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終末主日(収穫感謝日)礼拝説教

「すべての人の目がキリストを仰ぎ見るまで」

日本基督教団藤沢教会 20071125

1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。

わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。

6 彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

7れゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、8「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。(エレミヤ書 2318節)

 

1イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。2ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。3この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

45ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」   (ヨハネの黙示録 118節)

 

《終末》に目を向ける私たちの礼拝

ヨハネの黙示録の御言葉を告げられました。その最初の部分、僕ヨハネが宛先の教会に向けて祝福をもって語り始めたところです。

ヨハネ黙示録には、あまり親しみがない、という方が多いかもしれません。けれども、この黙示録の最初の部分に目を向けるとき、私たちは、素直にこの黙示録の語る言葉に耳を傾ければよいことに、気づかされます。

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。

使徒パウロの記した手紙を思い出してくださればすぐに分かるように、この書き方は、この文書が手紙であることを示しています。僕ヨハネは、このとき、パトモス島という場所に幽閉されていたのです(1:9)。そして、そこで恐らくごく少数の者と共に主の日に礼拝を守る中で見た幻を(1:911)、ヨハネは七つの教会の人々に宛てて手紙として記したのです。そのようにして書かれた手紙は、恐らく、ただヨハネの見た幻を記録しておくためだけに書かれたのではなかったでしょう。パウロの手紙がそうだったように、このヨハネが記した手紙も、送られた先の教会で、礼拝に際して朗読されたのです。この手紙を受け取った教会は、礼拝で朗読を聴くことによって、今は遠くに幽閉されている自分たちの教会の指導者である僕ヨハネが、その身はなくても、自分たちの集まりで教えを説いてくれていると、喜んで聴いたのだろうと思います。

恐らく、主の日の一度の礼拝で、この黙示録22章全体が朗読されました。私たちの習慣では、そのような朗読の量は長すぎるように思えますが、恐らくそうだったのです。この黙示録全体を通して読んでみると、分かるように思います。確かに、この黙示録は手紙として書き始められています。けれども、僕ヨハネがここに記したことを主の日に見た幻として記していると断っているように、この黙示録全体は、一つの礼拝の実況中継のように進んでいくところがあるのです。

神を賛美する言葉が記され、それに応答する「アーメン」という言葉が繰り返し現れます。七つの燭台が灯されている様子が語られます。教会の人々に宛てた勧告が述べられます。そして、天上で繰り広げられる不思議な出来事の幻もまた、繰り返し天使の賛美が歌われ、世の罪が指摘され、キリストの救いの御業が描き出される、そのようなものとして綴られていくのです。終わりの2122章に至ったときには、礼拝の高揚感を収めていくように言葉が選ばれ、結びとなります。

実際、この黙示録には、私たちの礼拝の源泉となっているものが、いくつも含まれています。もちろん、黙示録全体から礼拝を再構成しても、私たちの礼拝と同じ順序になるわけではありません。けれども、ヨハネの教会では、この黙示録全体で進められていくような礼拝がかつてヨハネの指導の下で行われていた。そして、ヨハネが囚われた後にも、そのように守られていたのではないでしょうか。

私たちは、今日の礼拝にヨハネ黙示録の御言葉を与えられたのであれば、この黙示録全体の朗読をもって、礼拝を整えていっても良かったかもしれません。時間が許せば、そうしても良かったのです。しかし、そうしなくても、私たちは、このヨハネが導く礼拝に招かれていることを、この黙示録最初に記されているところから、心に刻みたいと思います。終末的な天上の礼拝として描かれている黙示録の礼拝に目を向けて、天上の礼拝を映し出す私たちの地上の礼拝のあり方、礼拝者である私たち自身のあり方を、問い直したいと思うのです。

 

「見よ、その方が来られる」

今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、…七つの霊から、更に、…イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

永遠の神からの、聖霊からの、またイエス・キリストからの恵みと平和を祈る祝福の言葉から、この手紙は、この礼拝は、始められます。続いて告げられるのは、私たちの贖い主であるキリストをほめたたえる言葉です。

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

私たちは、だれを礼拝しようとしているのか。いろいろな答えがあるわけではありません。私たちをその血によって罪から解放してくださった方。私たちをこの世の中から選び集めて、王として祭司として神に仕える者にしてくださった方。イエス・キリスト。私たちは、そのような方に招かれて、教会の群れに加えられ、礼拝に与らせていただいている。そのことを、礼拝のたびに確かめるのです。しかし、ヨハネの礼拝は、そのような方を記念して、私たちの思いの丈を祈りや賛美に込めたり、その教えを学び直すだけのものではありません。こう続きます。

