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クリスマス礼拝説教「迎える場所を空けて」 日本基督教団藤沢教会 2007年12月23日 6 エルサレムよ、あなたの城壁の上にわたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。 主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。 7 また、主の沈黙を招いてはならない。 主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。 8 主は、御自分の右の手にかけて 力ある御腕にかけて、誓われた。 わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず あなたの労苦による新しい酒を異邦人に飲ませることも決してない。 9 穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し、ぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む。 10 城門を通れ、通れ、民の道を開け。盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え 石を取り除け。 諸国の民に向かって旗を掲げよ。 11 見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。 見よ、あなたの救いが進んで来る。 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。 12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ あなたは尋ね求められる女 捨てられることのない都と呼ばれる。 (イザヤ書 62章6〜12節) 4しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、5神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。6神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。7こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 (テトスへの手紙 3章4〜7節) 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 (ヨハネによる福音書 1章1〜14節) お迎えする アドヴェントのロウソクに4本、火が灯りました。教会の暦の上では「待降節第4主日」ですが、すでに御子のご降誕を祝うクリスマスの礼拝であることを示して、ロウソクの色が紫から白に変えられました。 12月25日というクリスマスを祝う日が定められていながら、その前の日曜日にクリスマス礼拝を献げる、という習慣は、当たり前のことのようですが、それほど一般的なことではないようです。いわゆるキリスト教国と呼ばれてきた国々では、もちろん、24日のイブ礼拝から始まって、25日にクリスマス礼拝を献げます。多くの人がクリスマス休暇を取り、家族で集まり、クリスマスを祝います。 私たちの国は、もちろん、キリスト教国ではありません。日本中がこれほどクリスマス一色になっていても、クリスマス休暇を取れるような者はほとんどいないでしょう。それでも、教会暦を非常に重んじるカトリック教会や聖公会などでは、クリスマスの祝いの礼拝は、きっちりと24日、25日に行っていらっしゃる。けれども、聞いたところによると、24日夜のイブ礼拝はともかく、25日のクリスマス礼拝は、勤めを休んでまで出席する人はほとんどいらっしゃらないということです。そうとなれば、私たちが皆でクリスマスの祝いの礼拝を献げようと思うならば、24日夜に集中するか、さもなくば、私たちの習慣のように日曜日に合わせてクリスマス礼拝を献げるということが、やはり良いのかもしれません。 今日は、この礼拝に、クリスマス礼拝だからということでお出でくださった方が大勢いらっしゃることと思います。ほとんどの方は、この礼拝がクリスマスを祝う礼拝であることを承知の上で、お出でくださったと思います。いつもの礼拝では座席に多少の余裕がありますが、今日は、座席が一杯になることを予想して、備えてまいりました。座席のことばかりではありません。今日初めておいでになられた方や慣れない方が、座席は確保しても、礼拝が進んでいく中で今、何が行われているのか分からなくなってしまわれたならば、居場所がないのと同じです。初めて訪ねたところで自分が何をしたらよいのか分からないことほど、居心地の悪いことはありません。今、そのような居心地の悪い思いをしていらっしゃる方は、ないでしょうか。礼拝で迷子になられないようにと、礼拝に用いる讃美歌集なども特別に用意しました。私たちの教会では、手取り足取りお世話はいたしませんが、新しい方をお迎えする気持ちがないわけではないのです。ただ、私は牧師として、ときには教会員の皆さんに申し上げなければならないこともあります。ほんの少しでよいのです。礼拝で、自分の座っている周囲に、見知らぬ方、戸惑っていらっしゃる方が見えたら、勇気をもって、私たちの教会の群れにお迎えする態度を示していただきたい。手取り足取りはいけません。共に主なる神の御前に立つ自立したお一人として、敬意をもって心配っていただきたいのです。 今日はクリスマスの祝いの礼拝です。御子のご降誕を祝う礼拝です。父なる神が愛をもってお送りくださった独り子キリストを、私たちのただ中にお迎えする礼拝です。主イエスが「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタ25:40)とおっしゃられたことを思い起こしましょう。