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主日礼拝説教「キリストの教えを越え出ない」

日本基督教団藤沢教会 2008120

11 また、暗黒に包まれて何も見えず、洪水があなたを覆っているので

12 あなたは言う。「神がいますのは高い天の上で、見よ、あのように高い星の群れの頭なのだ。」

13 だからあなたは言う。「神が何を知っておられるものか。濃霧の向こうから裁くことができようか。

14 雲に遮られて見ることもできず、天の丸天井を行き来されるだけだ」と。

15 あなたは昔からの道に、悪を行う者の歩んだ道に気をつけよ。

16 彼らは時ならずして、取り去られ、流れがその基までぬぐい去った。

17 神に向かって彼らは言っていた。「ほうっておいてくれ、全能者と呼ばれる者に何ができる。」

18 それに対してあなたは言った。

「神はその彼らの家を富で満たされる。神に逆らう者の考えはわたしから遠い。」

19 神に従う人なら見抜いて喜び、罪のない人なら嘲笑って言うであろう。

20 「彼らの財産は確かに無に帰し、残ったものも火になめ尽くされる。」

21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。

22 神が口ずから授ける教えを受け、その言葉を心に納めなさい。

23 もし、全能者のもとに立ち帰り、あなたの天幕から不正を遠ざけるなら

あなたは元どおりにしていただける。

24 黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい。

25 全能者こそがあなたの黄金、あなたにとっての最高の銀となり

26 あなたは全能者によって喜びを得、神に向かって顔を上げ

27 あなたが祈れば聞き入れられ、満願の献げ物をすることもできるだろう。

28 あなたが決意することは成就し、歩む道には光が輝くことだろう。 (ヨブ記 221128節)

 

1長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。2それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。3父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。

4あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。5さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。6愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。7このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。8気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。9だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。10この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。11そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。

12あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。13あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。

(ヨハネの手紙二 113節)

語るべき言葉を求める

私たちの教会は、今年、教会創立90周年記念の企画の一つとして、簡単な年表と教会に連なる皆さんに書いていただく証し集をまとめて「記念誌」を発行する準備を始めています。教会員の皆さんには所定の原稿用紙が渡っていると思います。そして、2月末の締め切りまでにお書きいただきたいことを、何度かお願いしてきました。200人以上の教会員の皆さんにお書きいただいてまとめるということで、お一人あたりの割り当ては1800字ほど。何を書いて良いか分からない方には、とても埋め尽くせない字数かもしれませんが、すでに書き始めてくださっている方の中には、「800字ではとても書ききれないから、オーバーしても良いか」とおっしゃる方もあります。確かに、限られた字数の中で書きたいことを書き切るというのは、とても難しいことです。同じ字数で何度も文章を書いていれば、書き慣れてくるでしょうけれども、そうでないと、初めは、800字でまとめる一つの文章はどんなものなのか、ということが想像がつきません。ですから、なかなか書き始められない方には、ぜひお勧めしますが、800字程度で書かれた参考になる文章をいくつか、お読みになると良いと思います。そうすると、このぐらいの内容で、このぐらいの案配で書いたら、800字になるのだと、想像がつくようになるので、ご自分の文章を構想するのに大いに役立つと思います。

そのような参考の文章にちょうど良いか分かりませんが、今日の聖書日課で朗読された「ヨハネの手紙二」は、新約聖書の中でも最も短い文書かと思いますが、新共同訳聖書では、ちょうど800字におさまる字数で翻訳されています。これは、長老ヨハネとして知られる初代教会の指導者が書いたとされる手紙です。書きたいことがいろいろあったとしたら、とても収まりきっていない。そう思える短い手紙です。事実、長老ヨハネ自身、最後のほうに「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません」(13)と記して閉じなければならなかった、そういう手紙です。けれども、この手紙は、決して、一度読んだら簡単に理解できて、それっきり開かれない、というようなものではない、と思うのです。むしろ、一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、繰り返し読むごとに味わいが深まってくる。短い文章の中に、本当に伝えたいことがぎゅっと凝縮して書き記されていて、それが、読むごとに新しく解けて聴こえてくる。そういう手紙なのではないでしょうか。

長老ヨハネが祈りを込めて書き記した、この短い手紙を、私たちは、聖書に収められた貴い一文として、大切に味わいたいと思うのです。そして、私たちもまた、自分が本当に語るべきシンプルな言葉を、祈りのうちに自身のうちに見出す者とされるよう、導かれたいと思うのです。

選ばれた婦人とその子たち

この「ヨハネの手紙二」を、長老ヨハネは、このように記し始めています。

長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。(1)

選ばれた婦人とその子たちというのは、長老ヨハネの牧する教会の信者の女性とその子どもたちのことでしょうか。現代の教会も同様かもしれませんが、初代教会では、女性が教会の信者の核になった例が少なからずあったようです。たとえば、パウロが開拓したフィリピの教会などは、商売をしているリディアという裕福な女性が最初の信者となって、自宅を集会場所に提供して教会を立ち上げました。コリントの教会なども、女性信者があまりに熱心に活動しすぎるので、パウロは、教会に宛てた手紙で、その行動を諫めることさえしています(Tコリ11:216、同14:3436など)。長老ヨハネも、そのような教会の中心になっていた信者の女性に、この手紙を書いたのかもしれません。

