印刷用PDFA4版2頁 |
---|
終末前々主日礼拝説教「ようこそ、神のミステリーツアーへ」 日本基督教団藤沢教会 2007年11月11日 1主はアブラムに言われた。 6アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。7主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 9アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。 (創世記 12章1〜9節) 13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。14律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。15実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。16従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。17「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。18彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。19そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 (ローマの信徒への手紙 4章13〜25節) 終わりに向かって 永眠者記念礼拝を終えて、私たちは、11月の残りのときを、《終末三主日》として過ごします。待降節(アドベント)から数え始める教会暦の終わりの三主日を、特に《終末》ということに目を向けて歩みます。永眠者記念礼拝に、私たちは、親しい人々一人ひとりの地上の生涯とその死をおぼえ、地上に歩む人間の営みの終わりに目を向けました。それに続く終末三主日には、いわば人類全体の、特に信仰者の群れである神の民の地上にある歩みの行き着く先をおぼえ、その営みの終わりに目を向けてゆくのです。 このときに与えられている今日の聖書日課は、旧約聖書から創世記のアブラハム物語です。私たちキリスト信者にとっても、大切な意味のある信仰者の物語です。聖書が物語る《神の民》のいわば初穂とされた人物の物語です。使徒パウロは、このアブラハムのことをわたしたちすべての父(4:16)と呼んでいます。無論、それは、《信仰の父》ということです。アブラハムの信仰は、私たちが模範として従うべき信仰なのだというわけです。そして、私たちは、確かに信仰の父であるアブラハムの信仰を、代々連綿と受け継いできた信仰者の群れ、神の民の末裔に位置しているのです。いや、私たちは、主イエス・キリストによって新しく創り直された神の民として、アブラハムの信仰を受け継ぐ群れなのです。 このアブラハムの信仰の歩みの物語を、今、御言葉として聴いています。神の民の初めの物語を御言葉として聴き直しながら、私たちは、キリストによって新たに創られた神の民の一員として、終末(終わりの日)に向かって、いかなる歩みを歩み続けていくべきなのか、そのことを、あらためて教えられたいと思います。私たちが神の民として歩みを続ける、その歩みの原点はどこにあるのか、どこに目を向けて歩み続けるべきなのか、そのことを確かめながら、神の民として生きる自分自身の姿を、もっと鮮明に自覚する者の群れとされたいと思います。 神の言葉を聴くことから始まる アブラハムの信仰の歩みは、神の呼びかけによって始められます。 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。…」 聖書には、多くの信仰者の物語が綴られています。その多くの物語に共通するのは、どの物語でも、信仰者の信仰の歩みは、必ず、神からの呼びかけ、あるいは神から遣わされた者の呼びかけによって、それに応じることから始められる、ということです。一人の人が、努力して学びを重ね、悟りを開いて、自分自身で一つの信仰を選び取って、その歩みを始める、というような物語は、一つもありません。パウロが、実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ロマ10:17)と語っているとおりなのです。 私たちは、自分自身の信仰の歩みの始まりを思い起こしてみても良いかもしれません。信仰者の家に生まれて、気がついたときには信仰の歩みを始めていた、という人もあるかもしれません。私も、そういう一人です。けれども、だからといって、その後、あらためて信仰の歩みの始まりと言える経験をすることがない、というわけではありません。私自身のことで言えば、二つの大きな経験がありました。一つは、洗礼を受ける決意を与えられた経験、もう一つは、伝道者として献身する決意を与えられた経験です。それぞれの経験の中で、聖書の御言葉の一節が、あらためて神からの呼びかけの言葉として、自分の中で大きく響いたのです。そのときに響いた神の御言葉は、今に至るまで忘れ得ないものとなっています。私のこれからの生涯の歩みの中でも、神ご自身の語りかけてくださった言葉として、恐らく最後まで響き続ける御言葉なのではないかと思っています。 