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復活節第3主日礼拝説教「百五十三の大きな魚」 日本基督教団藤沢教会 2008年4月6日 1 主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、 つながれている人には解放を告知させるために。 2 主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、 嘆いている人々を慰め 3 シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。 彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる。 (イザヤ書 61章1〜3節) 1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 「わたしは漁に行く」 ヨハネ福音書の伝える主の復活の物語の後半(21章)は、復活の主と出会った弟子たちの新しい歩みの始まりが描き出されています。 ここに描かれる弟子たちは、ティベリアス湖、すなわちガリラヤ湖にいます。そこは、弟子たちの何人かの故郷であり、主イエスと出会うまで過ごしていた毎日の生活の場です。中でも、ここに名が記されている弟子たちのうち、シモン・ペトロとゼベダイの子たちは、この湖で漁師として生計を立てていた者でした。想像するならば、ここに名の記されていないほかの二人の弟子という中に、ペトロの兄弟アンデレが含まれていたかもしれません。四人の漁師であった弟子たち。かつて主イエスに湖の畔で「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19等)と呼びかけられて、舟も網も放り出して従っていった弟子たちです。 その弟子たちが、主イエスの十字架の事件の後、故郷に再び戻って来ていたのです。けれども、それは、この弟子たちが信仰生活から世俗の生活に戻った、というようなことではないでしょう。彼らは、復活の主と出会っていました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20:21)という復活の主の御言葉を聴いていました。彼らがたとえ故郷に戻っていたとしても、それは、ただ元の鞘に収まるために戻ったのではない。故郷の人々は彼らを見て、もしかすると、「やっと、イエスとかという男に惑わされた熱病が冷めて、帰ってきた」と言うかもしれない。もしかすると、また、かつてと同じ家に住み、同じ仕事につくかもしれない。けれども、それは、元に戻るということではない。復活の主と出会った者として、今までと同じではいけない、これまでとは違う新しい歩みを始めるのだと、彼らは思っていたでありましょう。 四人の漁師であった弟子たちと行動を共にしたのは、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、もう一人名が記されていないのは、これまでたびたび登場していたフィリポでしょうか。彼らは、漁師であったかどうか分かりません。少なくともナタナエルは、ガリラヤ湖から遠いカナ出身であると記されていますから、漁師ではなかっただろうと想像されます。 そのような七人が行動を共にし、そしてペトロらの故郷である湖の畔まで来た。そのとき、ペトロは、復活の主に後ろから押される思いで、言ったのではないでしょうか。「わたしは漁に行く」(3節)。漁師が漁に行くのは当たり前です。けれども、彼は一度、舟と網を捨てた過去がある。そのペトロが、もう一度「漁に行く」というのは、決して甘い考えからではないでありましょう。過去のことは過去のこととして、彼は、今、もう一度漁師としての歩みを、新しい思いのうちに、復活の主との出会いのうちに与えられた新しい命のうちに、始めようとしている。そして、そのペトロの思いに他の仲間たちも応じるのです。「わたしたちも一緒に行こう」。「共に復活の主イエスと出会って、主に送り出されて新しい歩みを始めた仲間だ。ペトロ、お前を一人で行かせはしない。一緒に行こう」。復活の主によって結び合わされた信仰の仲間同士の絆を、わたしたちは、ここに深く感じないわけにはいきません。 「主だ!」 復活の主の御言葉に押し出されて、わたしたちは、それぞれに、また信仰の仲間と共に、新しい思いをもって新しい歩みを始めます。私たちの中に、今まさに新しい歩みを始めたところだと、強く心の中に感じている人がいると思います。自分自身ではそのような思いを強く抱いていなくても、信仰の仲間が今まさにそのような新しい歩みを始めようとしているということに気づいて、共感をもって歩みを共にしようと決意してくださっている人もあるでしょう。教会の群れの中で、わたしたちは、そのようなお互いを知る者となりたいと思うのです。教会の中で、「わたしは行く」と決意をもって、真っ先に歩み出してくれる仲間がいます。それに応えて、「わたしたちも一緒に行こう」と呼びかけ、先に歩み始めた仲間を支える者も必要です。復活の主は、そのような群れとして教会をお造りくださり、ご自身の復活の命のうちに新しい働きへと導きだしてくださるのです。 そのようなわたしたちは、その新しい営みがうまくいかないことがあったとしても、性急に落胆したり、あるいは万が一にも互いを批判し合ったりしないことです。