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主日礼拝説教「キリストによる、キリストのための、キリストにある教会」 日本基督教団藤沢教会 2007年10月28日 1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 (創世記 1章1〜5、24〜31節) 15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイの信徒への手紙 1章15〜20節) 《キリスト賛歌》 神奈川教区の主催する音楽祭に、今年も、藤沢教会聖歌隊が参加、讃美の奉仕をいたします。教区内の限られた教会からですが、普段、それぞれの地にあって礼拝をささげている群れの讃美奉仕者が、一堂に会して、それぞれに讃美の奉仕をささげ、共に讃美の歌声を合わせるのです。よい会場を与えられて、今年は、31回目を迎えました。藤沢教会聖歌隊も、4年連続で参加することになりました。私たちの多くは、音楽祭の会場に足を運ぶことができないかもしれませんが、私たちの群れの代表として参加してくださる聖歌隊を、祈りと祝福をもって送り出したいと思います。祈りと歌声を一つにするために、よい準備をしてこられました。私たちの群れの代表として参加していただくことを、私たち皆が覚え、神奈川教区諸教会の全会衆が祈りと歌声を一つにする群れとして集められていることを、心に刻みたいと思います。 聖歌隊に、礼拝への招きの讃美の奉仕をいただきました。週報には、「ラシーヌの賛歌」と曲名が記されています。17世紀のフランスの作家ラシーヌの詩句に19世紀の作曲家フォーレが曲をつけたものです。原詩の完全な訳ではないのかもしれませんが、聖歌隊が歌った日本語訳歌詞は、次のように歌っていました。 「聖なる主よ、慰め主、とこしえの光の主よ、地に住む者の嘆きの声を聞いて、こたえてください。祈りに耳を傾けて憐れみ、力づけてください。力を得て生まれ変わり、あなたの御旨のまま、この世の荒海を乗り越え進み、主のめぐみをたたえて、とこしえまで世の旅路をたどりゆこう。御栄え全能の父とその独り子にあれ、ほめ歌おう、聖なる主を!」 翻訳なので、原詩の美しさは分かりません。けれども、歌われていることが、心から神を誉め歌っているものであることは、よく分かります。「賛歌」と呼ばれるのにふさわしい歌です。もっとも、「賛歌(頌歌、カンティクム)」という呼び名は、もともとは、聖書の中に伝えられている詩編以外の詩歌を讃美の歌として歌うときに指して用いる呼び名でした。旧約聖書にもたくさんありますが、新約聖書では、ルカ福音書1〜2章に伝えられる、マリアの賛歌(1:47〜55)、ザカリアの賛歌(1:68〜79)、シメオンの賛歌(2:29〜32)などを指して、賛歌と呼ぶのです。それらの賛歌は、もともと聖書が書かれる前に讃美の歌としてすでに歌われていたものが、聖書の中に伝えられるようになったのだろうと考えられています。ですから、新約聖書の中に伝えられる賛歌は、新約聖書がまとめられる前の初代教会が、自分たちのキリスト信仰を表現するために新しく歌った、キリスト教会最古の讃美歌なのだとも言われるわけです。それらが聖書に収められたことによって、私たちは二千年の時を超えて、初代のキリスト者たちと同じ讃美歌を歌うことができる。それは、不思議な感じもしますが、しかしまた、心躍るような、とてもうれしいことではないでしょうか。もちろん、二千年の間に歌詞を歌わせる曲は変わってきていますが、同じ歌詞の讃美歌を歌うことができるのです。 古い時代にはあまり知られていなかったことですが、初代教会で歌われ始めた《キリスト賛歌》と呼ばれるいくつかの賛歌があったことが、近代の聖書学者たちの研究で分かってきました。たとえば、フィリピの信徒への手紙2:6~11などです。それらは、必ずしも賛歌の引用だと分かるようには、翻訳されていません。伝統的に、賛歌の引用だと考えてこなかったからです。ところが、学者たちの研究で、たとえば手紙や福音書が散文で書かれている中に、突然、詩形の文が現れることが分かったのです。そのような箇所を厳密に研究して、ここはかつての讃美歌の引用だろうということが言えるようになってきたのです。 そのような《キリスト賛歌》の一つと言われているのが、今日、私たちが共に朗読を聴いたコロサイの信徒への手紙1:15〜20の聖句です。翻訳は完全に散文の中に埋まってしまっていますが、聖書の原文をみると、この箇所だけ、非常にきれいな韻律の詩形で書かれているのです。この手紙を書いたパウロとテモテ(1:1)のどちらかが、恐らく宛先のコロサイ教会でも知られていたであろう賛歌の一つを引用しながら、この手紙のこの部分を書き綴っていったのでしょう。 世界はキリストのもとに そこで、あらためて、この聖書箇所を《キリスト賛歌》として、つまり讃美の詩歌として口にしてみていただきたい。私に詩吟の素養でもあれば、上手に詩の形に読み直して、紹介したいところですが、とてもそういうわけにはいきません。ですから、皆さん各自で、心の内に、この聖句を《キリスト賛歌》として、讃美歌の歌詞として、読み直し、口にしてみていただきたいのです。 そのようにして聴き直してみるとき、私たちは、この六節ほどある聖句が、決して難しい神学を論じているのではないことに、気づくと思います。洗練された言葉が、一筋のメッセージを美しく語りかけてくる。