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2008年3月9日(日) 日本基督教団藤沢教会 主日礼拝説教 説教者: 落合建仁 神学生 説教題: 「自分の命を憎む者が、永遠の命に至る」 箇 所: ヨハネによる福音書 第12章20−26節 (新共同訳) 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」」 今私達は、主イエスが十字架上にかかられたことを覚える、レント・受難節のときを歩んでいる。その受難の出来事を覚え、御言葉を求めて、このように礼拝に集ってきている。主イエスの受難と苦しみを通して、今の私達がある、それを胸に刻み付けるためである。 2000年前、過ぎ越しの祭りを祝うために、多くの人々がエルサレムに集っていた。かつてエジプトで苦渋を強いられていたイスラエルの民が、無事に脱出できたという出来事を胸に刻みつけるためである。主イエスも、自らが十字架上で迎える死を知りつつ、この祭りの時期にあわせてエルサレムに上り、滞在を続けていた。有名な、主イエスが弟子たちの足を洗う、いわゆる“洗足”はこの次のところとなる。そうしたときに、今日の出来事が起きたのである。 20節にこうある。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」。今日の、「一粒の麦」のたとえは、この何人かのギリシャ人によって、始まる。ユダヤ三大祭りの一つとしての過ぎ越しの祭りに、大勢の人々が、国内からはもちろん、国外からも巡礼者たちがやってきていた。大きな事典で調べてみると、年間10万人の巡礼者がいたとのことである。いずれにしても、大勢の人々が来たわけである。 その大勢の中に、「何人かのギリシア人がいた。」と言う。このギリシャ人が、具体的にどういう人のことであったかは、実はよくは分からない。ユダヤ教に興味・関心があって、遠くギリシャの方から来た人とも見えるし、あるいはまた、すでにユダヤ教に改宗したギリシャ人なのかもしれない。よくは分からない。けれども、聖書の文脈としては、「礼拝〔を〕するために」とあるので、後者の可能性が高いと思う。ですから、ここでギリシャ人と言ったとき、ユダヤ教に改宗したギリシャ人、つまりユダヤ教に改宗した外国人・異邦人ということになる。それまで、ヨハネによる福音書のなかに、外国の人の姿が描かれることはありませんでしたから、ここは、一つ重要な転換点を示している、そういうことが暗に伝わってくるのである。何人か、ですから、少ない人数だ。けれども、求めるものがあってエルサレムにやって来たのである。今の私達のように、観光のためではなく、まったく宗教的な目的を持って遠いところから来たのである。 ギリシャ人は、エルサレムに来てそこで、主イエスについての“噂”を聞いたものと思う。そのことは、直前の17節18節にあるとおりで、こう書かれている。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」。こういった噂を聞いてから、このギリシャ人は、主イエスに一目お会いしたいと願ったのだろう。 けれども、聖書は、ギリシャ人たちが、直接に主イエスにお会いしたというようには描いてない。まず、「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」に依頼し、次にこのフィリポがアンデレと相談し、初めて主イエスに伝えている。特に重要なことは含まれていないようなところだが、ここにも大切な伏線がある。 主イエスの弟子には12人がいたが、なぜ、フィリポとアンデレなのか。フィリポとアンデレという名前は、ギリシャ的な名前であると言われる。だから、主イエスに会いに来たギリシャ人にとって、二人は、言葉が通じるか、あるいはそのほか、交渉するにあたっては物事がよく進むと思ったからだろう。 ギリシャ人が、2人に、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んでいる。新共同訳では、「お願いです。」とある。お願いの言葉だが、そこを口語訳や文語訳では「君よ、」とある。「お願いです。」と、「君よ、」とでは、意味がだいぶ異なる。つまり、ここに、「お願いです」という言葉そのものは無い。実を言うと、ここには、「お願いです。」と言っているこの言葉には、もともとは「主よ」という言葉が言われているのである。つまり、私達が、「主イエス・キリストよ」と呼ぶ、あの「主よ」である。とくに深い理由はないと思うが、謙遜としての意味があるにしても、いかにも低姿勢である。主イエスにではなく、弟子の一人のフィリポに、「主よ」と呼びかけるとは、いかに主イエスに会いたいかがわかる。 この場面を見て、私達は、ギリシャ人があまり意味を知らずに、「主よ」とか言っているな、と見てしまうかもしれないが、必ずしも、そうとは言えない。ここで、説教を語る者と、聞く者の両方が、読み取るべき事柄があるように思える。