わたしたちの計画は、失敗することもあります。わたしたちの知恵や知識が足りないこともあれば、神のお定めになられたときでないこともあるのです。 復活の主と出会って新しい歩みを始めた七人の弟子たちの最初の計画は、ペトロの発案した漁でした。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」。そのように始められた最初の計画は、しかし、その夜は何もとれず失敗に終わろうとしていました。そういうこともあるのです。漁師であったペトロたちですが、だからといっていつも大漁というわけにはいかないし、不漁ということもある。計画ややり方が間違っていたわけではないでしょうけれども、網を降ろす時と場所がどこかずれてしまったのです。そういう中で、彼らは、岸から呼びかける声を聞きました。それは復活の主イエスでしたが、彼らには最初、それが誰だか分からなかった。誰だか分からないまま、にもかかわらず、彼らは、自分たちの外から聞こえてくる声に気づいて、応えました。「子たちよ、何か食べ物があるか」「ありません」。内向きになっていたときには聞こえなかったのに、ふとした拍子で外からの声が聞こえ始めると、不思議と次々に聞こえてくるものです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。外からの声に耳を傾け始めるならば、もはや内向きになって落胆したり互いに批判し合ったりしている暇はありません。外から聞こえてきた声に応答するのみです。彼ら七人の弟子たちは、それまで徒労に終わっていた投網をもう一度試してみました。そして驚くほど多くの魚が網にかかっているのに気づくのに時間はかかりませんでした。 外から聞こえてくる声が、必ず正しいことを告げているとは限らないかもしれません。けれども、その声が主イエスであるならば、父なる神の言葉を告げる主の声であるならば、それに応えて従ったときに必ず大きな驚くべき恵みが与えられる。そのように、この物語はわたしたちにも約束してくれているのです。たとえ、その声が主イエスからのものであると分からなくても、主の言葉に応えるときには、わたしたちに大きな恵みの結果が与えられる。そして、そのとき、気づくのです、その声の主はわたしたちの主イエスだと。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 復活の主が分からない、と言う人がいます。たしかに、わたしたちの目には見えないお姿をとられるのが復活の主です。けれども、復活の主イエスに気づきたいならば、外から語りかけてきてくださる主イエスの言葉に耳を傾け、それに応えて従ってみることです。そして、主のお与えくださる大きな恵みの実りを体験してみることです。そうすれば、主が分かる。 百五十三匹の大きな魚 七人の弟子たちは、今網にかかったばかりの魚を引いて、主イエスの前に進み出ました。百五十三匹の大きな魚が、彼らの得たものでした。なぜ、丁寧に153という数字が記されているのでしょうか。ある人たちは、当時の世界で知られていた魚の種類が153なのだと説明します。別の人たちは、153という数字の数学的性質を説明して、象徴的な意味合いを考えます。象徴的な意味を考えるのならば、わたしたちは素直に、この七人の弟子たちがガリラヤの伝道活動で最初に仲間に加えることができた人たちの人数というように理解してもよいかもしれません。主はペトロを弟子にされたときに「人間をとる漁師にしよう」と言われたのでしたし、また「魚」のギリシア語「イクスース」は、「イエス・キリスト、神の子、救い主」の語の頭文字を並べた単語であるということで、ごく初期の時代からキリスト者自身を指す隠語とされた歴史があるからです。七人で始めた伝道活動によって、その最初の実りとして153人の信仰者、受洗者が与えられた。そういう教会の歴史を、ここに描き込んでいるのかもしれません。 百五十三匹の大きな魚と共に、七人の弟子たちは、主イエスが招いてくださった朝の食事にあずかりました。そして、この物語は、13節で、食事の場面の描写を繰り返すように「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」と記されて、閉じられています。余計な一節のように思えますが、ここにも、この後に生まれ、造り上げられていった教会の姿、主の食卓に集う教会の姿が、描き込まれているのでありましょう。 今年のイースターを祝って三週目、新年度の歩みを始め、新しい教師も迎えました。あらためて、わたしたちは、ご復活の主イエスのお遣わしくださる新しい歩みへと押し出されて、このときの新しい歩みを始めています。わたしたちの歩みの中で、その計画や営みが徒労に終わるときもあるかもしれません。それでも、わたしたちは、注意深く、外から語りかけてくださる主イエスの御言葉に耳を傾け、主の言葉にこそ応えて従う歩みを重ねて行きたいと思います。その中でこそ、主がわたしたちに百五十三匹の大きな魚にまさる豊かな恵みの実りをお与えくださると信じて歩みたいと思います。そのような歩みが確かなものになるようにと主ご自身が定めてくださった主の食卓の交わり、聖餐にあずかる礼拝の営みの中に、わたしたちの思いを繰り返し向け直し続けることができますよう祈ります。 祈り 主よ。復活の主に遣わされて新しい歩みを始めさせていただきます。主の言葉に聴き従う歩みとさせてください。豊かな恵みを確かめさせてください。アーメン |