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受難節第4主日礼拝説教「正しい無駄遣いのすすめ」 日本基督教団藤沢教会 2008年3月2日 9:22サムエルはサウルと従者を広間に導き、招かれた人々の上座に席を与えた。三十人ほどの人が招かれていた。23サムエルは料理人に命じた。「取り分けておくようにと、渡しておいた分を出しなさい。」24料理人は腿肉と脂尾を取り出し、サウルの前に差し出した。サムエルは言った。「お出ししたのは取り分けておいたものです。取っておあがりなさい。客人をお呼びしてあると人々に言って、この時まであなたに取っておきました。」この日、サウルはサムエルと共に食事をした。25聖なる高台から町に下ると、サムエルはサウルと屋上で話し合った。26彼らは朝早く起きた。夜が明けると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きなさい。お見送りします。」サウルは起きて、サムエルと一緒に外に出た。27町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。10:1サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。2今日、あなたがわたしのもとを去って行くと、ベニヤミン領のツェルツァにあるラケルの墓の脇で二人の男に出会います。二人はあなたに言うでしょう。『あなたが見つけようと出かけて行ったろばは見つかりました。父上はろばのことは忘れ、専らあなたたちのことを気遣って、息子のためにどうしたらよいか、とおっしゃっています。』3また、そこから更に進み、タボルの樫の木まで行くと、そこで、ベテルに神を拝みに上る三人の男に出会います。一人は子山羊三匹を連れ、一人はパン三個を持ち、一人はぶどう酒一袋を持っています。4あなたに挨拶し、二個のパンをくれますから、彼らの手から受け取りなさい。5それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに向かいなさい。町に入るとき、琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖なる高台から下って来る預言者の一団に出会います。彼らは預言する状態になっています。6主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。7これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。8わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」 9サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。 (サムエル記上 9章22節〜10章9節) 1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 《ナルドの香油》の物語 受難節第4主日は、伝統的にラテン語で《ラエターレ》と呼ばれてきました。《喜べ》という意味の言葉です。この主日の呼び名を解説して、ある人は、「受難節の中休みである」と書いています。主イエスの十字架への道行きを辿りながら、悔い改めと克己の祈りを深めていく受難節の半ばにあって、いったん、その暗闇を見つめるような営みを休ませ、主イエスの御前にある喜びを思い起こしてから、あらためて受難節後半の、より深く暗闇を見つめる祈りの歩みへと向かっていく。そのようなときであると言ってもよいかもしれません。 静かな祈りのうちに暗闇を見つめてゆく歩みの途上で、主の御前にある喜びを確かめる小休止のとき。そのような主日の礼拝に与えられている御言葉は、ヨハネ福音書の伝える「ナルドの香油」の物語です。四福音書が、少しずつ形を変えながら、しかし共通に伝えている物語。そして、恐らく最も初期の時代から教会の信仰者たちに愛されてきた物語だと言われます。一人の弟子の女マリアが、夕食の席で、高価な香油を主イエスに注ぎかけ、自分の髪でその足をぬぐって差し上げた。弟子の一人は、「なぜ、そんな無駄遣いをするのか」と咎め立てるけれども、主イエスは、それを制して、マリアのおこなったことをお認めくださり、そして、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタ26:13)と告げてくださった。マリアという一人の女の、主イエスに対する純真な思いを、私たちは、美しい信仰の現れとして素直に聴くこともできるだろうと思います。この物語が素朴に愛されてきた理由も、分かるように思えます。 けれども、この美しく、また多くの人に愛されてきた「ナルドの香油」の物語は、教会の歴史の中では、私たちが今そうであるように、いつも受難節の歩みの中でこそ聴かれてきたのです。それは、この物語の出来事が、まさに主イエスの十字架への道行きが進むべきところまで進み、もはや引き返せない状況になったところで、起こった出来事であったからです。この出来事がベタニアという小さな村のある家の中で行われていたとき、すでに、主イエスに敵対していた人々は、主イエスを捕らえるために当局のお墨付きを取っていました。ヨハネ福音書では、直前のこととして、次のように伝えています。 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。(11:57) そのように切迫した状況の中で、この「ナルドの香油」の出来事は、粛々と行われていたというのです。ですから、私たちも、受難節の歩みの中で、この物語に耳を傾けるとき、この物語を、ただ砂漠の中のオアシスのように渇きを潤してくれる物語として聴くだけでは、十分でないかもしれません。むしろ、私たちは、十字架へと突き進んで行かれる主イエスのお姿を思い、また、そのような主イエスに従っていく限り、自分たちもまた身の危険にさらされているのだということに徐々に気づかされながら、この物語に耳を傾けて行きたいのです。 主イエスのための夕食。