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イースター礼拝説教「もう、捜さない」

日本基督教団藤沢教会 2008323

1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。

穀物を求めて、食べよ。

来て、銀を払うことなく穀物を求め価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。

わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。

あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。

わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

4 見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした。

5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。

あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。

あなたの神である主、あなたに輝きを与えられるイスラエルの聖なる神のゆえに。

6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。

7 神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。

主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。

わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。

8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、

わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。

10雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。

11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55111節)

1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネによる福音書 20118節)

復活の祝い

受難節の六週間、そして主の聖なる受難週の一週間の歩みを終えて、私たちは、今年も主イエス・キリストのご復活を記念するイースターを迎えました。聖壇の典礼布は、受難節の悔い改めを指し示す「紫」から、光り輝く永遠の命を指し示す「白」に掛け替えられました。一人ひとりが己の罪を見つめ、また主イエスの十字架の死を見つめた受難節から、主にある新しい命に生きる復活節へと、私たちは、導き出されてきました。今日からペンテコステまでの七週間、私たちは共に、復活の命、新しい命の喜びを御言葉から聴き、それに応えて讃美を歌います。

今年は、例年になく早いイースターとなりました。昨年暮れにクリスマスを祝った後、落ち着く間もなく受難節に入ってしまい、祈りも整わないまま、今日の日を迎えてしまった方も少なくないかもしれません。特に今年は、受難節最初の主日に創立記念礼拝を祝い、また二人の神学生を壮行する祈りのうちに礼拝を守り、受難節の御言葉に落ち着いて耳を傾けることが十分にはできませんでした。

けれども、受難節の期節の中に加えられた、そのような教会の営みの一つひとつも、むしろ、この年の受難節の恵み、またイースターの恵みとして数え上げましょう。私たちは、この受難節を、教会の創立を記念する礼拝から歩み始めました。そのようにして、もしかすると個人的な祈りの期節として憶えられるばかりで終わってしまう受難節を、私たちは、教会に連なる私たち神の家族の祈りの期節として憶えるように導かれたのです。また、二人の神学生を壮行する祈りの礼拝を守ることを通して、私たちは、伝道者を育て支え、送り出していく教会の務めを再確認する機会を与えられました。神学校と共に神学生を支え育て、また遣わされて行く伝道者を祈りのうちに支え続ける。この当たり前のことをあらためて主から示していただいた受難節のときでもあったわけです。

そのような受難節を経てのイースターの祝いのときです。一人ひとりが、また教会が、今年もひとつ新しくされたことを喜び、祝いたいと思います。

捜しても見つからない

多くの教会では、今日、イースターの礼拝で、新しくキリスト者になる方の洗礼式が行われていることでしょう。私たちの教会では、イースターよりもクリスマスに洗礼式を行うことのほうが多いかもしれませんが、伝統的には、洗礼式はイースター礼拝で執り行うことが大切にされてきました。洗礼を受けるということは、何よりも、主の十字架と共に古い自分が死んで葬られ、主のご復活と共に新しい主にある命に生きるようにされることだと、教えられてきたからです。

毎年イースターになると、このことを申し上げるので、聞き飽きた方もいらっしゃるかもしれません。けれども、イースターになれば、何度でもこのことをお話ししなければならない。なぜなら、今も、私たちの教会の礼拝に、いずれ洗礼を受けるべく集っていらっしゃる方々が幾人もあるからです。いや、「いずれ」などという気の長い話ではなく、「今すぐにでも」と申し上げたいとさえ思っています。もちろん、今日初めて礼拝にいらっしゃった方にまで、闇雲に「洗礼を受けませんか」と声をかけたりはいたしません。けれども、続けてこの礼拝に出席してくださっている未受洗の皆さんには、申し上げたい、「もう十分、大丈夫です。あなたが洗礼を受けるために必要なことは、もう備えられています」と。

私たちも皆、かつて、ひとつの決心をして、洗礼を受けました。だからこそ申し上げるのですが、洗礼を受ける決心を与えられるまでのときというのは、本当に苦しいときだと思うのです。求めているのに、得られない。捜しているのに、見つからない。主イエスという方を掴み取りたいのに、掴みきれない。そういう、もどかしさを抱き続ける苦しさが、洗礼の決心に至る前には、皆、あるものです。

