印刷用PDFA4版2頁

待降節第2主日礼拝説教「暗い所に輝くともし火」

日本基督教団藤沢教会 2007129

1三年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった。2三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。3イスラエルの王は家臣たちに、「お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言った。4それから、ヨシャファトに向かって、「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」と尋ねた。ヨシャファトはイスラエルの王に答えた。「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」5しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言った。6イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。7しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、8イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。9そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。10イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。11ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、12他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。

13ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」14ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、15王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。16そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、17彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」    (列王記上 22117節)

 

16わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。19こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。20何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙二 11621節)

キリストの来臨を知らせる光

今日の役員会で、お二人のバプテスマ志願者の信仰の試問をいたします。志願者にご自身の信仰についてお話しいただき、洗礼を受ける決意を与えられたことを確かめます。役員全員が励ましの言葉と祈りをもって応えます。そのようにして、教会の中に生まれる新しい信仰者の誕生のときを、共に備えて迎えるのです。

洗礼式では、最後の祈りでこう祈ります。「恵み深い父、聖霊によってこの兄弟(姉妹)を新しく生まれさせ、これを神の子とし、キリストの教会の生きた枝として下さったことを感謝いたします。」洗礼は新しく生まれることであると、志願者と繰り返し確かめてきました。しかし、それは、自分がなりたい新しい自分に生まれ変わることではありません。洗礼によって私たちは神の子として新しく生まれるのだと、教会は信じてきました。もちろん、真実の意味で神の御子は、独り子キリストお一人です。けれども、洗礼を授けられるとき、私たちは皆、キリストに結びつけられ、神の子としての新しい命を与えられるのです。ですから、私たちは、一人の人がバプテスマを授けられるとき、あの主イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたときに天から響いてきた声を、確かに聴くのです。

「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」

主イエスの弟子ペトロは、主に従って高い山に登り、そこで主のささげられる礼拝を目撃したとき、この言葉が天から響くのを聴いたと、その手紙に記しました。それは、忘れがたい経験であったでしょう。後に続く信仰者に語り伝えないではいられない経験であった。天からの、神ご自身からの、神の子とする宣言!光に満ちた出来事です。ここに、ペトロは、主イエス・キリストがおいでくださること、つまり来臨(アドヴェント)を知った、信じたと、手紙に記したのです。

教会の群れの中で、新しく神の子とされた者の誕生を祝おうと備えています。それは、主ご自身が、一人ひとりの志願者に、神の子とする宣言をしてくださるときです。主が、一人ひとりを主の真の光で満たしてくださるときではないでしょうか。私たちは、そのときに、主イエス・キリストご自身のおいでくださること、来臨、御子のご降誕を、確かに知る者とならせていただきたいと思います。

 

王と預言者

バプテスマを受ける者が与えられること。それは、キリストのご威光、その真の光の輝きを、確かに確信させていただくことです。一人の人がキリストを主と信じて洗礼を受け、信仰者として新しく生まれる。それはつまり、その人のもとにキリストが来られるということです。キリストがその人のうちにお生まれになる、ということです。そうだとすれば、バプテスマを受ける人が与えられるという、これ以上の証しを、私たちがキリストを信じる上で、必要とするでしょうか。

けれどもペトロは、だからと言って真の光をすでに手に入れたかのようになってはいけないと、と教えます。本当の夜明けはまだ先だ。明けの明星がすべての人の心の中に昇るのはまだ先だ。それまでは、いまだ夜の闇の中を歩む者として、確かなともし火である預言の御言葉を心に留め続けなさいと、言うのです。

列王記下22章に記された王と預言者の物語を聴きました。イスラエルが南北に分裂していた時代の物語です。南王国ユダの王はヨシャファトで、主なる神を畏れた王として知られていました。ここに描かれる北王国イスラエルの王は、前段を見ると、預言者エリヤを迫害したアハブ王であることが分かります。

アハブ王は、南王国のヨシャファト王に持ちかけて、北方の王国アラムを攻めようとします。ところが、ヨシャファト王が「まず主の言葉を求めてください」と言うので、アハブ王は自分の国のお抱えの預言者たち四百人を呼び集めて、主の言葉を求めさせます。この時代のアハブの国の預言者たちは、預言者エリヤがバアルの預言者たちを皆殺しにしてしまっていましたから、一応、主なる神の預言者たちだったのでしょう。彼ら預言者たちは、皆、アハブ王の期待どおり、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えます。ところが、ヨシャファト王は、なお他の預言者がいないかと尋ねます。すると、アハブ王は、しぶしぶ、もう一人の預言者ミカヤの名を挙げます。しかし、アハブ王は、ミカヤを憎んでいると言うのです。ミカヤは主の御旨を尋ねることができるが、自分に幸運を預言することがなく、災いばかりを預言するから、と言うのです。けれども、ヨシャファト王が「王よ、そのように言ってはなりません」といさめるので、アハブ王は、しぶしぶ、ミカヤを連れて来させます。