私たちが愛唱する讃美歌が、単純に一筋のメッセージを私たちの心に刻んでくれるように、この《キリスト賛歌》も、とても単純なメッセージを、美しくも力強く、語っている。いや、歌っている。そう思われないでしょうか。 御子は、見えない神の姿…、すべてのものが造られる前に生まれた方…。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた…。…万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 御子キリストが、見えない神の見えるお姿であられること。そのキリストが、世界万物を治められていること。そのような素朴にも美しい世界の姿が、ここには歌われています。もちろん、現実の世界が、昔も今もこれからも、そういう美しい姿を現していると、単純に告げているのではありません。神から離れ、失われ、死んだ者の回復、死者の復活が必要であり、平和の回復が必要です。しかし、それもすべて、御子キリストの御業の中にあると、続けて歌われています。 …御子はその体である教会の頭…。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方…。…すべてのことにおいて第一の者となられた…。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられ…た。 私は、この聖書箇所をすでに一ヶ月以上前から今日の主日礼拝の日課として与えられて、繰り返し読み返してきました。そして、ここにある一節ごと一句ごとの意味を明確にして、この箇所が語る論理の筋道を掴み取っていこうとしていました。ところが、なかなか筋道を掴みきれなかったのです。なぜだろうかと思いました。私の学びが足りないからだと思い、ありったけの注解書、解説書も開きました。結局、私が、開いた注解書や解説書から教えられたのは、これは《キリスト賛歌》なのだということ、教会の人々が愛し、また手紙の著者パウロとテモテも愛して歌ったであろう讃美歌として聴くべきだ、ということでした。 私は、牧師になった頃に、ある大先輩の牧師から、「自分は先輩の牧師から、説教で讃美歌を引用するべきではないと教えられたけれども、どう思う」と問われたことがあります。私は、そのときにはとっさに答えられなかったのですが、その後、幾度か、説教の中で讃美歌を引用するということをしてきました。多くの人に愛唱されてきた讃美歌の持つ、美しくも素朴で力強いメッセージが、聖書の御言葉を学ぶ私たちの信仰を明確にし、強め、造り上げる力を持っていると思うようになったからです。コロサイの教会に宛てて手紙を書いたパウロとテモテもまた、そのような讃美歌の力を知っていたからこそ、ここで一つの皆に愛されていた《キリスト賛歌》を引用したのではないでしょうか。 全世界の面前で讃美を歌う 今日、私たちは、この賛歌の部分を越えて共に御言葉の朗読を聴くことをいたしませんでしたが、このコロサイの信徒への手紙の全編を読んでいくと、この教会の置かれていた現実の厳しさというものが伝わってきます。信仰上の混乱もあったようです。教会生活の営み方について、互いの間に衝突もあったようです。日常生活もまた、キリストのご支配などどこにも見いだせないような世の人々の生活に巻き込まれていたようです。《キリスト賛歌》に歌われているような世界の美しさ、キリストの治められる世界の姿は、現実から遠く離れたもののように思われていたかもしれません。ですから、そのような現実の中で、パウロは、主の教えに従って耐え忍んで生きるようにと、繰り返し教えています。 しかし、そういう生活の中で、私たちは、ときに信仰者として歩んでいくことの希望を見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。神が世界をお治めくださって、美しい世界として完成してくださる、などということは、自分には関係ないことであるように思えてきて、落胆した日々を送るようになってしまうことがあるのだと思います。 けれども、パウロは、ただそのようにして、地上の現実の生活の中で這いつくばるようにして生きている私たちに向かって、希望を見失わないようにと、あの《キリスト賛歌》と呼ばれる讃美歌を思い起こさせてくれているのではないでしょうか。この賛歌に歌われていることを、理屈で考えていたのでは、私たちは、現実の厳しさのほうに引き込まれて、希望を見失ってしまうかもしれません。けれども、私たちは、ほとんど希望を見失ってしまったような状態に陥ってしまったとしても、それでも讃美歌を歌うところに帰ってくることができるのです。キリストが創造の初めから世界をお治めくださっていて、この世界を美しいものとして、キリストにふさわしいものとして回復してくださるという約束を、教会の礼拝で、もう一度、口にし、また聴くことができるのではないでしょうか。 詩編の詩人は、主を賛美するために民は創造された(詩102:19)と告げました。私たちは、神を賛美し、主の栄光を告げる群れとして、集められています。宗教改革者たちが全会衆の賛美を回復したことを思い起こしたいと思います。私たちは、キリストによって世界をお治めくださる神を賛美するのです。教会は、世界に向かって声高らかに賛美の歌声を響かせることをこそ許されているのです。 祈り 主よ。憐れみにより主を賛美する群れに加えていただきました。世の現実の中にあってなお力強く主の栄光を歌い、真の希望の内に歩ませてください。アーメン |