つまり、ここで、フィリポは主イエスの言葉を取り次いでいるわけであるが、現代で言うと、主イエスの言葉を取り次ぐものとは一体なんであるか。それは聖書の言葉であり、また聖書の言葉が語られる説教である。聖書の言葉が、ここで語られ、主が今もなおここにおられることを信じる。そうしたとき、自ずと、言葉そのものへと、主よ、と呼びかけることは大いにありうる。 ここに立っている私などは、まさにここで主の言葉の取り次ぎをさせて頂いている。主の言葉を取り次ぐ、それはまさに秘書のような存在である。私はかつて政治家の秘書を目指したことがあったけれども、それを聞いたある牧師先生が神学生である私を評して、「落合くんは、では、政治家の秘書からイエス様の秘書になったわけだな」、と軽妙に言ったことがある。それはその通りで、今、そのお役目としてここに立っているわけである。この、主イエスの言葉を取り次ぐという一点において、御言葉を求める者が、その取り次ぎ人に対して、「主よ」といった謙遜な言葉を呼ぶことがありうる。私などが、しばしば、教会員の方から「先生」と呼ばれることがある。このときに、絶対に勘違いしてはならないのは、自分自身が「先生」だからではない。ただ、主イエスの言葉を取り次ぐことにおいてこそ、「先生」とその方は呼ばれる。そのことを忘れた時、あってはならないことが起こる。私は果たして主イエスの秘書になれるだろうか、ここを読むたびにそう思わせられるのである。 そういう意味で、このフィリポとアンデレは、主イエスが十分に信頼していた秘書たちである。主イエスが12弟子を集めるとき、フィリポは、ナタナエルの橋渡しをしたし、アンデレは、シモンの仲立ちをした。ここに、主イエスの枝としての教会の様子が凝縮されているということが見てとれると思う。主イエスに出会う、出会おうとする時、多くの人たちの繋がりを経るのである。私達が、主イエスに出会った時の、主イエスの秘書を思い起こすことができるのではないか。 さて、2人が主イエスに、ギリシャ人が面会していることを伝えた。そうして主イエスが話した言葉というのが、23節以下である。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」。主イエスが、実際にギリシャ人に面会したかは分からないし、実はもう、福音書からは、ギリシャ人のことは、今後、出なくなってしまう。よって、対談が実現したかどうかは分からない。しかし、ここで主イエスは非常に重要なことを告げた。それが、「人の子が栄光を受ける時が来た。」である。「人の子」とは、主イエスご自身のことである。その人の子が、栄光を受ける時が来た、というのである。この栄光という言葉の意味を、この世の、人間的な栄光と読むことはできない。文脈からは、主イエスの名が、外国人にまで広まった、という、名前が広く世に伝わったという意味での栄光とも読めなくはない。実際、この私達の世界では、どのようなことであっても、名前が売れることが、商売その他で、物事がうまく進むためにも大切であったりして、職業によっては、知名度が高まることこそが光栄あることなのだ、栄光だ、ということがしばしばある。けれども、主イエスが言う「人の子が栄光を受ける時が来た。」とは、そういった知名度の問題ではなかった。それは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」、そのような栄光の時が来た、というのである。それまでは、時が来ていなかった。カナの婚礼のときには、主イエスは母マリアに「わたしの時はまだ来ていません」と答えた。同様のことは、7章30節や8章20節にも見られる。その、まだ来ていなかった栄光の時が来たのだ。その時とはまさに、歴史上ただ1回起きた、十字架の時である。十字架で苦しみを受けるという、「一粒の麦」として主イエスが地に落ちて死ぬ栄光である。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」十字架上で、主イエスがあらゆる悪・罪に打ち勝つことによって、私達は救いにあずかることが出来た。麦とあるところは、これは厳密には小麦を言っているのだが、このたとえは、主イエスが実際に過ごした環境に小麦が多かったからか、その小麦の様子を身近に見つつして、そのような言葉が出たのではないだろうか。聖書に描かれている“譬え”はしばしば、同時代に広まっていたものであることが多いようだが、これは、主イエスが語った“譬え”そのもののようである。ここに、主イエス・キリストだけに通じるところがある。どの時代にも偉人と呼ばれる人がいる。また、主イエスと同じように、奇跡を行う者、癒しを行う者もいる。けれども、すべての人々と主イエスとが一点だけ異なるのが、この、「死んで、多くの実を結ぶ」というところにある。この時期に至っても、まだまだ主イエスは、死ぬことを自ら避けることは出来たはず。けれども、この小麦のイメージにあらわされたご自身の使命を貫徹されるのである。自らの死を通して、限りない、豊かな実を結ぶことを選ばれるのである。 