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棕櫚の主日礼拝説教「だれを捜していますか」

日本基督教団藤沢教会 2008316

1これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

3次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、5アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」6アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。9神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」13アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。15主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」      
             
(創世記 22118節)

1こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。2イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。3それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。4イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。5彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。7そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

12そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。14一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。    (ヨハネによる福音書 18114節)

主イエスをお迎えする受難週

受難節(レント)の期節の終わり、受難週を迎えました。この日を、教会は古くから「棕櫚の主日」などと呼びならわしてきました。主イエス・キリストが十字架のご受難を受けられるためにエルサレムの町に入られたとき、人々が「シュロ(なつめやし)の枝」を持って出迎えたと伝えられることを記念して、礼拝を守ってきたのです。

主イエス・キリストをお迎えする。受難節の祈りのときを過ごしてきた私たちは、受難週の最初の日である棕櫚の主日に、主イエスをあらためてお迎えするときを与えられるのです。私たち一人ひとりが、神を忘れ、御言葉を避けてきた己の姿と向き合って、悔い改めを新たにしてきました。そのような祈りの歩みの中で、私は牧師として皆さんに、教会から離れている兄弟姉妹が立ち戻ってくることができるように祈って欲しいとお願いをしました。一人でも、二人でも、この日に、長く拒んできた主イエス・キリストを心のうちにあらためて迎え入れて欲しい、そのための執り成し励ます祈りを皆さんにも共にしていただきたい、と願ってきたのです。そのようなお一人が私たち教会の群れに回復されて、親しい交わりを取り戻すことができるならば、それは、私たち皆の喜びであります。私たちばかりでなく、神の天使たちの間に喜びがある(ルカ15:10)

主イエスの十字架のご受難を憶える受難週の最初の日である棕櫚の主日に、私たちは、主イエス・キリストをあらためてお迎えする喜びを、讃美をもって言い表します。棕櫚の主日に主イエスをお迎えする喜び。それは、クリスマスに御子キリストをお迎えする喜びと、本質的には何ら変わらないことです。棕櫚の主日の出来事を預言する旧約・ゼカリヤ書の御言葉は、今日のためだけでなく、クリスマスを迎えるアドヴェントのためにも告げられる御言葉です。今日の礼拝で「アドヴェント」に分類されている讃美歌が歌われて、「おや」と思われた方もあるかもしれませんが、決して間違えて選んでしまったわけではありません。むしろ、今日、私たちは、かつて多くの人々が主イエスをエルサレムの町に迎え入れた出来事を思い起こしながら、幼子キリストをお迎えしようと祈りのうちに備えて過ごしたアドヴェントの歩みを思い起こす。主をお迎えすることが、本来、喜びであることを、今、あらためて思い起こしたいのです。

「だれを捜しているのか」

しかし、私があらためてそのようなことを皆さんに申し上げるのは、何かおかしなことのようにも思います。ここに集われている皆さんは、もちろん、この中にいまだ洗礼を受けていらっしゃらない方もあるけれども、そうであっても、それぞれに主イエス・キリストをご自分の内に迎えようという思いがあってこそ、ここにいらっしゃるのだろうからです。主イエスをあからさまに拒もうと思ってここに集われている方は、恐らくいらっしゃらない。少しずつニュアンスは違うかもしれませんが、皆さんが、主イエス・キリストの言葉か業か何某かを自分の中に迎え入れようと思って、ここに集っていらっしゃる。それを喜びにしようとして、ここに座って、もしかすると忍耐して説教にも耳を傾けていらっしゃる。そして、迎えるべき主イエス・キリストを、今日も、捜し求めていらっしゃる。

けれども、今日、受難週の最初の日である棕櫚の主日にあらためてお迎えしようと目を向けている主イエス・キリストは、果たして本当に私たちが迎え入れたいと思ってきた方なのか、期待していたような方なのか、期待どおりの喜びを与えてくださる方なのか。そのことを、問われているのだろうと思うのです。

今日、私たちに告げられたのは、ヨハネ福音書18章からの御言葉でした。主イエスが、十字架刑に処せられるために捕らえられていく出来事を物語る御言葉です。他の福音書と並んで、受難週のたびごとに繰り返し読まれてきた、受難物語の初めの部分です。

