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受難節第3主日礼拝説教「主イエスと共に歩もう」 日本基督教団藤沢教会 2008年2月24日 (2ヨシュアは民全員に告げた。)「…14あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。15 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」 16民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」 19ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。20もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」 21民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、22ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、23「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。 24民はヨシュアに答えた。「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」 60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。 離れている者の回復 受難節に入る頃に、私が礼拝や諸集会の中でしばしば紹介する「レントへの招き」という文章があります。アメリカ合同メソジスト教会の礼拝式文の中に収められている文章ですが、現代の教会に属する私たちが、古い伝統である受難節(レント)の意味をあらためて確かめる助けになるものです。 主にあって愛する兄弟姉妹、世々の教会は、私たちの主の苦難と復活とを記念する期節を、深い献身の思いをこめて守ってきました。深い悔い改めと断食と祈りのときとしてレントの期節を守り、イースターに備えることが、教会の慣わしとなったのです。信仰に導かれた者が、キリストの体なる教会に加えられるための洗礼の準備のときとして、同時に、信仰共同体から離れていた者たちが、悔い改めと赦しを通して再び和解を与えられて教会の交わりへと回復されるときとして、この四十日間は大切にされてきました。したがって、教会の全会衆は、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、洗礼によって既に与えられている信仰を更新しなければなりません。そこで私は、主の御名によって、この聖なるレントへとあなたがたを招きます。自らをかえりみ、悔い改めと祈りと断食と愛の献げ物によって、この期節を守りましょう。神の御言葉に親しみ、これを味わいつつ、心からの祈りをいたしましょう。 この「レントへの招き」を、皆さんにも繰り返し味わっていただきたいと願っていますが、中でも私がいつも心を捕らえられるのは、「また、信仰共同体から離れていた者たちが、悔い改めと赦しを通して再び和解を与えられて教会の交わりへと回復されるときとして、この四十日間は大切にされてきました」というくだりです。私たちは、受難節が、私たち一人ひとりの悔い改めの祈りのときであることを、よく知っています。祈りのうちに自らの罪深さをあらためて見つめ直し、主の十字架に示されて行く赦しの恵みを感謝することへと導かれることを願います。また、私たちは、受難節があらたに信仰に導かれた方々の洗礼に備えるときであることも、よく知っています。イースター(復活祭)の日に洗礼を受けるための備えが、受難節の四十日間の間に導かれることを願うのです。けれども、この「レントへの招き」は、教会のこの受難節の期節に大切にしていたことは、この二つだけではなく、もう一つある、というのです。教会から離れている人たちが、教会の交わりのうちに回復されることを祈り願い、そのようなときとして備える、ということです。 私たちの教会にも、ご高齢であるなどやむを得ない事情のお有りの方々のほかに、幾人もの教会から離れてしまっている教会員がいらっしゃいます。そういう方の一人、二人を、知っていらっしゃるとしたら、その方のためにお祈りいただきたいのです。決して、「自分の意志で離れているのだから、放っておけばよいではないか」などとお考えにならないでいただきたいのです。私は、今、この礼拝堂に集っている私たちの一人ひとりも、いつ、この礼拝に主日ごとに集うことから遠ざかってしまうか分からない、いつ、教会の交わりから離れてしまうか分からない、と思うからです。 「あなたがたも離れて行きたいか」 主日ごとに教会堂に足を運び、礼拝に集うことができているということは、決して当たり前のことではないと思います。今この礼拝に集われている皆さんであっても、「教会から離れたい」と思ったことがあるのではないでしょうか。そうはっきり考えることもなく、いつのまにか教会から離れてしまって、平気で過ごしていた、ということを経験なさった方も、少なくないのではないでしょうか。 ヨハネ福音書6章は、五千人の食事を催された主イエスが、続いて「命のパン」としてのご自身の存在の意味を教えられた、大切な御言葉の箇所ですが、その出来事の終わりに物語られているのは、多くの主イエスに従っていた弟子たちが、主のもとから離れてしまったという事実です。 