見よ、その方が雲に乗って来られる。

これも、ヨハネが見た幻の一つなのかもしれません。しかし、むしろ、主イエスご自身が「人の子が天の雲に乗って来る」(マタ24:3031)とお語りになられたことを思い起こすべきかもしれません。ヨハネは、今、ここで始められた礼拝に、主イエスがお出でになる、キリストにご臨在いただくと、告げているのです。

この礼拝を、私たちは、主イエスにおいでいただくことを祈って始めたでしょうか。キリストのご臨在を信じて始めたでしょうか。私たちは、主の日の礼拝で、別のものを期待するのではありません。ただ、この方キリストが、私たちのところにお出でくださることを期待し、また信じて、礼拝に与らせていただくのです。

 

今も、かつても、これからも…

ヨハネの教会は、当時、ローマ皇帝の激しい迫害のもとにありました。教会活動自体が非合法でしたし、教会のメンバーだと知れれば、逮捕処刑されることを覚悟しなければなりませんでした。ヨハネは、そのような時代の教会の指導者だったのです。彼は、一人か、あるいは数名の者と共に、捕らえられ、幽閉されていました。ただちに処刑されなかったのは、指導者の処刑によってメンバーによる暴動が起こることを恐れられたからかも知れません。そうだとしても、明日の命が保証されているわけではなかったでしょう。そのヨハネが、密かに送り届けたこの手紙、黙示録を手にした教会の人々もまた、明日は我が身と思いながら、この手紙の朗読を聴き、礼拝をささげたのに違いありません。

そのような中で、教会のメンバーである信仰者の中に、自分たちはどうしてこのような苦しみを受け続けなければならないのか、どうして困難な状況の中で信仰を守り続けなければならないのか、いっそのこと、教会の集まりなどやめて、各自ひっそりと信仰し続けた方がよいのではないか、教会に集まることで苦労を増やす必要はないではないか、そうでなければ一刻も早く世の終わりをもたらして欲しい、そういう信仰萎える思いが生じることもあったのではないでしょうか。

私たちは、世俗法の下に信仰の安全が守られています。けれども、私たちは、これほど恵まれているのに、いやそれだからこそ、教会生活、礼拝生活を守り続けることの意味を見失い、信仰萎えてしまうことがないでしょうか。

そのような萎えた心の信仰者を励ますように、ヨハネが繰り返す言葉があります。今おられ、かつておられ、やがて来られる方。私たちの信じ、礼拝する神は、今も昔もこれからも、いつもおられる方だ。今この礼拝においでくださるキリストは、かつてもおいでくださり、これからもおいでくださる方だ。私たちは、そのような方に招かれて、集められて、今も昔もこれからも、礼拝を共に守り続けるのだ。ヨハネの告げるこの言葉が、そのように聞こえてきます。

なぜ、そのような礼拝を守り続けるというのでしょうか。ヨハネは言います。

すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

すべての人の目がキリストを仰ぎ見るようになるため。中でも、神を拒み、キリストを殺してきた者が、キリストを仰ぎ見るようになるため。己の過ちを認めて、罪を悔いて、神に立ち帰るようになるため。そのためにこそ、私たち教会として集められた群れは、どの時代にあっても、今も昔もこれからも、キリストのおいでくださる礼拝を守り続けるのです。すべての人が、この地上にあって、教会で、私たちの群れの礼拝で、キリストと出会うためです。すべての人がキリストと出会う機会を得るために、私たちは、礼拝を守り続ける。それが完成する日は、いつになるか分かりません。しかし、それが完成する日まで、キリストは私たちを愛し続けてくださるのです。私たちに、その贖いの血を与え続けてくださり、私たちを罪から解き放つために命を献げ続けてくださる。そして、キリストのお出でくださる礼拝を守り続ける私たちを、王として扱ってくださり、神に仕える祭司として用いてくださる。それは、光栄なことではないでしょうか。自分のためではなく、神のため、キリストのため、そしてすべてこの世の人々のために生きるのです。そのような者として生きるようにと、私たちは教会に先に招き入れられ、洗礼の恵みによってかたく結ばれているのです。

次週、待降節を迎えます。キリストの来臨、ご降誕と再臨を待望しつつ、クリスマスの祝いに向けて備えを始めます。このときに、私たちは、キリストに仕える王として、祭司として、ふさわしくふるまい、歩みたいと思います。この礼拝に招かれ、キリストを仰ぎ見る生活に導かれ、そして新たに洗礼の恵みにあずかる信仰者の誕生のために、皆が祭司として祈り、備えて行きたいと思います。

 

祈り

主よ。いつもお出でください。すべての人々が主を仰ぎ見るようになるときまで、私ども導かれて主のお出でくださる礼拝を守り続けられますように。アーメン