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主日礼拝説教「天の王座に着く」

日本基督教団藤沢教会 200816公現日

1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。

2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

3 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく

裁きを導き出して、確かなものとする。

4 暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。

島々は彼の教えを待ち望む。

5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ

その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。

6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。

民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

7 見ることのできない目を開き

捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

8 わたしは主、これがわたしの名。

わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。

9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。

それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 (イザヤ書 4219節)

 

1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

(エフェソの信徒への手紙 2110節)

 

29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 (ヨハネによる福音書 12934節)

洗礼の恵みにあずかる

私たちの教会の群れでは、先日のクリスマス礼拝で、お二人の方が洗礼を受けられて、キリスト者としての新しい歩みを始められました。二週間が経ち、キリスト者として新しい年を迎える経験も、初めてなさいました。少しずつ、キリスト者としての歩みを実感し始めていらっしゃるところでしょうか。

新しい信仰、新しい霊、新しい命が与えられました。新しく信仰の家族の一人に数えられました。恐らく、洗礼を受けられたクリスマスのことは、お二人とも生涯お忘れにならないと思います。そして、お二人の洗礼に立ち会われた皆さんも、洗礼を受けてキリスト者として新しく生まれたときのことを思い起こされながら、信仰者としての喜びを味わわれていたことと思います。私自身の経験から申し上げるならば、自分自身が洗礼を受けたとき以上に、洗礼に導かれるようにと祈り続けてきた親しい者が洗礼を受けたときの喜びは大きなものです。

洗礼を受けられたお一人は、年賀状に、「今年は二人での教会生活の門出です」とお書きくださいました。長年連れ添われてきた御夫婦が、この年を新しい思いで歩み出されたのです。夫婦家族そろってキリスト者として共に歩める。現実はなかなか難しいこともありますが、実現すれば、本当にうれしい幸いなことです。

新年を迎えて、牧師である私の何よりの願いは、もちろん、教会に連なる皆さんが、大人も子どもも皆一人残らず、ご家族そろって、洗礼を受けられて、キリスト者として信仰の家族、神の家族の一人に数えられて、共に歩んでくださることです。皆さんにも、共に祈っていただきたい。この年のイースターに、ペンテコステに、クリスマスに、洗礼の恵みにあずかる方々が、この群れの中から、またそれぞれの家族の中から与えられるよう、ご一緒に祈っていただきたい。

 

《神の子》であることを知らなかった

もしかすると、皆さんの中には、ご自分の周囲の友人やご家族の一人ひとりを思い浮かべられるとき、「あの人は信仰に縁がない」とか、「あの人は洗礼を受ける見込みがある」などと、区別をして考えていらっしゃる方があるかもしれません。「あの人は、洗礼を受けるどころか、礼拝にさえ来てくれないだろう」と、初めからあきらめて見ている人も、あるかもしれません。けれども、私たちは、洗礼を受けた者だからといって、自分も含めて、はじめから洗礼を受けて当たり前だった者はいないと思います。それが、皆、信仰の先輩の祈りに支えられて、主の見えざる御手の導きによって、洗礼を受け、キリスト者とされ、教会で周りから「あなたは神の子です」と呼ばれるようになりました。

今日の福音書は、主イエスの公生涯の最初の日々を伝える物語の御言葉ですが、主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、主イエスのことをこう証言しています。

「わたしは、が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。…わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

ヨハネは、主イエスとは親類の関係です。ルカ福音書1章に物語られていますが、主イエスがお生まれになる6ヶ月前に、主イエスの母マリアの親類のザカリアとエリサベトという老夫妻の子としてヨハネは生まれました。年齢もほとんど同じで、お互いに幼なじみの兄弟のように育ったのでしょう。ところが、世間で知られるようになったのは、ヨハネが先でした。ヨハネは、荒れ野でイナゴと野蜜を食べて過ごす修道者として過ごし、人々に悔い改めを呼びかけて洗礼を授け、それがユダヤ人の間で大きな反響を呼び、多くの人々が押しかけて来ていたのです。そのヨハネのところに、幼なじみであった主イエスは、洗礼を授けてもらうために行かれた。そのとき、天から聖霊が降って主イエスを満たすのを、ヨハネは目撃した、ということを証言した言葉が、ここに伝えられているのです。