主イエスは自分たちに食べ物を与えてくれる力のある指導者だと考えて追ってきていた五千人の人々が、主のもとから離れたというのは、当然のことかもしれません。主イエスご自身、五千人の人々との食事の後に、お一人で身を引かれて、五千人の人々の願望を突き放されたのです。また、教えを請うて集まってきていたユダヤ人たちも、仲間の中に主イエスの人気を妬んでいた者がいましたから、結局、主のもとから離れたのは、自然なことだったかもしれません。 弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(66節) 前日には五千人もの人々が押し寄せていました。しかし、翌日まで残って主イエスに従い続けていたのは、ごくわずかでした。恐らく、十二人の弟子たちだけであったのです。これが、主イエスの周りで起こっている現実でした。 もちろん、このような現実が主イエスのもとで起こっていたことは、あるいは私たちにとっては励ましであり、慰めであるかもしれません。私たちの教会は、6月に創立90周年記念の伝道講演会を催して、何百人もの方々をお招きしたいと願っています。そのようなイベントを用意周到に行うことができれば、私たちは、客席を満杯にし、成功させることもできるでしょう。しかしながら、そのような教会が催すイベントが、しばしば、そのとき限りのもので終わってしまい。その後に続く日曜日の教会の礼拝には、いつもの馴染みの顔しか見あたらない、ということを経験することがあるのです。そのような現実を迎えたときに、私たちは、かつて主イエスのもとで起こった現実も、また同じようなものであったことを思い出して、慰められることもあろうかと思うのです。 けれども、そうであるとしても、このヨハネ福音書が伝える出来事の中で、主イエスが、最後に残った十二人に向けて語られた言葉は、私たちには、慰めというよりは、とても重たい、心を釘付けにさせる言葉かもしれません。 イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。(67節) 主が十二人に問われたこの言葉は、私たちにも問いかけられている言葉なのだろうと思います。そして、そのように問いかけられて、「そんなことはありません」と、私たちの誰が、自信をもって答えることができるでしょうか。もちろん、このとき十二人の弟子たちは、「実は、私もそう思っています」などとは答えませんでした。弟子たちを代表してペトロが、まさに信仰告白と言ってよいような言葉を語りました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68〜69節) 私たちも、礼拝に連なっている限り、そのように答える言葉を知っているかもしれません。けれども、ここでそのように答えたシモン・ペトロが、いざ主イエスが逮捕されたときには、主から離れてしまったのです。それどころか、他の福音書が伝えるところによれば、ペトロは、あるとき、主の側近として振る舞いながら、主から「サタン、引き下がれ」(マタ16:23等)と叱責されて、その心が主から離れてしまっていることを顕わにされたこともあったのです。 「あなたがたは、わたしが選んだのではないか」 「あなたがたも離れて行きたいか」。主は、そう問われ、ペトロの信仰告白の言葉を聞かれてなお、こう告げられました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(70節) 「この中の一人は悪魔だ」という主の言葉について、ヨハネ福音書は、それがイスカリオテのユダのことを指していると説明します。けれども、そのイスカリオテのユダは、教会の群れの中の一人、この私のことかもしれないと、私たちは認めなければならないのではないでしょうか。私たちの心の奥底に、深層心理に、無意識の中に、主イエスを離れたい、この人を誰かに引き渡してしまいたい、という思いがあることを、私たちは知らなければならないと思うのです。 そのような私たちにとって、それでも慰めがあるのは、ここで語られる主イエスの言葉が、必ずしも十二弟子たちや私たちを責めるばかりの言葉ではないからでありましょう。確かに、主は、厳しい言葉を告げていられる。けれども、弟子たちを、私たちを、突き放してはいらっしゃらないのです。本当ならば、主を裏切り、神を裏切る私たちの心の奥深いところを知っていらっしゃる方なのですから、主イエスのほうこそ、私たちから「離れて行きたい」と思われて当然のはずなのです。それなのに、主イエスは、「わたしがあなたがたを選んだ」と弟子たちに言われる。この後も、繰り返し言われる。今も、私たちに、そう繰り返し呼びかけられる。そして、ご自身の命を引き渡されてまでも、私たちと共に歩んでくださろうとなさっている。それが、主イエスというお方なのです。 だからこそ、私たちは、今、悔い改めの祈りを深めるこの期節に、もう一度、自分自身のために、そしてすべて教会の群れに連なるはずの仲間のために、祈りのうちに呼びかけたいと思います。「主イエスと共に歩もう」と。主イエスは、自分の力では共に歩み得ない私たちのために、命を差し出してくださって、お与えくださって、私たちの歩みの中に共にいてくださるのです。 祈り 主なる神。私どもに命をお与えくださる主イエスが共に歩んでくださることを悟らせてください。共にいてくださる主にふさわしく歩ませてください。アーメン |