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待降節第3主日礼拝説教主が来られるまでは

日本基督教団藤沢教会 20071216

19 見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。

あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。

21 わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。

彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。

わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。

23 見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

24 彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。

わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。   (マラキ書 31924節)

 

1こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。2この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。3わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。5ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

  (コリントの信徒への手紙一 415節)

 

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

(ヨハネによる福音書11928節)

「主の道をまっすぐにせよ」

アドヴェントのロウソクに三本目の火が灯りました。年末の慌ただしい季節ですが、悔い改めの期節であることを指し示す紫色のロウソクの灯火を確かめながら、祈ることを大切にしてクリスマスを迎えたいものです。

このアドヴェントの三本目のロウソクを、ある人たちは、他の三本のロウソクと区別して、紫色ではなく薄いピンク色としています。この日、待降節第3主日を、御子のご降誕が近づいてすでにその喜びを抑えきれなくなっている時としておぼえ、《喜びの主日》と呼ぶことから、その控えめな喜びを表す色としてピンク色を用いるのです。もっとも、あの色はピンク色ではなくバラ色なのだそうです。真紅のバラ色ではなく、控え目な薄いピンクがかったバラ色です。

この一年も、私たちの生きる社会や世界は、決して喜びに満ち溢れたバラ色の世界ではありませんでした。一人ひとりの歩みも、決してバラ色の人生であるとは言えないでしょう。むしろ、だれもが、どんよりと曇った空の下にいるような思いで過ごしてきました。そういう中で、「クリスマスぐらいは、賑やかに楽しくやろうよ」と、鮮やかなクリスマスカラーと電飾と懐かしのクリスマスキャロルに包まれて過ごしたいようにも思います。けれども、私たちは現実を見ないわけにはいきません。ただ自分のことばかりでなく、周囲のこと、社会や世界に目を向けないわけにはいきません。そのとき、やはり、クリスマスを迎える喜びをただの年中行事にしてはいけない、自分たちだけの楽しみにしてはいけない、と思うのです。むしろ、自分たちの喜び楽しみたい気持ちを抑えてでも、この喜びの意味を捉え直して、全世界に告げられたクリスマスの喜びへと多くの人を招き導く祈りを深めたいのです。その意味でも、この日のロウソクの色を、喜びを派手に表す色ではなく、紫色あるいは控え目な薄いピンク色としてきた教会の習慣を、大切にしたいと思うのです。

クリスマスを迎える前の控え目な喜びに向けて、毎年呼びかけてくれるのが、主イエスに先立って主を指し示した洗礼者ヨハネです。ヨハネは言います。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

ヨハネは、主キリストにお出でいただく道筋をまっすぐにするように、荒れ野で、荒れ野のようなこの世の現実の中で、人々に、私たちに、呼びかけています。ヨハネのこの呼びかけは、イザヤ書40章によるものです。

呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。(イザ40:34

どこか古い町並みを区画整理して広い道路を通す計画のようにも聞こえます。私たちは、思うままに造り上げてきた自分の世界を持っているものです。自分のものと思っている生活空間や習慣があるの。ですから、主イエスをお迎えするためには、それを一度見直して、区画整理をし、主においでいただくための広い道を通さないといけないでしょう。入口の門を開いて、自分の中の一番奥深い部屋まで御子をお迎えするには、それなりの準備が必要です。自分の目で見て良いと思って持ち込んできた余計なものがたくさんあるのですから、大掃除が必要です。思い切って捨てる決断をしなければ、取って残しておいたものは、いずれまた、主においでいただく道をふさぎ、お迎えする部屋を埋め尽くしてしまうでしょう。

祈りのうちに決心して、捨てるべきものを捨てられれば、捨てた分だけ、私たちは、主にお出でいただく道を広げられます。キリストに存分にお働きいただく場所を広げられます。けれども、捨てなければ、何も始まりません。

来週のクリスマス礼拝に洗礼を受けられる姉妹方がいます。今は、古い自分の持ち物をみな捨てても良い、というくらいの思いを与えられて、洗礼に備えられていることでしょう。私たち信仰者の初心です。もちろん、すでに洗礼を受けて何年も経った私たちは、自分が洗礼式のときに全てを捨てられたわけではないことを知っているのです。本当にごく小さなところを捨てただけでした。一部屋空けるのが惜しくて、馬小屋ならぬ押入の一つを空けただけだったかも知れません。いや、もしかすると、私たちの中の、もうあまり役に立っていない古い飼い葉桶の一つを空けただけだったのかも知れません。けれども、そこに幼子のキリストがおいでくださって、私たちの信仰者としての歩みが始まったのです。