そのような経験は、私だけではない、多くの人が、いや、だれでもが経験するものであるはずです。それまでの歩み方を捨てて、新しい歩み方、新しい生き方へと方向転換させられる経験です。神の語りかけてくださる言葉を聴く経験です。 信仰の歩みは、主の御言葉を聴くことから始まる。そのように言うと、「聖書の時代の人たちは、直接神さまの声を聴かせてもらえたから良かったけれども、今の時代には、そのように直接語りかけられることはないのでしょう」とおっしゃる方があります。正直に申し上げると、それはどうなのか、私には分かりません。私自身は、神の声を音声として聞いた記憶はないのです。ただ、今でも、特に幼いときに神の語りかける声が聞こえていた、と証言する人はいます。私の知人の中にも、そういう人がいます。ですから、神が、今の時代の中でも、一人ひとりに直接聞こえる声をもって語りかけておられるのだろうとも思います。そうすると今度は、「私には神の声は聞こえない」とおっしゃられる方があるでしょう。けれども、恐らく、神の語りかけは、音声として聞こえる言葉だけによるのではないのです。聖書に記された御言葉によって、あるいは聖書を説き明かす説教の言葉によって、私たちは、神からの語りかけ、呼びかけを、聴く。聴き取るのです。それは、深い意味で神秘的な経験であると言っても良いかもしれません。しかし、そのような神から語りかけられる言葉を聴きとるとき、私たちはだれでも、新しい歩みを始めないではいられなくなるのではないでしょうか。 祝福の約束に向かって 神から語りかけられる言葉を聴くことによって信仰の歩みは始められます。ある人は、神の言葉を聴くことによって始められた信仰は神の言葉を聴き続けることによって成熟していく、と言います。私たちは、神の言葉を聴いて学んだら、今度は自分の口で語れるようにならなければいけないと思いがちです。けれども、信仰の歩みを続けて成熟していくということは、より深く神の言葉を聴き取ることができるようになっていくことだと、言うのです。その通りだと思います。 アブラハムが信仰の歩みを始めることになった、神からの語りかけ。それは、祝福を約束する言葉でした。具体的には、「あなたは大いなる国民になる」、つまり、多くの子孫が与えられるということ、また「あなたの子孫にこの土地を与える」ということです。そうすることによって、すべての民に祝福がもたらされる。それが、アブラハムに対して語られた祝福の約束です。しかし、この祝福の約束は、アブラハムにとっては、ほとんど実現不可能と思われる約束だったのだと、使徒パウロは語っています。このとき、アブラハムはすでに75歳。ようやく跡取り息子が与えられたのは100歳にもなってからであって、それは、もうほとんど死者の中から命が誕生したようなものだったと言うわけです。ヘブライ人への手紙11:8以下にも、同様のことが言われています。けれども、パウロも、ヘブライ人への手紙も、それが信仰によって、神の祝福の約束を信じて生きる者の歩みだというのです。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブ11:8)。…信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです(同11:13)。 「ようこそ、神のミステリーツアーへ」。おかしな題かもしれませんが、私は、アブラハムをはじめとする聖書の信仰者たちが、そしてだれよりも主イエス・キリストが、私たち一人ひとりに、そのように呼びかけ、招いてくださっていると思うのです。ミステリーツアー。行く先を告げられないで始められる旅行です。神は、私たちを招いてくださり、すでに、ご自身の民として歩み始めさせてくださっています。そして、終わりの日に向けたその旅路の中で、ご自身の秘められた計画を少しずつ明らかにしてくださる。いや、すでに最大のミステリー=秘められた計画は、明かされています。主イエス・キリストのことです。古代教会では、主イエス・キリストと結びつく儀式である洗礼や聖餐のことを、ギリシア語でミュステリオンと呼びました。ミステリーの語源です。主イエス・キリストと結びつくこと、これこそが神の民の旅路の中で最大のミステリー=神秘です。 主イエス・キリストのお語りになられる言葉を聴くことによって、神の言葉を聴き、そして信仰の歩みを始める。キリストが新しくお始めくださった新しい神の民、私たち教会は、キリストの言葉を聴き続け、聴くことに習熟してゆきたいと願います。すでに明らかにされた主イエス・キリストというミステリーだけでなく、いまだ明らかにされずミステリーのままである神のご計画のすべてが、終わりの日までには少しずつ明らかにされるでしょう。その終わりの日まで、私たちは、自分たちが神のご計画くださっているツアー旅行に加えられている者だという自覚を、保ち続けたいと思います。ミステリーツアーであることに耐えられずに、勝手な計画変更を求めるのではなく、神のお与えくださるご計画をしっかりと見て、神のお語りくださることをしっかりと聴き取りたいと思います。 私たちは神の民。主キリストによって招かれて、御言葉を聴きつつ共に終わりの日までの旅路を歩む神の民。この世に神のミステリーを証しする信仰の民です。 祈り 主なる神。老若男女、招かれて集ってまいりました。ご計画のうちに共に歩ませてください。私どもは主の民として主のミステリーを証しいたします。アーメン
|