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主日礼拝説教「誰だか知らない」

日本基督教団藤沢教会 2008127

1 ヨブは答えた。

2 今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い。

3 どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。

4 その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに。

5 答えてくださるなら、それを悟り、話しかけてくださるなら、理解しよう。

6 その方は強い力を振るって、わたしと争われるだろうか。

いや、わたしを顧みてくださるだろう。

7 そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ、わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。

8 だが、東に行ってもその方はおられず、西に行っても見定められない。

9 北にひそんでおられて、とらえることはできず、南に身を覆っておられて、見いだせない。

10 しかし、神はわたしの歩む道を、知っておられるはずだ。

わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ。  (ヨブ記 23110節)

 

1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。†異本による訳文 3b‐4彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 (ヨハネによる福音書 5118節)

教会の周りの多くの人々

藤沢教会は、昨年4月の教会総会で「わたしたちのビジョン2007」という文書を採択しました。私たちの教会が、これからの歩みの中で、どのようなところに目標を定めて歩んでいこうとしているのかをまとめたものです。今年2008年に私たちの教会が迎える一つひとつの行事や取り組みは、まさにこの「ビジョン」に基づいて始められたことの一つひとつです。ただ何か不足を補うとか、お飾りのようにつけておくだけのことではありません。私たち教会が、一人でも多くの藤沢市民に、また周辺の人々に、キリストと出会っていただくための、そしてキリスト者として生きる道へとお導きするための、一つひとつの取り組みなのです。

藤沢市内にどれだけ多くの教会に連なることを知らない人々がいることかと思います。諸教会あげても、どれだけの人たちに福音を伝え、キリストと出会っていただけていることかと思います。とても、十分にキリストの教会としての働きをなし得て来たとは思えない。しかし、それでも私たちは、祈りのうちに新しい「ビジョン」を与えられ、ともかくも新しい教会の歩み、取り組みを、始めようとしている。それが、この年2008年の私たちの教会が為そうとしていることです。もちろん、さまざまな不安もあります。しかし、私たちは、豊かなことを実現してくださる主を信じて、大きな期待をもって、取り組みたいと思うのです。

 

ベトザタの池の病人のいやし

私たちの教会の周囲にいる人々のことを、私たちは、どれだけ知っているでしょうか。家族や友人たちのことは、ある程度分かります。けれども、家族の友人、友人の友人となると、どのような人たちなのか、私たちはさっぱり分からないかもしれません。遠くの人たちのことではありません。教会の門の前までは来ているような、しかし、中までは入ってくることが決してないような、私たちの周囲の人々のことです。そういう人たちのことさえ、私たちは、ほとんど無関心のままで、毎日過ごしてきてしまったように思います。

「ベトザタの池のいやしの物語」を、今日の御言葉として共に聴きました。38年間病気で苦しんでいた一人の人が、主イエスにいやされた物語です。

物語を詳しく繰り返す必要もないかもしれません。ときはユダヤ人の祭、ユダヤ人がこぞってエルサレム神殿に詣でて礼拝をささげるとき、主イエスもそこにお出でになられたのです。神殿の境内に入る門に羊の門と呼ばれる門がありました。その門から入る者のためでしょうか、その門の外に大きな貯水池があった。それが「ベトザタの池」でした。町の人々の生活用水を貯めておくために造られたのでしょうが、神殿に詣でる巡礼者たちの多くは、かつて、このベトザタの池の水で沐浴して体を清めてから、神殿の境内に入りました。ところが、主イエスがエルサレムにお出でになられたこのとき、ベトザタの池の周囲にいたのは、沐浴をする巡礼者たちだったとは、福音書は描いていません。そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた(3)というのです。

当時、ベトザタの池には、巡礼者たちは立ち寄らなくなっていたと、ある人は説明します。これから神殿に詣でようとするような巡礼者たちは、病人が大勢いるようなところは避けたに違いない、というのです。そうだったかもしれません。そうでなかったとしても、健康な者たちは、そこにいつまでも留まることはなかったでしょう。沐浴を済ませたら、さっさと羊の門に向かい、境内に入り、神殿を詣でればよかったのです。健康な巡礼者たちは、池の周囲の回廊に横たわっている大勢の病人など気に掛けることもなかった。それで、その池には病人ばかりが大勢横たわっているような状況になっていたのかもしれません。