ここで、私たちは、注意深くこの物語を聴き直さなければなりません。使いの者は、ミカヤが他の預言者と同じ預言をするようにと言い含めますが、ミカヤは、他の預言者とは違う言葉をもって、アハブ王に預言を告げた、と物語られていれば、私たちの期待どおりでしょう。しかし、そうではないのです。ミカヤは、アハブ王の前に出ると、他の預言者と同じ言葉をもって、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えるのです。とうとう預言者ミカヤもアハブ王の言いなりのお抱え預言者になってしまったかと、そのように見えた矢先に、アハブ王は、意外にもこう言います。「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」

アハブ王は、預言者ミカヤが、真実に主の名による預言を語ることができる者だと、知っているのです。ミカヤの告げる預言が、自分にとって災いの預言が真実であることを、知っているのです。主の預言の言葉を、本当は知っている。しかし、それだからこそ、アハブ王は、ミカヤを憎むのです。主の真実の預言の言葉を、憎むのです。なぜでしょうか。アハブ王は、恐らく、自分が身を置いている現実の暗闇の深さを、良く知っているのです。彼は、もうその暗闇の現実から後戻りできない、そういう泥沼の中に自分がいることを、否定できないのです。真実の預言の言葉を知っていて、主の御旨を知っていて、このまま進めば自分が災いの中に落ちてしまうことも知っていて、けれども、彼は、後戻りできない、その災い、暗闇の現実の深みに向かって前に進んでいくことしかできないのです。

アハブ王は、この物語の続きの部分で、結局、北方のアラムを攻めて、討ち死にしますが、何がアハブ王をこの戦いに駆り立てたのか、聖書は沈黙しています。主の預言者ミカヤが真実の預言の言葉を告げてくれていることを知っていながら、なぜ、その預言の言葉、主の御旨を無視するようにして、自ら災いに向かって、暗闇の現実に向かって、突き進んで行ってしまったのか。聖書が沈黙していても、私たちには、分かるような気がします。主の御言葉を知っていても、少なくとも主の日ごとに神の御旨を聴き直していても、私たちは、神の御言葉をかなぐり捨てるようにして、主の御旨を無視するようにして、暗闇の深みに突き進んでいこうとしてしまうことがあるのです。恐ろしい悪の力、悪魔的な力が、私たちを暗闇の現実に駆り立てて行き、後戻りできなくさせてしまうと、そのように言うしかない現実を、私たちも知っているのではないでしょうか。

 

後戻りできない暗闇の先に明けの明星を見るまで

それでも、私たちは、この暗闇の現実の中を歩み続けながら、主の御言葉を、心に留め続けるべきです。アハブ王さえ、預言者ミカヤを憎みながら召し続けたのです。それに比べたら、私たちが神の御言葉を聴き続けることは、はるかに容易いことであるはずです。何となれば、私たちは、キリストの教会に結ばれて、主の日ごとに、ここに集うことが許されている。礼拝に与ることが、許されている。ここで、聖書の御言葉が心の思いを責め立てることがあるかもしれません。牧師の語る説教が苦々しく思えることがあるかもしれません。それを嫌って、主の日ごとに礼拝に与ることから離れてしまうことさえあるかもしれません。それでも、私たちは皆、キリストに結ばれた者として、キリストの教会で真実の神の言葉が告げられていることを、心に留めないわけにはいかないでしょう。ここから世の暗闇に向かって、全ての者の足下を照らすともし火が輝いているのです。

アハブ王は、自分の置かれた後戻りできない現実に絶望的に突き進んで行って、命を落とすしかありませんでした。しかし、私たちは、同じように、後戻りできない現実の中に身を置きながらも、なお、絶望することなく、命を保ち続ける術を与えられています。主イエス・キリストに結びつく、という術です。キリストに結びつけていただく、という術です。輝かし真の光に満たされていらっしゃる主イエス・キリストと一つに結びつけていただく洗礼を、私たちは皆、与えられました。すべての人に、与えられています。だから、私たちは、この暗闇の現実の中にあっても、ただ、足下を照らすともし火として御言葉を聴き続けながら、心の内では、夜が明け、明けの明星が昇ることを確信して、歩み続けることができるのです。主が、私たちの待ち望む明けの明星だからです。キリストが、私たちの暗闇を最後にはまったき光のうちに照らし出してくださる方だからです。

今は、暗い所に輝くともし火、主の預言の言葉、聖書の御言葉を心に留め続けましょう。キリストが、時を定めて、私たちの内側から夜明けをもたらし、明けの明星をもって私たちを照らし出してくださるときを、待ち望みたいと思います。

 

祈り

主なる神。真の光に満ちたキリストのおいでくださるときを待ち望みます。御言葉のともし火に照らされながら待ちます。ここに留まらせてください。アーメン