ここで、主イエスは、ご自分を捕らえようと暗闇の中、松明やともし火や武器を手にしてやってきた人々に向かって、繰り返し、こう告げて言われています。

「だれを捜しているのか」(4節、7節)

ヨハネ福音書を通して読んできますと、人々が主イエスを捜しているという状況がしばしば描かれていることに気がつきます。人々は、あるときは、自分たちにパンを腹一杯に与えてくれる王様にしようと、主イエスを捜しています。また別のときには、捕らえて殺そうと思って、主イエスを捜しています。捜し求める理由はさまざまですが、人々は、主イエスを捜している。ところが、主イエスは、そのような人々に向かって、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」(7:34)と告げられるのです。敵対する人々に対してだけでなく、弟子たちに対しても、主イエスはそのように告げられたのです8:2113:33

主イエス・キリストというお方は、不思議なお方です。私たちが、一所懸命になって捜し求めているのに、「見つけられないよ」と言われる。捜し出して、見つけたと思ったら、ドジョウすくいのドジョウのように、するりとすり抜けて行ってしまわれる。シャボン玉のように、掴んだと思った瞬間に、パチンと消えていなくなってしまわれる。信仰の歩みを重ねていく中で、私たちは皆、そういう経験を繰り返してきたのではないでしょうか。いや、今でもそういう経験を繰り返し続けているのではないでしょうか。私自身、牧師となってますます、そういう経験を避けられなくなっているように思うのです。洗礼を受ける前であろうと、洗礼を受けて信仰の歩みを何十年と重ねた者であろうと、それは同じなのです。

「わたしである」

主イエスを捜し求めているのに、見つけられない、掴み損ねてしまう。そういう私たちの姿を、この福音書は描き出している。ところが、今日の御言葉の物語では、少し様子が違うのです。主イエスは、ご自分から人々の前に出てこられて、「だれを捜しているのか」と問われ、そして、「ナザレのイエスだ」と答える人々に対して、「わたしである」=「わたしはここにいる」と告げられるのです。「わたしはここにいる」と告げられるだけではない。「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせなさい」(8)と言われてご自分でない者を立ち去らせ、また、剣で対抗しようとする弟子のペトロをも引き下がらせて、ただご自身を、捜し求めてきた人々に差し出されるのです。

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。(12〜13節)

人々が、殺そうと捜し求めていた主イエスを、とうとう捕らえた。それにしては、少しあっけない物語です。何の抵抗も示していらっしゃらないし、自ら「わたしはここにいる」と告げられているのです。主イエスご自身が、まるで、この逮捕に協力しているかのように振る舞っている。「捜しても、見つけられないよ」と、高を括ったような物言いをなさっていた主イエスが、なぜ、この期におよんで、「あなたたちが捜している私は、ここにいる」とおっしゃられるのでしょうか。隠れんぼをしているのになかなか見つけてもらえない子供が、しびれを切らして鬼に自分の存在を教えてしまうように、主イエスも、なかなかご自分をとらえきることができない人々に、我慢できなくなってしまったのでしょうか。

主イエスのお考えを、私たちは十分に分かるわけではありません。けれども、確かなことがあります。主イエスを十字架に架けて殺してしまおうと決めていた人々に、主は自ら身を差し出されたのです。主イエスの命を奪おうとする人々に、主は、ご自身の命を与えるために、自ら身を明かして、捕らわれたのです。

受難週のこの週、私たちは、主イエスの十字架への道行きの最後の日々を辿りながら、祈りを深めます。十字架のご受難に深く心を向けて、一週の歩みをいたします。そこで私たちが見るのは、私たちに敵対する何者かによって捕らえられ、悲惨な最期を迎えられた方のお姿なのではありません。私たち自身が捜し求めて、捕らえ、十字架に架けて命を奪うことになる方のお姿を、私たちは見るのです。いや、私たちが捜し求めていたときには見つけられなかったのに、今は、その命を私たちに与えてくださるために、自ら「わたしはここにいる」と名乗り、身を差し出してくださる方のお姿を、私たちは見るのです。自ら「十字架に架けるために私を捕らえなさい」と言ってくださる方、「私の命を受けなさい」と言ってくださる方。そのような方を、この週の祈りのうちにお迎えしてまいりましょう。

祈り

主よ。あなたは私どもの殺意も悪意もご存じです。それでも、御身を差し出して、その命をくださるというのですか。どうぞ、私どもをお救いください。アーメン