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主日礼拝説教「無駄にならない」

日本基督教団藤沢教会 200823

1今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。

2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。4この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。5あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。6あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。7あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、8小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。9不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。10あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

                                      (申命記 8110節)

 

1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。           (ヨハネによる福音書 6115節)

天上の礼拝

葬儀のたびに、私は、「天上の礼拝」のイメージが膨らむ思いをいたします。

天使の大群が賛美の歌声を天上の空間いっぱいに響き渡らせ、それに声を合わせるようにして、すでに天に迎えられた代々の信仰者たちが讃美をしている礼拝。私は、そのような様子の礼拝として「天上の礼拝」を思い描くことが多いのです。ヨハネの黙示録に描かれているような「天上の礼拝」のイメージです。そのようなイメージからすると、私たちがいずれ地上の歩みを終え、「地上の教会の礼拝」から「天上の礼拝」へと礼拝する場所を移していただいたとき、大切なことは、天使の響かせる讃美に合わせて、神を讃美することです。私たちが、「地上の教会の礼拝」でも讃美を大切にしている理由です。私たちは、いわば二つの視点から、礼拝で讃美をすることを大切にするのです。一つは、「地上の教会の礼拝」の中で、「天上の礼拝」で讃美が高らかに歌われていることの一端を移し出して、証しすること。もう一つは、いずれ「天上の礼拝」に加えられる者として、「地上の教会の礼拝」でそのときのために備えつつ過ごすこと。

けれども、私は、このことをあまり単純に言うのに躊躇するところがあります。というのは、このたび地上の生涯を終えた父を天に送ってみて、あらためて思うのですが、讃美が得意でない人、上手でない人は、どうしたらよいだろうかと思うのです。私の父は、お世辞にも歌が得意ではありませんでした。むしろ、下手くそだったと思います。皆で讃美歌を歌っても、私は、父がちゃんと歌っているのかどうか、いつも分かりませんでした。歌わないでいたわけではないと思います。恐らく、口を動かして歌詞を口ずさみながら、小さな声で自信なさそうに歌っていたのだと思います。ほとんど「口パク」です。そういう父でしたから、「地上の教会の礼拝」で会衆讃美を豊かに響かせるのには、ほとんど役に立っていなかったかもしれません。そして、そうだとしたら、「天上の礼拝」に加えられているであろう今も、天使の歌声に合わせて声高らかに讃美を歌っていることは、なさそうに思えます。いや、もしかすると、地上ではどんなに音痴な人でも、天上に迎えられると美声の讃美を響かせることができるようになるのかもしれません。それならそれでも良いのです。けれども、そうでないとしたら、父は、「天上の礼拝」でも「口パク」で讃美を歌っているかもしれない。「天上の礼拝」の讃美を豊かに響かせるのには、ほとんど役に立っていないかもしれない。そのようにも思えるのです。

そういうことだとしたら、「天上の礼拝」のイメージを、少し修正しないといけません。私たちの本当には知り尽くし得ない、しかしまた、「地上の教会の礼拝」を営む上で原型としていつも思い描いておかなければいけない「天上の礼拝」のイメージを、私たちは、より深く、より御心にふさわしく、知るようになりたいのです。

主イエスのご生涯の歩みの中に、主が「天上の礼拝」を指し示されたと思われる出来事が、いくつもあります。そのような出来事の一つとして、今日の御言葉の語る「五千人の食事」の出来事を味わいたいと思います。

五千人の食事

五千人の食事の出来事を、ある人たちは、「これこそ教会のあるべき姿だ」と高く評価して語ります。わずかな食べ物を出して五千人で分かち合ったら、皆が満腹して、なお多くの余りが生じた。主イエスは、そういう奇跡的なことが起こされることを、教会に期待していらっしゃる、というのです。

五つのパンと二匹の魚が用意されただけで、主イエスが感謝の祈りをささげると、五千人に分かち合うだけのものが与えられたのです。ちょうど、荒れ野を旅したイスラエルの民が天からのパンであるマナを毎日集めて食べたとき、皆が必要な分だけを十分に得ることができたと言われるように、すべての人が必要な糧を十分に与えられるというのは、神の御心でしょう。天の御国の姿であるに違いありません。私たちは、そのような神の御心を知るならば、教会の営みとしても、日毎の糧を神から与えられた恵みとして、すべての人にとって過不足無く分かち合う歩みを進めたいと願います。けれども、そのことが意義深いことだとしても、この五千人の食事の出来事、あるいは多くの人と食物を分かち合うことができるようにする営み、そういう事柄自体が、地上の教会のあるべき姿だとか、あるいは「地上の教会の礼拝」が証しすべきことだとは、簡単には言えないと思うのです。なぜなら、この五千人の食事の出来事に驚いて、主イエスのことを「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14)と絶賛して王に戴こうとした人々に対して、主イエスは、背を向けて退かれたといわれているからです。