彼ら、池の周囲に横たわっている大勢の病人たちは、神殿に入って、健康な人々と共に礼拝をささげたいと願っていたかもしれません。けれども、彼らの願いは、二重に妨げられていました。病気の彼らは、池で沐浴するにも、健康な人の助けが必要でしたが、そのような助け手を得られずにいました。そして、それ以前に、病気の彼らは、病気のままでは神殿に詣でることが許されなかった。病気が治って健康になってからでないと、人々は共に礼拝する者として受け入れなかったのです。ですから、病気の彼らは、病気がいやされなければならなかった。それで、彼らは、この池の周りにいつまでも留まったのです。その池には、伝説があったからです。その池の水が動いたとき、天使が舞い降りてきており、そのときに真っ先に水に入るならば病気がいやされるという伝説です。この伝説は、何世紀も信じられていたと言います。そして、多くの病人が、何年も何年も、病気がいやされることを願って、いやされて人々と共に神殿に入り、礼拝をささげることを願って、そこに留まり、水が動くのを待っていたのです。

主イエスは、その池のほとりに立たれて、一人の病人に声をかけられました。「良くなりたいか」(6)。そこにいる病人は皆、良くなりたいに決まっているのではないでしょうか。しかし、主は、あえて「良くなりたいか」と問われました。すると病人は、「良くなりたいです」とは答えません。良くなれないでいる理由を説明し始めるのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7)。なぜこんな言い訳をするのでしょうか。なぜ自分の病気が良くならないのは他の人のせいだと言わんばかりのことを主張するのでしょうか。なぜ、自分が自分の床に縛りつけられている事実を見つめて、そこから自由になりたい、良くなりたいと、素直に願うことができないのでしょうか。しかし、これが私たちの現実の姿なのかもしれません。自分自身の生活の中に縛りつけられていて、そこから自由になれないことを、他人や社会のせいにして、自分自身を納得させている。本当に良くなること、神の祝福のうちに立つことを、求めようとしなくなっている。そういうときを、私たちもまた経験してきたのではないでしょうか。

 

「誰だか知らない」ままで放っておかない

主イエスは、そのような病人に、ただ一言告げられます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8)。良くなることを素直に求めることもしなかったこの病人は、主のこの言葉に触れて、すぐに病気をいやされて、良くなり、床を担いで歩き出したと言います。しかも、このとき、この病人は、それが誰であるのかも知らないまま、いやされて、歩き出したのです。

多くの人は、知らぬまま主イエスと出会い、主の言葉に触れ、いやされて、歩き出しているのかもしれません。主は、そういう力をお持ちの方です。けれども、このベトザタの池でいやされた男は、その後、神殿の境内で再び主イエスと出会って主を知り、主から「あなたは、良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14)と告げられたといいます。主にいやされて良くなり、多くの人々と共に礼拝をささげることができるようになった者に、主は御自身を示されたのです。そのいやしが、主イエスその方によってなされたこと、その事実から離れてはいけない、さもなくば元に戻ってしまうかもしれないことを、主はお示しになられたのです。

古い伝承によると、最初のペンテコステの日にペトロの呼びかけに応じて三千人の人々が洗礼を受けて弟子になったとき、このベトザタの池で洗礼式が執行されたのだといいます。確かめようがありませんが、そのように想像してもよいのではないでしょうか。そのベトザタの池で、人々は、かつて38年間ここに横たわっていた病人を主イエスがいやされたことを思い起こしながら、洗礼を受けた。主イエスがこの私にも出会ってくださることを信じて、主に結ばれる洗礼を受けた。そして、洗礼を受けた三千人の弟子たちは、あの羊の門をくぐって、共に神殿で礼拝をささげた。羊の門。主イエスが「わたしは羊の門である。…わたしを通って入る者は救われる」(ヨハ10:79)と語られたことを思い起こします。洗礼を受けた弟子たちは、羊の門を通って行くとき、「わたしは羊の門である」と言われた主イエスの中を通っていく思いで、神殿の境内に入っていった。主イエスの門を通って神殿に入り、そして、主イエスにいやされた者として、主によって良くなった者として、多くの人々と共に礼拝をささげたのでありましょう。

教会の周囲に、私たちの周りに、多くの人々が、病んだまま、神の祝福を知らないまま、その現実に縛られたまま過ごしています。主は、今も父なる神と共にお働きくださり、その一人ひとりに、「良くなりたいか」と呼びかけてくださっている。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と励ましてくださっている。その一人ひとりに、私たちは、それをしてくださるのは他でもない主イエス・キリストであると、明らかにして語り示したいと思います。主のもとに導き、主と結ばれる洗礼に導き、主を通して、神の祝福を共に喜び祝う交わりに、礼拝を共にする教会の群れの内に、お招きしたいと思います。そのようにすることを、主はご自身の歩みの中で備えてくださっている。そのようにすることを、私たちは許されている。そのようにすることが、私たちに託されているのです。

 

祈り

主なる神。父も御子もお働きくださっています。御業が主のものであることを人々に証しさせてください。人々を主のもとに伴わせてください。アーメン