ところが、これはご自身だけについての話で終わるのではなかった。一つの麦の話だけではなかった。小麦のイメージを想像できない人にとっては関係がないという話ではなかった。私達自身の問題へと、主イエスはなおも言葉を続けるのである。ご自身についての「一粒の麦」の話で、終わらないのである。 それが25節。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」。聖書には、しばしば、不可解な、躓きを与えるような言葉というものがあり、それに出くわす。この言葉もその一つであると思います。一粒の麦のたとえの続きに、こうした驚く言葉が続いていることは、それまで気がつかなかったかもしれない。こんなところがあったのか、と。けれども、私たち自身に直接関わりのあるところとは、実は一粒の麦ではなく、むしろ、こちらの方なのである。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」主イエスの十字架をあらわした、この言葉の光のもとによって初めて、25節を読むことが出来るものと思う。 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」。この言葉からいくつもの疑問点を感じとるのも確かである。なぜなら、命が大切なものであることは、私達はよくよく知っている。マルコ福音書8章36節にはこうある。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」。神から与えられた自分の命の尊さについては、説明しきれない。そのうえで、自分の命を憎むという言葉は強い言葉である。これは誤訳でもなく、その意味からは、憎む、英語でhateとしか訳しえない言葉である。 このところを説教題にしたが、正直、何度も躊躇した。なぜなら、文脈ぬきでは、あたかも、自殺を促しているように見えるからである。けれども、これまでの教会の歴史において、ここを、自殺を推奨しているというように読んだことはありません。過去の偉大な神学者・説教者であるアウグスティヌスという人も、ここは決してそうではない、と言った。「永遠の命に至る」とあるのも、あたかも、死んで生き続けることを言っているようで、日本人の感覚としては場合によっては、霊魂不滅の感覚も持ってしまうかもしれない。けれども、決してそういうことではない。死の推奨ではない、私達のすぐ横に死の穴がぽっかり開いているようなことを感じても、決して足を踏み入れてはならない。それでは、この言葉の真意は一体どういうことであるか。 自分の命を憎め、という。その逆は、自分の命を愛すること、である。つまり、自分の命を愛することを憎め、否定せよ、ということである。いよいよ分からなくなるが、自分の命を憎む、というところを、面白く意訳をしたものに、自分の命を敵とする、と訳したものがある。これをもっと簡略化すれば、「自分を敵とせよ」である。「利己主義を敵とせよ」ということである。 自分の中の、利己主義を敵とせよ、と言われるとき、私達はもう、気がついているのではないだろうか。自分の中に巣食っている、敵としなければならない本性が、たくさんあることを。そこで私たちは問われる、そういった私達が考える命とはなんであるのか。利己主義の自分の命、それは自分の本性そのものであると、思い切って言い換えることもできるかもしれない。そういった自分を徹底的に愛そうとする時、大きな愛を忘れるのではないだろうか。それが、主イエスの愛を忘れているという時である。 私達は自分の命が惜しい。けれどそれはどうしても自己愛というものに通じる。その自己愛を否定し、主イエスを愛する者が、永遠の命へと至る、というのである。そうした時こそが、主イエスが我らと共におられる時である。聖書の26節にあるとおりである。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 自己愛に集中してしまう罪、主イエスが私達を愛するがゆえに、その罪を滅ぼすために十字架へおかかりになったことを覚える、それが今、受難節のときである。 この世の力は、たえず、己を愛することへと引き寄せようとする(ベンゲル)。けれども、今私達は、ギリシャ人たちのように、フィリポやアンデレを始めとした、主イエスの言葉の取り次ぎを頼りにしつつ、主イエスご自身にお目にかかろうとして、教会に集ってきた。2000年前の巡礼者も、その巡礼への過程は大変なものがあったと思う。今の私達もそうだ。そうして集ってきたこの教会も、主イエスの一つの死から広がった実の一つである。思えば、私達自身もその一つである。 ギリシャ人がその後どうなったかは分からない。けれども、この異邦人の一人でもある私達が今、主イエスにまみえようとしている。キリストの栄光の時と、異邦人の救いとは同時に起きた。それが今、起きている。
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