そこにいるラザロ、マルタ、マリア。 この物語の出来事は、いつのことだったのでしょうか。マタイ福音書(26章)とマルコ福音書(14章)は、主イエスが最後にエルサレムに入られた後の、いわゆる受難週の一日の出来事として伝えています。ルカ福音書(7章)は、それよりもずっと前、まだガリラヤでの宣教に勤しんでおられた頃の出来事として伝えています。一方、ヨハネ福音書は、それは過越祭の六日前のことだったと伝えます。それはどうも、主イエスが最後にエルサレムに入られる前の晩、受難週の最初の日曜日の前の晩のことだったようです。もっとも、当時のユダヤ人の生活では日没から始まって翌日の日没までが一日でしたから、日曜日の前の晩というのは、すでに日曜日が始まっているときであったと言ってもよいかもしれません。 そういうことを考え合わせて、ある人は、「この物語は、すでに日曜日に行われるようになっていた初代教会の主日礼拝の営みと重ね合わせて物語られている」と言います。ラザロ、マルタ、マリアという三姉弟と弟子たちに、初代教会の人々は、自分たち信仰者の姿を託して物語っていた、というのです。確かに、そのように考えて聴き直してみると、一つの教会の姿、礼拝の様子が、浮かび上がってくるように思えます。 そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。(1〜2節) そこには、ラザロという、死者の中から救い出されて新しい命を与えられたばかりの人がいます。洗礼を受けたばかりの人を指しているのかもしれません。 そこでは、主イエスのために夕食が用意されていました。それは、主の晩餐(聖餐)を指しているのかもしれません。私たちの教会が今日もあずかる聖餐は、初代教会では日曜日に共に集まったときの夕食の中で祝われていたのです。 マルタは、その夕食の席で給仕をしています。聖餐の祝いのパンとぶどう酒を皆に配るという奉仕についている者を指しているのかもしれません。給仕という仕事は、初代教会以来、教会の特別な奉仕職(執事、ディコン)を意味するようになったことを、私たちは知っています。 ラザロは、そのような夕食の席に共に着いていたと描かれます。主の晩餐(聖餐)を祝う礼拝の席に共に加えられた、新しく生まれたばかりの信仰者が、そこにいる、ということでしょうか。すると、このラザロに託された新しく生まれたばかりの信仰者の前で、この「ナルドの香油」の出来事は繰り広げられた、ということになるでしょう。この出来事は、まさに新しく生まれたばかりの信仰者にこそ、深く味わっていただきたい出来事として、ここに物語られている、ということになるかもしれません。 もちろん、だからといって、洗礼を受けて何年も経っている者には関係ない物語だ、というわけではないでしょう。むしろ、私たちは皆、この受難節の祈りの中で、洗礼を受けたときの原点に帰って、自分自身の信仰を見つめ直すよう、この物語によって促されているのだろうと思うのです。 香油を注ぐマリア、金入れを預かるユダ マリアとユダ。この二人の対照的な姿を見ます。そして、主イエスの告げられた言葉を聴きます。主イエスがマリアの行為を認められた。けれども、私たちは、自分もマリアのような信仰者になりたい、とは思っていないかもしれません。 マリアは、価値のあるものを、惜しげもなく主イエスにささげました。もしかすると、マリアの虎の子の財産であったかもしれません。それを、ささげ尽くしてしまった。しかも、主イエスのために使ってしまった。お金に換えられるような状態でささげたのではなく、使ってしまったのです。そういう献げかたを、私たちは、いったいどれだけできるでしょうか。私たちの思いは、むしろ、マリアを咎め立てたユダに近いと思うのです。「なぜ、そんな無駄遣いをするのか。お金に換えて、有効に使えばよかったのだ」。そのように考えるのは、ユダだけではない。私たちも、そういう価値観の世界で生きているところがある。 福音書は、ユダが盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた、と告げています。けれども、ユダが使い込みをしていたということではありません。金入れの中身をごまかしていた、とは、ユダが預かっていたお金を自分自身の采配で用いていた、ということです。もちろん、自分たちの日々の営みのため、また貧しい人々に施すために、用いていたのでしょう。最も無駄にならないと判断した方法で用いていた。けれども、ユダは、主の判断を仰がず、自分自身の判断で用いていた。そのことを指して、それは盗人のすることだ、本当のところ貧しい人々のことを心にかけているのでない、というのです。 どこか戸惑わざるを得ません。私たちの現実の営みは、ユダのように主から預かったものを、自分で判断して最善の方法で用いる、というものです。主イエスのためであっても、マリアのように高価なものを一度に使い切ってしまう用い方は、躊躇せざるを得ない。けれども、だからこそ、主イエスは、このマリアの献げ方を記憶するようにとお告げになられたのではないでしょうか。全てを主に献げ尽くしてしまい、自分の手元に残しておかない、自分で確保しておかない、自分が主導権を持たない、そういう主に対する「献身」ということをです。そして、そういう主に対する姿勢を保っていればこそ、主からお預けいただいたものを、主の御心にふさわしく用いることができる、ということなのではないでしょうか。 聖餐の祝いに与ります。主がご自身の命をすべて差し出してくださったことを、聖餐卓の上で確かめます。十字架に至るほどの献身をしてくださった方を、聖餐卓からいただきます。そして、聖餐にあずかった後には、その食卓に、私たちの献身のしるしとして、献金をお献げします。そのとき、私たちは、思い起こしたいと思います。香油を主に注ぎ尽くしたマリアの献身を。マリアの献身を真実のものにしてくださった主イエスその方の献身を。そして、私たち自身の献身を。 祈り 主よ。主の献身を思い起こします。マリアの、代々の信仰の先達の、兄弟姉妹の献身を思い起こします。私の献身を真実のものとならせてください。アーメン
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