことか。「つまずきは避けられない」との主の言葉の内に、主の深い嘆きを聴き取らないわけにはいきません。 「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 教会でも、躓きを経験することがあります。教会によってはしばしば、「牧師に躓いた」「あの役員に躓いた」「あの人に躓いた」といった言葉が、陰に陽にささやかれるのです。それは、正当な批判である場合もあれば、むしろ自己本位なわがままである場合もあるでしょう。理由はともあれ、いずれにしても、教会の中で互いの間に躓きが生じて関係が壊れていくことが、あるのです。だからこそ、主は、あのたとえを語ってくださって、神の御心をお教えくださった。戒めて悔い改めを促し、互いに赦し合うことによって、神の御前に立つ私たち皆が一つの交わりの内に歩み続けることを、教え願ってくださったのです。私たちの間で失われた関係が、再び見出され、回復されること、これこそ、神が主イエスを通してお示しくださっている御心であることを、私たちは、深く心に刻みたいのです。 《信仰》の問題? そのような神の御心に沿って歩み続けることができるかどうか。それは、確かに、私たちの信仰の有り様に左右されるに違いありません。主イエスの使徒たちは、このとき、「わたしどもの信仰を増してください」と言った、と伝えられています。私たちも、信仰が大きく豊かならば、つまり熱心な信仰を持っていれば、信仰者として神の御心に沿って歩み続けることができると考えるし、そのように願います。ところが、主のお答えは、別のことを私たちに教えます。 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」 主は、神の御心に沿って歩み続けることができるかどうか、具体的には、互いに戒め合い、赦し合って、共に神の御前に歩み続けることができるかどうか、それは、信仰の大きさ、熱心さによるのではない、と言われるのです。そうではなく、からし種一粒ほどの信仰があれば良いのだと、言われる。それは、どういう意味でしょうか。信仰は熱心である必要はない、ということでしょうか。信仰は弱く小さなものでよい、というのでしょうか。そうではないと思います。主は、恐らく、信仰の大きさや豊かさ、その熱心さを考えるばかりでなく、まず、その質をよく自己吟味しなさい、とおっしゃられているのです。本当に主がお教えくださっている、倣うように、従うようにと示してくださっている真実の信仰を、しっかりわきまえるようにと、おっしゃられているのではないでしょうか。 「すぐ来て食事の席に着きなさい」 主は、そのような真実の信仰、からし種一粒から始めても十分な信仰をお教えくださるために、主人に仕える僕の姿勢をお語りくださいました(7〜10節)。 主人と僕の上下関係は、絶対です。僕が命じられたことをみな果たすのは、当然のことです。主人が甘やかしてくれないからといって、いちいち口答えしたり、意見を述べたり、ましてや言い訳を繰ったりするなど、ありえないことです。しかし、そのような絶対的な関係の中でこそ、僕は主人に信頼される歩みを全うできる。神と人との関係、信仰の関係とは、そういうものだと、主は言われるのです。神に対する絶対的な服従、御言葉による命令や戒めへの従順、文字通りの実行。そのような姿勢こそ、真実の信仰の姿勢なのだと、主はお教えなのです。 私たちは、もちろん、そのことを知っています。もっと素直に、純粋に、神の御言葉を守って、主に服従して生きる者となりたいと思っています。けれども、現実はなかなかそうはいかない。いつのまにか別のものに惹かれ、神の御言葉から離れて物事を考え、行動している。そして、主に素直に従い得ない自分の姿に、嫌気がさしてしまう。情けなくなり、卑屈になってしまう。そういう負け犬的な信仰の姿勢を、いつのまにか身に着けてしまっているのではないでしょうか。 けれども、主は、そのような私たちのことをよくご存じだからこそ、この主人と僕の関係のたとえをお語りになられたのではないでしょうか。主は、神と人間との関係を、繰り返し、主人と僕との関係にたとえてお語りになられていますが、主がお語りになられる主人である神は、実は、決して、ここに語られているような主人ではないからです。主は言われるのです。「神は、不正な管理人が友達を作るために働いた不正な行為をお褒めになるような方。放蕩の限りを尽くした息子を無条件で迎え入れて祝宴を開く父親のような方。見失った一匹の羊や無くした銀貨を見つけては、大げさに喜びを告げてくださる方。」主がお語りになられた「目を覚ましている僕のたとえ」(12:35~40)を思い起こします。神は、私たちの主人であられながら、僕である私たちに代わって、帯を締めて、私たちを食事の席に着かせ、私たちの食事の給仕をしてくださるというのです。そして、主イエスもまた、あの最後の晩餐の席で、こうお語りになられたのでした。「…わたしはあなたがたの中で、いわば給仕するものである」(22:27)。 私たちは今から、主の晩餐の食卓、聖餐にあずかります。私たちは、そこで、「食事の席に着きなさい」と招いてくださる主イエス・キリストと、出会わせていただくのです。本来ならば、私たちが食事の準備をして、給仕をすべきところです。しかし、そのような真っ当なことをできない私たちに代わって、主は、ご自身が僕の役割をとって給仕をし、私たちを食卓に招いてくださっている。 聖餐の食卓にあずかるとき、このことを深く、心に刻みたいと思います。主は、この食卓で私たちと出会ってくださり、私たちが主の御言葉に従うことができるような関係をお造りくださるのです。今までの僕としての不出来な行動を、咎められるのではありません。これから、新しく、主の御言葉に従う僕としての歩みを始め直せるように、主は、聖餐の食卓へとお招きくださっているのです。 祈り 主なる神。私ども皆が御心を悟り、主の僕としてふさわしく歩めますように。お招きくださる食卓の交わりから、新しい歩みを始め直させてください。アーメン |