不思議なことに、ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。もちろん、ヨハネと主イエスは幼なじみ同士なのですから、お互いの存在ばかりか生い立ちも育ちも知らなかったはずがありません。ヨハネは、そういうことを言っているのではないでしょう。彼は、主イエスが聖霊に満たされた方であること、神の子であることを、「知らなかった」と言っているのでしょう。

クリスマスの祝いをした私たちは、主イエスが馬小屋でお生まれになったときから神の御子であったと、当たり前のように信じています。それは、クリスマスの物語によって告げられている通りでありましょう。けれども、主イエスが人の目に神の子として知られるようになったのは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、そのときに天から降った聖霊に満たされてからだというのです。それまでは、主イエスと言えども、人々には神の子として知られてはいなかった。そうだとしたら、私たちが、主に結ばれる洗礼を受ける以前、とても神の子に見えなくても、信仰者として生きる者のように見えなくても、当たり前ではないでしょうか。洗礼にあずかる前は、私たちは皆、キリスト者とは呼ばれない者、神の子として公には知られていない者だったのです。ただ、主イエスがヨハネから受けられたときに始まった洗礼、天からの聖霊に満たされる洗礼、キリストと共に神の子として教会の中で憶えられるようになる洗礼、この洗礼を恵みによって授けられたときに、初めて、神の子として、キリスト者として、知られるようになったのです。

神のご計画の順序や時があるかもしれませんが、私たちは、皆が洗礼の恵みにあずかるようになられることを、初めからあきらめる必要はありません。今はまだ、教会の交わりの中で、神の家族の一員、「神の子」として知られていなくても、いつか、必ず、神の家族の一員として数え、互いに「神の子」「主にある兄弟姉妹」と呼び合うときが来ると、信じて祈りましょう。

 

天の王座に着く神の子として

ところで、私たち、そういう祈りを祈る者であるならば、祈りにふさわしい歩み、営みを、教会の交わりの中で積み重ねて行きたいと思います。神の家族の交わりの中で、皆がお互いを神の子、主にある兄弟姉妹として尊重し合うということです。キリストの御名によって、キリストに結ばれる洗礼を受けるとき、私たちは新しく生まれさせられて、神の子としての歩みが始められる。たとえそう語っていても、教会の中で私たち同士が互いに神の子として尊重し合ってなければ、だれが、私たちの教会の群れの中で躓くことなく洗礼へと導かれるでしょうか。

だから、私たちは、パウロの大胆な言葉も、今日、よく覚えて帰りたいのです。

憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし…キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

私たちは、使徒信条によって「キリストは…天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白していますが、パウロは、洗礼を受けてキリスト共に死に、キリストと共に復活させていただいた私たちもまた、キリストと共に天の王座に着かせていただいている、というのです。洗礼を受けた私たちが神の子として知られるようになるということは、いわば、神の王座に着く王子としての地位を宣言されることなのだと、パウロは言っているのです。

私たちは、キリスト以外に真の神の御子はいらっしゃらないし、私たちのだれも神と等しい者になど成り得ない、ということを知っています。けれども、キリストが私たちに為してくださることが、パウロの言うとおりなのだとしたら、私たちは、もうこれ以上、余計な言い訳をしている暇はない。この畏れ多い事実を、私たち自身の身に起こっていることを、しっかりと受けとめなければなりません。天の王座に着かせていただく約束を与えられた者として、神の子として、神の王子として、本当にふさわしい生き方を、少なくとも教会の交わりの中では、学ばせていただき、励まし合いながら追い求めさせていただかなければ、申し訳ないではありませんか。

難しいことではないと思います。私たちが、お互いを、天の王座を約束されている神の子、神の王子として見ることです。どうでしょうか、お互いに、そう見てきませんか。目に見える姿はそうでなくても、私たちは、信仰によって、聖霊の助けによって、お互いを、そのような者として見ることができるのです。そのとき、必ず、この地上にある教会の交わりが、天の王座に着く神の子らの交わりの一端を映し出す交わりになる。この世にあって神の子らの群れとして知られるようになる。そのような歩みが、私たちの群れ、神の家族の歩みとして導かれ、主の恵みを証しすることができますよう、祈りつつ歩み出してまいりましょう。

 

祈り

主なる神。御子と共に死に、復活し、天の王座に着かせていただく洗礼の恵みを感謝します。御子に導かれる神の子らしい交わりを保たせてください。アーメン