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主日礼拝説教「神の国を待ちながら」 日本基督教団藤沢教会 2007年10月21日 19ギデオンと彼の率いる百人が、深夜の更の初めに敵陣の端に着いたとき、ちょうど歩哨が位置についたところであった。彼らは角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。20三つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んだ。21各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走した。22三百人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・メホラの境まで逃走した。23イスラエル人はナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、ミディアン人を追撃した。 (士師記 7章19〜23節) 11人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」 (ルカによる福音書 19章11〜27節) 伝道への取り組み 日本基督教団の行事暦では、今日(10月第三主日)からの一週間が「信徒伝道週間」と定められています。行事の続く季節ですから、藤沢教会では、特に集中的な伝道への取り組みをしていませんが、もしも余裕があるにしても、取り立てて「信徒伝道」ということを取り上げることも、本当ならば必要ないのかもしれません。私たちは広い意味で宗教改革の系譜に属するプロテスタント教会として、もともと《万人祭司》という考え方を大切にしてきました。信徒も教職も身分に違いはなく、ただ、それぞれの役割の中で、一人ひとりが祭司のような自覚を持って、御言葉に聴き、礼拝をささげ、伝道に励むのです。 主イエスは、後に使徒と呼ばれるようになる十二人の弟子たちを集めて伴い、ときに宣教活動に送り出されましたが(ルカ9:1以下ほか)、ルカ福音書が伝えるところによると、それだけでなく、そのほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた(10:1)ことがありました。特別な教職者として立てられる者だけでなく、主イエスに従う者はだれでも、主に任じられて伝道宣教の活動に送り出されている、ということを教えているのでしょう。しかも、大切なことは、福音書によると、十二人が遣わされる場合も七十二人の場合も、活動の中身は変わらない、ということです。主イエスに遣わされる者は皆、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わ(9:2)されるのです。 「御国をきたらせたまえ」 今年も、クリスマスに向けて数名の方が洗礼を受ける決意を明らかにされ、受洗準備会を牧師と共に重ねてくださっています。準備会の回数が多くても少なくてもぜひご一緒に学びたいと思いつつ、実際には後回しになっているものに、「主の祈り」があります。洗礼を受けるに際して主の祈りを学び直していただきたいと思っているわけです。かつて、ローマ帝国の激しい迫害下にあった古代教会では、洗礼を受けた者だけに主の祈りの言葉が教えられた時代があったと言われます。主の祈りは、主イエス直伝の祈りであり、キリスト者にとって秘儀中の秘儀とも考えられたからです。短い祈りの言葉です。幼児でも、すぐに覚えてそらんじます。一度聴いただけで覚えてしまう人もいるでしょう。しかし、それを、古代教会の人々はあえて秘儀として教会の外の人々には隠したのです。一つの理由は、主の祈りが極めて政治的なものとして受けとめられる言葉を含んでいることにあったようです。「み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という言葉が、権力者から危険視される恐れがあったのです。 権力者からどう見られるかは、今日では、本質的なことではないかもしれません。しかし、この祈りの言葉は、真正面から受けとめるならば、決して簡単なことを言っているのではないと思います。「神の国・御国」とは、「神のご支配」という意味の言葉です。神の国を求めるということは、私たちの中にある他者や物事を支配したいという欲求を断念して、これまで支配していた領域・領分を神に明け渡すということです。神の御前で自分の権利を主張しないということです。それを、個人のレベルでも、社会、世界でも、求めていくということです。当たり前にできることではありません。むしろ、現実の生活の中では、教会の中でさえ、ほとんど不可能なのではないかとさえ思わされることを求めているのです。 それでも、キリスト者は、自分が「神の国・御国」「神のご支配」を祈り求めているのだと、主の祈りを唱えるたびに、言い表しています。神の国を求めることこそがキリスト者の祈りの中心だ、ということです。主イエスが、そのことをお教えになられたのだし、私たちは、そのことを人々に宣べ伝えています。もちろん、ただ祈り願うだけでも、知識として教えているだけでもありません。すでに、「神の国・神のご支配」の下に生きる生き方を始めようとしている。自分たちひとりではなく全世界が完全に「神の国」に生きるようになることを目標にして、歩み始めている。それが、キリスト者であり、キリストの教会なのです。 私たちすでに洗礼を受け、主の祈りを祈り続けている者は、あらためてこのことを心に刻み直したいと思います。