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終末前主日礼拝説教「神の家族の旅行添乗員」 日本基督教団藤沢教会 2007年11月18日 1レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。 4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」 (出エジプト記 2章1〜10節) 1だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。2モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。3家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。4どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。5さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、6キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。 (ヘブライ人への手紙 3章1〜6節) 主イエスのことを考えよう 教会暦の終わりに位置する《終末三主日》の二週目、終末前主日を迎えました。来週には終末主日また収穫感謝日と呼ぶ教会暦の終わりの週を迎えます。すでに暦の上では冬となり秋が深まっていくこの季節、私たちは、もはや実りの収穫を喜び感謝するような時期を終えているようにも思います。けれども、日ごとに夕闇が深まっていくこの季節に、私たちは一人ひとり、それぞれの生活や人生における実りの収穫について考えさせられることも多くなるのではないでしょうか。 先日、私たちは、一人の兄弟が地上の生涯を終えられたことを告げられ、今晩と明日、葬儀を執り行おうとしています。牧師家庭に誕生されて一歳で幼児洗礼を授けられ、90年以上におよぶ信仰者としての人生を歩み抜かれた兄弟です。葬儀を通して、ご家族の皆様と共に私たちも、兄弟が地上の生涯のうちに実らせた実り、何よりも信仰の実りを、共に確かめさせていただきたいと願っています。 葬儀の準備をさせていただきながら、私が思い巡らさせていただいているのは、地上の生涯を終えられた兄弟が、その最晩年に、何を考え、何を見つめて、歩んでいらしたのだろうか、ということです。人生の晩年にある方であれば、当然、その生涯の終わりを、その終わりの実りのときを、どのように迎えるのか、日々、深くお考えであろうかと思います。人生の晩年。人生の秋、とも言われます。日暮れの時にもたとえられます。来たるべきときを目前にして、そこにはっきりと目を向けて、歩みを重ねていく。その歩みの中で考えていらっしゃることを、私は、後に続く者として、よく学ばせていただきたいと願っているのです。そして、今、地上の命の内を生かされている者として、しっかりと終わりのときを見据えながら日々の歩みを刻んで行くことを、学ばせていただきたいのです。 私たちは、自分の人生の終わりのときを見据えながら生きます。けれども私たちが見据えることができるのは、自分の人生の終わりのときだけではないのだと思います。私たちは、皆、一つの交わりに連ならせていただいています。信仰者の交わり、信仰者の群れです。その中で、その群れ全体の歩みの終わりのときをも見据えながら生きることが、私たちには許されているのではないでしょうか。次の世代、また次の世代へと受け継がれていった後の、恐らく私たち一人ひとりの終わりのときよりもずっと先になるであろう、群れの歩みの終わるとき。その終わりのときにも、私たちは、目を向けることができる。この世にあって孤立してどのような集団にも属さず、どのような交わりにも関わらないで生きているとしたら、そのようなことを考えることもできないでしょう。けれども、私たちは、教会という群れに連なることが許されている。この群れの中で、永遠の終わりのときに目を向けて、歩むことが許されている。一人ひとりの終わりのときが決定的な終わりのときなのではない、ということを知ることが許されているのです。 ヘブライ人への手紙の中から、御言葉を与えられました。 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。 私たちの信仰は、主イエス・キリストを神の御子、死者の中から復活された方、と信じる信仰です。何よりも、どんな場合にも、主キリストのことを考えることを最優先にする。そこから私たちの生き方も考え方も始まる。そのように信じる信仰です。この手紙のここにも、そのことが、はっきりと教えられています。「使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。 けれども、この手紙は、私たち信仰者が主イエスのことを最優先に考えるべきだからといって、他の者に目を向けてはいけない、とは言わないのです。むしろ、この手紙は、すでに地上での生涯を終えたおびただしい数の信仰者たちの生涯を、一人ひとり、思い起こしてみなさいと、繰り返します。そして、こう言うのです。 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(11:13〜16) 地上にあっては、この世のよそ者として、仮住まいの者として、天の故郷を目指して旅を続ける者として歩んだ、信仰の先達。