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復活節第2主日礼拝説教「主イエスを見る」

日本基督教団藤沢教会 2008330

1モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。

2 主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。

わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。

3 主こそいくさびと、その名は主。

4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。

5 深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだ。

6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。

7 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし、怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。

8 憤りの風によって、水はせき止められ、流れはあたかも壁のように立ち上がり、大水は海の中で固まった。

9 敵は言った。「彼らの後を追い、捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」

10あなたが息を吹きかけると、海は彼らを覆い、彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。

11主よ、神々の中にあなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、

ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか。(出エジプト記 15111節)

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(ペトロの手紙一 139節)

 

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
           (ヨハネによる福音書 201931節)

日曜日ごとに

今日、私たちに告げられた福音書の物語には、二つの日付が出てきました。その日(19)八日の後(26)です。初めに出てくるその日というのは、その前段(20章前半)で物語られている、主が十字架で死んで葬られて三日目の週の初めの日(日曜日)、マグダラのマリアが復活の主イエスと出会った最初のイースターの日曜日のことです。そして、八日の後というのは、その最初のイースターの日曜日から数えて八日目、つまり次の日曜日のことです。

私たちは、日曜日ごとに教会堂に集まり、礼拝を共にささげます。実際には、日曜日に仕事を休めない多くの人がいらっしゃる。そういう方のためを思えば、教会は、日曜日だけ礼拝をしていればよい、とは言えない。実際、平日や土曜日に週日礼拝を守ることで共に礼拝をささげる機会を多くの人に提供しようとしている教会は少なくありません。そのような礼拝を充実させることは、私たちにとっても一つの願いであり、また使命として受けとめるべき課題でありましょう。

けれども、そのような日曜日以外の礼拝を充実させることができたとしても、教会は、日曜日の礼拝をやめてしまうことはない。二千年間、日曜日の礼拝を死守してきたように、これからも、日曜日の礼拝は守り続けられる。それは、主のご復活のときから、日曜日ごとに弟子たちが集まっているところの真ん中に、復活の主その方がお立ちくださったからです。日曜日ごとに集まる教会の中でこそ、そこに集う者に復活の主と出会う経験が与えられ続けてきたからです。日曜日が特別な日として復活の主その方によって定められてきたことを、教会は信じ、大切にしてきたからです。

 

「あなたがたに平和があるように」

ヨハネ福音書は、はっきりと、最初のイースターの日から主イエスに従う弟子たちの群れである教会が、真ん中にお立ちくださる復活の主を中心にして、その営みを始めたと、物語っているようです。ここには、二千年経った現代の教会と何ら変わらない教会の姿が描かれている。私たちは、最初のイースターの日に一つところに集っていた弟子たちと同じように、この集まりの真ん中にお立ちくださっていると信じる復活の主を中心にして、礼拝の営みを守っている。

最初のイースターの日、弟子たちは、なぜ一つところに集まっていたのでしょうか。主イエスが逮捕されて十字架につけられてゆくとき、弟子たちは散り散りに離れ去ってしまっていました。ヨハネ福音書は、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(19)といいます。自分たちの従っていた主イエスが、ユダヤ人たちに捕らえられて十字架刑に処せられたばかりでした。次は自分たちに迫害の手が伸びてくると考え、恐れたのもかもしれません。一箇所に集まっていると見つかる恐れも大きかったでしょうが、しかし、バラバラに隠れているのも恐ろしく、皆で集まって身を潜めていたのかもしれません。

いずれにしても、弟子たちは、復活の主を迎えようとして集まっていたわけではありませんでした。女の弟子であるマグダラのマリアが、「わたしは主を見ました」と告げに来て、主から言われたことを伝えても、それで、「では、我々も復活の主をお迎えする準備をしようではないか」と言って集まり、祈り備えていたわけではないのです。

いや、もしかすると、このとき弟子たちは、復活の主が現れられることをも恐れていたのではないかと、ある人は想像して語っています。もちろん、福音書にはそのようなことは何も語られていません。けれども、あり得ることです。弟子たちは皆、不本意ながらも主イエスを裏切ってしまっていたのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と語ったトマスも、「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と宣言したペトロも、主イエスが十字架につけられたときには、どこかに隠れてしまっていたのです。ですから、主が復活して現れられたとき、「お前たちは私のことを見捨てたのか」と責められたら、申し開きができない。それどころか、死からよみがえられるような力のある方に自分たちの非を責められたら、とても生かしておいてもらえないかもしれない。そのように恐れたということも、あり得ることでしょう。