これから洗礼を受けられる方には、ぜひ、主の祈りに示されるこの「神の国」を求めて生きるということを深く学んで、「神の国」を目標として歩み続ける教会に加わっていただきたいと願います。 ムナのたとえ 今日、私たちが聴いたルカ福音書の御言葉は、「ムナのたとえ」が語られた物語です。これは、マタイ福音書25章に伝えられる「タラントンのたとえ」とよく似た話です。二つのたとえ話のそれぞれの強調点は多少違うようですが、いずれも、神の国を目標として歩み続ける信仰者、その群れである教会のあるべき姿勢を教えているようです。 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。 主イエスは、神の国はいつ来るのかと尋ねた人に対して、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20〜21)と教えられたことがありました。神の国は、しばしば、世の終わりに完成する理想の世界として描かれます。主イエスも、そのようにお語りになられました。それはつまり、人間の努力によって実現するものではないし、人間が自分で所有することのできるものでもない、ということでしょう。しかし同時に、その神の国が、キリストによってすでに信仰者の間では始まっているのだとも、主イエスは言われるのです。そのような、いまだ実現はしていないけれども、すでに始められている神の国に目を向けて生き続ける信仰者の姿を、主イエスは、王の帰国を待つ僕の姿にたとえてお教えになられた。それが、「タラントンのたとえ」、「ムナのたとえ」です。 特に、この「ムナのたとえ」は、しばしば、この世で神の国を待ちながら生きる信仰者が伝道宣教の業に仕え続けるべきことを教えるたとえだとされてきました。「タラントンのたとえ」では、王が僕に預けるもの(タラントン)の量が違うのに対して、「ムナのたとえ」では、僕が預かるもの(ムナ)の量が皆同じだからです。確かに、私たちはお互いを見比べると、神から与えられている能力や機会が皆違うことに気づきます。神は不平等なことをなさるとさえ思うことがあります。けれども、神が各人に平等にお与えくださっているものがあるのも、確かです。このたとえで、僕が各人平等に与えられ、あなたの一ムナと呼んでいるものです。ある人は、それは「いのち」のことだと言います。別の人は、「信仰」のことだと言います。また別の人は、「御言葉」のことだと言います。 こんなことを思い巡らしても良いかもしれません。一ムナという金額は、私たちの貨幣価値に直すと百万円くらいのものだと言われます。このたとえの中で、王は、それを指してごく小さな事と言います。百万円をごく小さな事とは言いにくいかも知れませんが、私たちの伝道資金だと考えたらどうでしょうか。教会を新しく開拓するための元手だと考えたらどうでしょうか。とても十分だとは言えないでしょう。百万円では、聖書と讃美歌と最小限の礼拝用具を揃えたら、ほとんど無くなってしまうかもしれません。けれども、逆に言えば、私たちの伝道とは、そういう最小限のもの、場合によっては聖書だけがあれば、始めることができるものでもあります。何も最初から立派な会堂を建てるなどと意気込むこともありません。二人、三人の小さな集会から始まって、何年かの後に一つの教会として建て上げられた例は、少なくないのです。私たちの教会の中でも、既存の集会組織がたくさんある中で、なお、新しい集会が、小さいながらも始められることがある。そのような集会を、黙って守り続けてくださっている方々がある。私は、そういうところから、私たちの伝道宣教の業が始まるのだろうと思います。一ムナを誠実に用いて五ムナ、十ムナとし、五つの町、十の町を授けられた僕があったと、たとえ話で語られているように、聖書一つを囲んだ誠実な集会が、大きく成長し、一つの独立した教会まで建て上げられる、ということが起こってくる。そういう幻を、主イエスは私たちにお示しくださっているように思うのです。 僕が主人に向かって語っている「あなたの一ムナで十ムナもうけました」という言葉は、直訳すると「あなたのムナが十ムナを生み出しました」となるそうです。私たちは、御言葉にしろ他のものにしろ、神からお預かりしているものを用いて何かをする、という意識があると思います。けれども、うっかりすると、神からお預かりしているものを利用価値のあるものにしているのは、自分たちであるように思ってしまっていないでしょうか。本当は、神からお預かりしているものが、それ自体で御業を起こす力を持っているのです。伝道宣教ということで言うならば、私たちが神の御言葉を誠実に忠実に大切にするところでは、御言葉自体がお働きくださり、御言葉を中心とした集会・営みを増し加えてくださるのです。それを信じて歩み続けるところに、神の国を目標にして生きる教会の姿がある。私たち一人ひとりの歩む姿がある。 神からお預けいただいている一事にのみ誠実に、忠実に、歩み続けたいと思います。私たちの中の一人も、神がお預けくださっているものを布に包んでしまい込むようなことの無いように、互いに励まし合いつつ歩みたいと願います。そのようにして、主の導きのうちに、神の国がすでに始められていることを証しする群れとして整えられて行きたいと願います。 祈り 主なる神。あなたの御国をはるかに仰ぎ見させてください。主の教会の中にあって、すでにお始めくださっている御国の御業に仕えさせてください。アーメン
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