けれども、この手紙を聖書の中に収めて神の御言葉として読んできた教会は、この選ばれた婦人とその子たちというのは、教会とそこに連なる信者のことだと理解して読んできました。つまり、長老ヨハネが今日に至るまでの全教会とキリスト者に宛てて記した手紙として、これを読んできたのです。

教会を指して呼ぶ言い方は、いろいろあります。神に愛され、召されて聖なる者となった人たち(ロマ1:7)離散している十二部族の人たち(ヤコ1:1)各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち(Tペト1:1)、などです。どれも、私たちにとって、教会とは何なのか、自分たちキリスト者とは何者なのかを考えさせる、大切な言い方です。けれども、長老ヨハネが記したこの選ばれた婦人とその子たちという言い方は、想像力をたくましくすると、深い意味で神秘的な教会と私たち信仰者の姿を語っているように思えます。

選ばれた婦人とその子たち。パウロが教会をキリストの体にたとえていることは、良く知られていることですが、一方で彼は、教会をキリストに選ばれた花嫁にたとえています(エフェ5:2132)選ばれた婦人が教会を指しているというのは、まさにそういうキリストの花嫁としての教会という意味でありましょう。そこで、私たちがよく味わいたいのは、その子たちが教会に連なる信者を指しているということです。キリスト者は、キリストの花嫁である教会の子どもたち、《母なる教会》の産み出す子どもたちなのだ、というのです。

私たちに、そういう意識はあるでしょうか。私たちは、どちらかというと、自分の意志で決断してキリスト者になったように思っているところがあるかもしれません。けれども、本当は、私たちは皆、教会という信仰の母の胎の中に抱かれ、育まれて、時が満ちたときに、洗礼を授けられて新しくキリスト者として生まれ、歩み始めたのです。いや、歩み始めたといっても、最初はヨチヨチ歩きで、母なる教会や信仰の兄姉たちにオンブに抱っこで守られて、育てられて、見よう見まねで歩み方を倣って、今日に至っている。そして、それほど成熟しているわけでなくても、私たちは、後から生まれてくる信仰の弟妹を迎える準備をしながら、生まれてきた弟妹の世話をしながら、今、歩んでいる。

御父も御子も共にいてくださる

長老ヨハネが、そういう私たち一人ひとりに、また教会に、この手紙で、ただ一つのことを語っていることを、私たちは心に留めたいのです。

さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。(5〜6節)

互いに愛し合うこと、愛に歩むこと。地上に歩まれた主イエス・キリストが、弟子たちとの間で始めてくださったことです。それを、長老ヨハネは、他の手紙でも、繰り返し教えていますが、この手紙でも、ただこのことを告げるのです。

互いに愛し合うこと、愛に歩むこと。私たちは、このキリストの教えに、何度あらためて感動したことでしょうか。そして、何度繰り返し、挫折したことでしょうか。何か、これは、ただキリストというお方にだけは全く当てはまっても、自分自身には当てはまらない、そういう深い溝のようなものを、いつも覚えながら、この教えを聞き、また語ってきたのではないでしょうか。そして、自分は到底、完全には愛に歩めないという負い目から、数限りない言い訳めいた言葉や行動を起こしてきた現実が、私たちの中には、あるのではないでしょうか。

私は、こう思うのです。長老ヨハネは、そういう私たちの現実があるからこそ、この手紙を、選ばれた婦人とその子たちへと、母なる教会と子なる私たちへと、書き始めたのではないか。母と子、母を同じくする兄弟姉妹。現実の母と子の関係、兄弟姉妹の関係は、もちろん、決して麗しい愛の関係に尽きるわけではありません。むしろ、私たちは、家族の中でこそ愛の破れを経験する。けれども、ヨハネは、教会と私たち信仰者とを母と子にたとえるとき、ただこの世の現実にある母と子、家族の愛情関係を模範に考えたのではないはずです。そうではなく、母なる教会と子なる私たちの関係は、父なる神と御子キリストとの関係を模範に考えたのではないでしょうか。夫たるキリストと妻たる教会との関係を土台として、考えたのではないでしょうか。

だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。

ただひたすら父なる神の御心を行うことに徹して生き抜かれた御子キリストは、御父と共にあることだけでなく、花嫁たる教会と共にあることを、また子たる私たちと共にあることを、望んでくださった方でした。私たちが愛に歩むためには、互いに愛し合うためには、自分勝手な思いや考えを持ち込まないで、どこにとどまるべきか。キリストの教え、その御言葉、御心に、私たちの心をまっすぐ向けていく歩みが、私たちの祈りのうちに導かれることを願います。

 

祈り

主なる神。キリストの花嫁、母なる教会の内に神の子として歩みます。御父と御子と一つに結ばれて互いに愛し合い、愛に歩む者とならせてください。アーメン