いずれにしても、弟子たちは一つところに集まってはいたけれども、誰も、復活の主をお迎えしようと思っていたわけではなかったし、その備えをしていたわけでもなかった。ところが、そのようなところに、主はどこからともなく入ってこられて、彼らの真ん中に立たれた。そして、「あなたがたに平和があるように」と告げられた。そして、彼らに、手とわき腹をお見せになった(20)というのです。

手とわき腹。それは、もちろん、十字架刑に処せられたときの傷跡のことです。十字架につけられて死んで葬られた主イエスその方が、今、自分たちの真ん中に立ち、平和を告げてくださっている。自分たちの身の安全が脅かされていると恐れおびえている者を、非難したり責めたりする言葉ではない。裏切りの責任を問う言葉でもない。むしろ、赦しに満ちた言葉。それが弟子たちの聴き取った、「あなたがたに平和があるように」という主の言葉であったのでありましょう。だからこそ、弟子たちは、主を見て喜んだ(20)のです。

 

「わたしの主、わたしの神よ」

日曜日に集まる主イエスに従う弟子たちの群れ。二千年前と同様の弟子たちの群れの集まりを、今、私たちは引き継いでいます。私たちが引き継いでいるのは、厳密には、最初のイースターの次の日曜日に集まっていた弟子たちの群れです。そこには、すでに、復活の主との出会いを経験させていただいた者がいる。そして、まだその経験をしていない者が、後から加わってくる。そういう群れです。

ディディモと呼ばれるトマス。ディディモとは双子の意味です。双子のトマス。この、愛すべき弟子、「疑いのトマス」というありがたくないあだ名で知られている弟子が、他の弟子たちから距離を置くようなところに立っています。初めから他の弟子たちと一緒に行動していれば違ったかもしれません。けれども、最初のイースターの日に、彼は、一緒に行動しなかった。その彼には、「復活の主を見た」、「主と出会った」と言って喜んで証しする他の弟子たちが、どこか胡散臭く見える。気持ちの上でもギャップを感じないではいられない。

二千年間、教会には、いつもトマスがいました。いや、ある人は、「私たちは皆、トマスの双子の兄弟だ」と言います。キリスト者として歩みを重ねていながら、なお、トマスのように疑い、他の信仰者との間に溝を感じないではいられないときがあるのです。「復活の主イエスが見えていない」という思いにとらわれて、信仰が揺らいでしまうことがあるのです。けれども、私たちは、そうであればこそ、「トマスの双子の兄弟」であることを幸いであると知りたいと思うのです。そのトマスが、なお他の弟子たちと共に日曜日の集いの中に居続けたとき、彼は復活の主との出会いを経験することができたからです。主を仰いで「わたしの主、わたしの神よ」と確かな信仰の確信を証しするときを与えられたからです。

主は、「見ないのに信じる人は、幸いである」(29)と告げられました。まだ復活の主の御姿を確かに見るという経験をしていないかもしれません。かつてそういう経験をしていても、疑いを抱き始めているかもしれません。それでも、主と出会い、その御姿を確かに見るという経験をしていなくても、なお信じて主に従う者の群れの集い、主日ごとの教会の営みに加わり続けるならば、幸いであると、主は告げておられる。なぜなら、そこで代々の信仰者たちは復活の主と出会う経験を与えられてきたからです。私たちも皆、主の御姿を見、「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白せずにいられない経験を与えていただけるでありましょう。

ヘブライ人への手紙の中に「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(12:14)とあります。すべての人との平和聖なる生活、つまり主に従う信仰者の仲間との共なる礼拝の生活です。そこに留まり続けたいと思います。たとえ離れることがあっても、そこが帰って行くべきところであることを心に刻みたいと思います。

 

祈り

主なる神。復活の主と出会わせてください。たとえ疑うことがあっても、なお主の御名のもとに集められた兄弟姉妹の群れの中に留まらせてください。アーメン