聖書の中に、教会の歴史の中に、私たちはそのような先達の信仰者としての姿を見るのではないでしょうか。そして、そのような信仰の先達に続く歩みを歩む者であるからこそ、私たちは、主イエス・キリストに目を向け、この方のことを考えるべきなのだと、言うのです。 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(12:1〜2) 主イエスは、信仰の創始者また完成者。信仰者の生涯の旅路の最初から最後までをご存じでいてくださる方。私たちが歩むより先に、まず、目的地である天の故郷に至る道を拓いてくださり、歩いて見せてくださった方。そして今も、私たちの信仰の旅路を導き、案内してくださる方。教会という信仰者の団体ツアーの一人ひとりをおぼえていてくださり、配慮してくださり、目的地に着くまで、確実に伴ってくださる方。私たちの旅行添乗員、神のミステリーツアーのツアーコンダクター。私たちは、そのような方に導かれながら、それぞれの地上の生涯を走り抜け、また神の民として歩み、神の家族としての営みを、続けていくのです。 わたしたちこそ神の家 今日の御言葉で、主イエスと旧約の大指導者モーセが比較されていました。 モーセは、神に選ばれて、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を導き出し、40年の荒れ野の旅を経て、神の約束くださった土地へとイスラエルの民を送り込んだ指導者です。その旅路の歩みの間に、モーセは神から律法を授与されて語り告げたので、イスラエルの民は、はじめて書かれた御言葉を与えられて、神のお語りくださる言葉にもっとも近いところに歩むことを許された民として、その歴史を刻み始めたのです。そのイスラエルの民は、いわば神に選ばれた一つの家族であるという意味で、ヘブライ人への手紙では、神の家と呼ばれています。モーセは神の家全体の中で忠実であった、と語られるのです。そして、このモーセと比べるようにして、主イエスがどのような方なのかが、こう言われています。 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。 わたしたちこそ神の家。皆さんは、この言葉に引っかかりを覚えないでしょうか。どこか排他的で独善的なニュアンスを感じないでしょうか。我々の教会こそが真実の神の家なのだ、我々は特別な存在なのだ、というニュアンスです。翻訳に問題があるのかもしれません。口語訳では「わたしたちは神の家である」、新改訳では「わたしたちが神の家なのです」となっています。「こそ」という日本語訳が、うまくないようにも思いました。けれども、私は、少し味わっているうちに、この翻訳も捨てたものではないように思えてきました。 わたしたちこそ神の家なのです。ああ、そうだ、私たちは、普段教会に連なり、信仰者としての歩みを続けているように思っているけれども、自分たちが神の家だなどという自覚をどれだけ持っているだろうか。私も、神の家と聖書に記されているのに、いつの間にか神の家族と言い直している。神の家族という自覚も大事でしょう。けれども、私たちが神の家だとなると、私たちの間に迎えた新しい人は、私たちの間で神と出会うはずではないか。創世記に語られるヤコブが神と出会ったときに、その場所をベテル=神の家と名付けたように、神の家とは、要するに、神と出会う場所、神の聖なる神殿ということではないか。そういう神の家に、自分たちはなっているのか。そういう神の家をこの世に造り上げるための道具として主に選ばれ、召され、集められて、教会の枝々とされているということを、私たちは、どれだけ自覚しているだろうか。教会の建物が、神の家なのではない。他の誰かが、神の家なのではない。私たちこそが、神の家なのだと、私たちはもっと深く知るようにならなければいけない。わたしたちこそ神の家なのです。この言葉は、私たちにそのような問いを問いかけていないでしょうか。 天の召しにあずかる者として 天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。この箇所は、この呼びかけで始められていました。天の召し。習慣的に、この言葉を二字熟語にして召天として、信仰者が地上の生涯を終えられたことを指して用いてきました。けれども、私は、滅多に使いません。天の召し。死んだときにはもちろん、天の神のみもとに召されるでしょうけれども、私たちは、地上にあってすでに、天の召しにあずかっている者なのです。すでに亡くなられた方と共に、私たちは皆、天の召しにあずかって、この世から分けて聖なる神の道具とされている者なのです。神が、この世の人々をご自身と出会わせるために、キリストによって選び集められた信仰者を用いてこの世に建て上げられている、神の家なのです。 私たちは、キリストに選ばれ、天の召しにあずかっています。キリストの導きのうちに、天の故郷を目指してこの世を旅する神の家族です。ここには、もちろん喜びがあります。けれども、なお、はるかかなたに約束された祝福を仰ぎ望みつつ、隣人らを神の御前へと誘う神の御業に仕えつつ、歩ませていただくのです。この旅路は、長い旅路です。神のご計画の長さを心に留め、キリストの導きの確かさを信じて、共にこの歩みを続けさせていただくのです。 祈り 主なる神。主が共にいて私どもの旅路を導いてください。神の家族としての営みが整えられ、神の家として建て上げられ用いていただけますように。アーメン |