五千人の食事の出来事の中に描かれている事柄として、そういった食事の分かち合いということとは少し違う主イエスの目線を見出すべきかもしれません。

主イエスが、この出来事を起こされたのは、山の上でした。山に登り、弟子たちと一緒にお座りになられていたそこに、大勢の群衆が近づいて来た。その人々を、主は目を上げてご覧になられた。そして、弟子の一人であるフィリポに問われた。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5)

フィリポは答えます、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう(7)。二百デナリオンというのは、お金のことですが、およそ二百日分の労働者の賃金と考えたらよいようです。けれども、それだけでは、五千人分の一食にも足りないと、フィリポは言うのです。続いて、別の弟子のアンデレも言います、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう(9)。パンと魚を持っている少年がいるのです。この少年が、主イエスと弟子たちとのやり取りを見ていて、パンと魚を差し出したのではないでしょうか。素朴に、「これを皆の食事に使ってください」と申し出たのでしょう。けれども、これっぽっちでは焼け石に水だと言って、アンデレは、取り合う気がないのです。

フィリポやアンデレの言葉を聞いていると、現代の教会でもしばしば語られている言葉であるように思えます。「足りない」「何の役にも立たない」。私たちの教会は、今は、財政的には比較的に余裕があるかもしれません。けれども財政のことに限らず、私たちは、いろいろな意味で、「あれが足りない」「これが足りない」と、「足りない」話しをするのではないでしょうか。活動のための部屋が足りない、奉仕者が足りない、教職の働きが足りない、などなどと。いや、実は、「足りない、足りない」と言いながら、全然無いわけではないのです。あるのだけれども、「それだけでは役に立たない」と、捨ててしまっていることがある。「何の役にも立たない」と、はじめからあきらめてしまっているところがある。

けれども、主イエスは、「そんなことはない」と、私たちにおっしゃられる。

主イエスが、五千人の人々と共に食事をするために用いられたのは、大麦のパン五つと魚二匹でした。当時、大麦のパンというのは、貧しい人々の食事だったといいます。貧しい家の少年の、その日の食事だったのでしょう。けれども、主イエスは、そのような「取るに足りないもの」を用いて、五千人の人々と共に与る食事のときを設けられて、皆を満足させられた。いや、主が本当に用いられたのは、この五つのパンと魚二匹を差し出した少年だったのかもしれません。貧しい、名も知られぬ少年を、主は、この五千人の人々との食事という、いわば祝宴の行事のために用いられたのです。

「天の御国」は、そのようなところ。「天上の礼拝」は、そのように一人が用いられるところ。役に立たない、取るに足りないと思われているような一人が、用いられるところ。そのように、主はお示しなのではないでしょうか。

 

少しも無駄にならないように

この五千人の食事の出来事の最後に、主イエスは、人々が満腹したとき、弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(12)と命じられました。すると、五つのパンを食べて、残ったパンの屑が十二の籠いっぱいになったといいます。

主が五千人の食事の出来事を通して、「天上の礼拝」を「地上」に映し出されたとき、五つのパンは十二のパンとされた、ということでしょうか。パンが主イエスの体、キリストの体を表していると考えれば、五つの教会が用いられて十二の教会になったということを示しているのでしょうか。いずれにしても、主イエスは、私たちが役に立たない、取るに足りないといって無駄にしてしまうような小さなものを、全て集めて用いられる。「少しも無駄にならないように」と、私たちにお命じになられる。そして、そのような「天上の御国」の様を「地上の教会」に映し出すようにと、私たちをお導きくださるのです。

主イエスが、聖餐の式の中で、今も私たちにお示しくださる、この真理を、私たちは深く味わいたいと思います。「天上の礼拝」に至る道を主イエスによって拓かていると信じる私たちは、「地上の教会における聖餐」の式のうちに、「天上の礼拝」が豊かに映し出されることを、信仰のうちに見つめたいと思います。

 

祈り

主なる神。命のパンをいただきます。キリストの命を受け継がせてください。少しも無駄になさらないという主の御心を深く悟らせてください。アーメン