一度に全部を捨てるわけにはいかないかもしれません。それでも、アドヴェントの祈りの課題の中に目標を定めても良いかもしれません。「今年は、この部屋のものを、この部分を、捨てさせてください」と、祈りたいと思います。

 

「見よ、その日が来る」

アドヴェントを終えるとクリスマスの祝いの日が来ます。共に祝う日を迎えます。日付が定められています。今年は、来週の日曜日、教会暦ではまだ「待降節」の内ですが、クリスマスの祝いの礼拝を迎えます。その日が、間もなく来ます。

「見よ、その日が来る…」と、預言者マラキが告げた言葉を聴きました。旧約聖書の最後に置かれたこの預言書を、教会は、洗礼者ヨハネが主の道を備え、そして義の太陽としてキリストがお出でになられることを告げる預言として、聴いてきました。主のご降誕の預言であるとも、終わりの日の主の再臨の預言であるとも、説明されます。けれども、これは、私たち一人ひとりの内に主がお出でくださるその日が来る、キリストを神の子として心の内にお迎えするときが与えられる、ということでもありましょう。私たちはだれでも、理屈では説明できなくても、「神は本当にいらっしゃるのだ」と気づかされる経験をいたします。「キリストが本当に共にいてくださるのだ」と実感する体験をいたします。主が、狭い通路を通って私たちの中に入ってきてくださる瞬間です。そういう経験を、ぜひ皆さんが証しして語っていただきたいし、特にいまだ洗礼の恵みにあずかっていらっしゃらない方は、そういう証しを聴いていただきたいと思います。それは、確かな、信仰の歩みの入り口になることだからです。

けれども、洗礼を受けて信仰の歩みを続ける中で、私たちは、その日、主がお出でくださる日が、もう来ないかのように思い始めることがあるかもしれません。それは、二千年前の過去のことか、かつて自分が信仰に入ったときのことか、1225日のことか、あるいは、いつになるとも分からないずっと先の終末の日のことか、ともかく、そういう今の自分には直接影響のないことのように、その日のことを考えるようになっているところがあるのではないでしょうか。

ですから、私たちは、今、クリスマスを迎える前のアドヴェントの歩みの中で、もう一度、このマラキの預言を、じっくり聴き直しながら、祈りを深めたいのです。短い預言書です。けれども、私たち信仰者、特に教会に熱心に通い、奉仕もし、献金もささげている私たちには、実に耳の痛い預言の書です。礼拝をささげ、神を知っている、と言っている者たちが、もっとも遠く神から離れている、神の御心を蔑ろにしている、というのです。そして、そのような者のもとに訪れるその日、主の到来の日は、厳しい裁きのときとして来る、というのです。

厳しい裁きの預言です。けれども、そのような厳しい裁きを伴いながら、その日には、主を畏れ敬うところから義の太陽が昇る、キリストをお迎えしたところから眩いほどの真の光が照らし出す、といいます。私たちは、自分の中の、そのようなところに目を向けることが許されている。いや、そこにこそ、私たちは、全身全霊をもって心の目を向けるのです。それが、クリスマスに飼い葉桶の中にお生まれになられた御子をお迎えするということなのではないでしょうか。

 

主が来られるまでは…

洗礼者ヨハネは、人々にこう告げました。

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方…」

「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」とは、不思議な言葉です。人々の間に主イエスが紛れていた、ということでしょうか。しかし、私はむしろ、こういうことだと思います。私たちは、いつも神を遠い存在のように考えている。キリストを自分の外の存在のように考えている。そして、そのような神もキリストも、良く知らないままでいる。けれども、実は、そのような神が、すでに私たちの中におられる、そのようなキリストが、すでに私たちの中に来られている。ただ、それに気づかないでいるだけだ。

それでも、私たちは、いつまでも主が来られるのを待つ信仰に生きるべき者なのかも知れません。私たちが、神を自分の中の部屋に鍵をかけて閉じこめてしまったりしないためです。キリストを自分の中の飼い葉桶の中に縛り付けてしまったりしないためです。むしろ私たちは、自分の中のまだ主に明け渡していない部屋に順においでいただく準備を、生涯かけて続けていくのです。クリスマスを祝うための備えのアドヴェントを毎年繰り返すように、私たちの全身全霊隅々に主をお迎えできる日までは、私たちのアドヴェントの備えの営みが続くのです

 

祈り

主なる神。御子をお迎えする備えをお導きください。私どもの生涯が、ただひたすら主のお出でくださることに備え続ける歩みとされますように。アーメン