この礼拝でこそ、私たちは、キリストをお迎えする思いで、周りの新しい方、見知らぬ方、まだ話したことのない方を、大切なお客様として、大切な友として、大切な主人として、お迎えしたいと思います。 場所を空けて 御子のご降誕を祝うクリスマス礼拝に、特別な場所を空けて備えてきました。 もちろん、御子キリストをお迎えするための特別な場所を、私たちは各自の内に、また教会の内に、そして世界の内に、空けて備えてきたのです。そのようにしてクリスマス礼拝を迎えるたびに、私は、礼拝者の群れの上空を天使たちが舞いながら賛美しているような思いになります。あの最初のクリスマスを迎えたときに、荒れ野の羊飼いたちの上空で天使たちの大群が賛美を響かせたように、今、私たちがクリスマス礼拝を献げるところでも、天使たちが、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と賛美している。 しかし、この天使たちは、今日は、ただ御子のご降誕を祝い告げて賛美を響かせているだけではありません。主イエスは、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15:10)と仰いました。天使たちは、今日、この礼拝で、かつて罪人に過ぎなかった者が、新しく神の子として生まれさせられることをも、祝い喜び、賛美してくれているのです。お二人の方が、この後、洗礼を授けられて、キリストに結ばれた神の子として新しく生まれます。 キリスト者の誕生。それは、私たちにとって、御子キリストのご降誕と比べて、決して喜びが劣るものではありません。もちろん、御子キリストのご降誕がなければ、キリスト者の誕生もなかったわけですから、御子のご降誕のほうが重要不可欠なのは当然です。けれども、その御子のご降誕は、何よりも、キリスト者が誕生するためのものであったのではないでしょうか。御子がご降誕くださって、私たちは皆、キリスト者となる道、キリストに結ばれた神の子として新しく生まれさせていただく道を、拓かれたのです。 ですから、私たちは、今日洗礼を受けられるお二人のために、この礼拝堂の中に特等席を空けました。最前列の座席のことでしょうか。いいえ、もっとすばらしい特等席。洗礼盤の前に据えられる席、幼子としてお生まれになられた御子キリストと共に新しく生まれる洗礼式の席のことです。お二人は、そこで、御子と共に幼子として新しく生まれます。神の御子キリストに伴われて、神の子として生まれます。そのための場所を、この礼拝の中に空けて備えてきました。ここに、私たちは、お二人をお迎えするのです。御子と共に、御子に伴われたお二人を、この礼拝の中で、備えて空けてきたところに、お迎えしたいと思います。 飼い葉桶さえ空けておけば どうぞ、皆さん、洗礼を受けられるお二人を迎え入れるのに、新しく教会に加わる兄姉を迎え入れるのに、また、いずれ洗礼を受けられるであろう新しい方々を迎え入れるのに、躊躇なさらないでいただきたいと思います。 御子キリストは、かつて、人々に受け入れられなかったのです。世の人々は、御子を迎え入れるのを、躊躇したのでした。ご降誕のときから、キリストは、宿屋に泊まる場所がなく、だれも気に留めることもない飼い葉桶に寝かせられたのでした。ご降誕のときに御子キリストを迎え入れたのは、母マリアといいなずけのヨセフ、そして羊飼いたち、東方から来た学者たち、それに加えれば、神殿で幼子イエスを祝福した老人たち、シメオンとアンナぐらいでしょう。そのようにしてお生まれになられたキリストは、人々に迫害され、拒まれ、排除されて、十字架の上に死なれたのでした。そのとき、なおキリストを受け入れていたのは、ごくわずかの女の弟子たちぐらいのものでした。 聖書の物語を思いながら、自分自身、どれほど御子を十分に迎え入れているだろうかと、考えないわけにはいきません。アドヴェントの祈りの中で、そのことを、私たちは一人ひとり、祈りのうちに省みてきました。本当に、私たちの心というものは、神を迎え入れるための場所を、ごくわずかしか空けておけないものなのだと思います。キリストを迎え入れるための場所を、私たちは、自分が安心して暖かく過ごせる建物の中に設けようとはせずに、「馬小屋ならば空いてます」と、飼い葉桶程度のところを空けて済ませようとしてしまうものなのだと思います。ましてや、私たちは、キリストによって集められた教会の群れ、神の家族のお互いを、どれほど、自分の中に迎え入れられているだろうかとも、思うのです。 けれども、どうぞ、今日は、そんなご自分の姿に悲観したままでお帰りにならないでください。御子は、飼い葉桶の中にそのお姿を置くことを、良しとされたのです。飼い葉桶のようなところで良いというのです。ただ、そこに目を向けなさいと、私たちを招いていられる。小さな、みすぼらしい飼い葉桶に、ページェントの登場人物たちと共に目を向けなさいと、招いていられる。なぜなら、そこに光があるからです。暗闇の中で輝いている光があるからです。一点の、ピンホールから漏れ出す光が、そこにあるからです。 暗闇の中で輝いている一点の光。飼い葉桶の中に寝かせられた御子キリストというピンホールの向こう側には、神の栄光の光に満ちた御国が広がっているのです。たくさんの席の用意された、私たち全ての者が座るに十分な席の用意された神の国の祝宴会場が、広がっているのです。キリストを迎える場所を空けるのに遅い私たち人間のために、もうすでに神は、ご自身の場所に、私たちを迎える場所を空けて待っていてくださっているのです。私たちは、洗礼を受けるとき、その神が空けておいてくださっている座席に名が記されていることを知るのです。 御子のご降誕をお祝いいたします。キリスト者の誕生を祝います。神がすでに、私たちのために場所を空けて、迎える備えをしてくださっています。私たちも、今、場所を空けて、御子を、隣人を、すべての人を、お迎えいたしたく思います。 祈り 父なる神。御子の光、その存在を、この世の現実の中で見落としてしまいそうです。どうぞ、今一度、飼い葉桶の御子の光に目を向けさせてください。アーメン
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