今日、イースターの物語をヨハネ福音書から聴きました。マグダラのマリアという、主イエスのもとを片時も離れずに付いてきていた女性が、復活の主イエスと最初に出会った、という物語です。

けれども、このイースターの物語、最初のイースターの朝は、決して喜びに満ちた朝ではありませんでした。マグダラのマリアは、主イエスが金曜日の日に十字架につけられて死に、墓に葬られるまで、ずっと付き添っていました。マグダラのマリアは主イエスと結婚していた、などという言い伝えが生まれるほど、このマリアは、主イエスを求め、愛し慕い、離れずについてきていたのです。その主イエスが死んで墓に葬られたとき、マリアは、もはや墓の中に愛する主イエスを求めるしかなかった。墓の中に、主イエスの面影を捜し求めるしかなかった。愛する人を失った者であれば、だれもが経験するような喪失感の中で、マリアは、主を捜し求めたのです。ところが、イースターの朝、マリアが主イエスの葬られているはずの墓に行ってみると、入り口の石が取りのけてあって、その中に納められているはずの主イエスのご遺体が、見あたらない。マリアが捜し求めてきた主イエスは、そこには見つけられなかった。マリアはうろたえます。そして、仲間の弟子たちのところに走っていって、言うのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2)

その後、二人の天使が現れて、マリアに「なぜ泣いているのか」と尋ねたときにも、マリアは同じように言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13)。マリアは、主イエスを捜し求めている。ところが、その所在が分からなくて、泣くのです。そして、とうとう復活された主イエスが現れられて、マリアに「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけられたときにさえ、マリアは、こう言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(15)

このマリアの姿は、些か滑稽にさえ見えます。しかし、このマリアは、私たちの洗礼の決心に至る前の姿を、よく示しているのではないでしょうか。必死になって求め、主イエスを捜しているのです。けれども、見つけられない。求めているのに得られない。主イエスを掴み取りたいのに、掴み損ねてしまう。主イエスが目の前にいらしても、主を自分のものにしたい思いが強すぎて、かえって、主イエスが見えなくなっているのです。洗礼の決心を得られずにいるときのもどかしさ、苦しさを、マリアは味わっている。いや、私たちは、洗礼を受けてからも、しばしば、こういうところに舞い戻ってしまって、信仰が苦しくなってしまうことがあるのです。

 

捜し出された一人として

けれども、皆さん、今日は、そういうマリアの苦しさを見て、終わるのではありません。マリアの苦しみの終わり、喜びの始まりを見るのです。

マリアは、捜して、捜して、見つけられずに泣いた。もう、あきらめようかという思いさえ抱いていたかもしれない。けれども、そのとき、マリアは、期待していたのとは全く違うことを経験します。復活された主イエスが、「マリア」と名を呼んでくださったのです。主イエスを捜し出すことができないでいたマリアのことを、逆に主イエスが捜し出し、呼び求めてくださったのです。

マリアがイースターに経験した喜びとは、この喜びです。十字架に死なれた主を捜し出して手元に置いておく喜びではない。「主イエスはこういう方だ」と掴み取って、我がものにする喜びでもない。そうではなく、主が、今も、自分のことを捜し出し、呼び求めてくださっている、自分は主に捜し出された一人、選び求められた一人なのだと、気づかされる、そういう喜びです。

復活の主イエス・キリストと出会うイースターの祝いのときです。主に捜し出された一人として、私たち皆が主と共に新しく生まれさせられるときです。私たちを、捜し求め、呼び求め、選び求め、そしてとらえてくださる方が、今も生きてお働きくださっています。もう、捜さなくてもよい。ただ、復活の主の呼び声に耳を傾けて、その御手にとらえられた者として新しく歩み始めたいと思います。

 

祈り

復活の主の父よ。私どもは自分の人生の中に主を求めていました。今からは、復活の主に捜し出された一人として、主の御声の中を歩ませてください。アーメン