印刷用PDFA4版2頁

復活節第4主日礼拝説教「羊飼いに任ずる」

日本基督教団藤沢教会 2008413

1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。

彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。

2 諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。

主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう。

3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。

4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく

あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。

あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。

主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。

5 若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり

花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。       (イザヤ書 6215節)

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
       (ヨハネによる福音書 
211525節)

主イエスを愛しているか

キリストのご復活を記念するイースターの祝いの日から、主日ごとに続けて主の復活の物語を聴いてきました。復活節第4主日の今日、告げられたのは、ヨハネ福音書の最後の段落、ティベリアス湖での漁を終えた弟子たちが復活の主を囲んで食事を共にしたときの、主イエスと弟子のペトロとの会話を伝える物語です。

このとき、復活の主イエスはペトロに三度、「わたしを愛しているか」と問われ、それに対してペトロも三度、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、そして主はそのペトロに向かってやはり三度とも、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられた、と物語られています。主イエスが、弟子たちの群れから始まる教会の人々の世話をペトロに託した出来事として知られるところです。この物語の前段、21章前半の出来事を伝道の営みを語るところと見るならば、この21章後半の出来事は牧会の営みを語るところと見ることができるかもしれません。主の一番弟子、教会の最初の指導者、伝道者でもあったペトロが、復活の主の呼びかける言葉と主に招かれた食事の交わりに導かれながら、伝道と牧会の営みへと遣わされているのです。そして、ここには、復活の主の呼びかける言葉に聴き、主の食卓を囲む交わり、つまり礼拝の営みに土台を置く教会の、伝道牧会の営みが基礎付けられていると言ってもよいでありましょう。

ここで主がまず問うていることは「わたしを愛しているか」ということでした。

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。(15)

ペトロという人物の物語を思い出すならば、このペトロに対する主イエスの問いは、避けて通れないものです。ペトロは、主イエスが十字架につけられる前の晩、「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)とまで言っておきながら、主イエスが捕らえられると三度も「あの人のことは知らない」と答えて、主から離れてしまったのでした。そのペトロが、復活の主に出会っていただき、主の呼びかける言葉に従い、また主の招いてくださる食事にあずかり、今また、主に従って生きていく新しい歩みへと遣わされて行くためには、もう二度と主から離れない、主を愛し抜く、という確かな応答が求められた。その応答を求める問いが、「わたしを愛しているか」という三度の問いであった。伝道者となり、教会の指導者となる者に、主はそのような確かな愛を求められた。そして、ペトロは、答えうる限りの言葉をもって主に答えた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」

ペトロは、「わたしはあなたを愛しています」と、きっぱり答えることはできませんでした。自分が一度は主を裏切ったことを否定できなかったのでしょう。だから、自分の主イエスに対する愛が、事実どのようなものであるのか、自分で確信をもって語ることはできない。ただ、主イエスはペトロの愛がどのようなものであるのかをご存じでいてくださる。裏切りを問いつめるのでなく、ただ黙って赦してくださる主イエスこそが、自分の愛の可能性も限界もすべてご存じでいてくださる。「主イエスさま、あなたにすべてを知られているわたしは、ただあなたが赦してくださるから、あなたを愛することの中に留まらせていただいているのです」。ペトロの思いとは、そのようなものであったのではないでしょうか。

そのように答えるペトロに対して、主イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられ、教会の群れの羊飼いにペトロを任じられました。わたしたちは、ここに、教会の働きである牧会の営みを担っていく者に対して、今も主が問いかけられている問いと、それに対して答えるべき応答の姿とが示されていることを、心に刻みたいと思うのです。

キリストの小羊を世話する

ところで、しばしば、キリストの小羊の世話、すなわち教会の牧会の営みは、まず何よりも牧師や伝道師、また教会の役員や教会学校の教師の働きであるとされます。確かに、牧師という呼び名は、「牧者=羊飼い」を意味する呼び名です。伝道師も、教会役員や教会学校教師も、その牧師の働きを助けるものというように位置づけられたりします。けれども、このペトロの物語を聴くわたしたちは、そのような教会の牧会の営みが、むしろ決して教会の中の特定の者だけに限定されるのではない、ということをあらためて知るのではないでしょうか。

ペトロは、確かに激情家で、主イエスに従っていくにしても、他のどの弟子にも先んじて従って行かなければ気が済まないような人物でした。失敗もしましたが、主を愛することにかけては、弟子たちの間でも、自他共に認めるものがあったに違いありません。ですから、彼は、仲間を愛し、世話することにかけても、人一倍熱心だったのではないでしょうか。けれども、それにもかかわらず、ペトロのそのような熱心さや愛の確かさが、ここで主イエスによって認められたというわけではないのです。むしろ、そのペトロが、自分の愛の不確かさを認めて、それでもなお愛に生き続けることができるのは、主イエスに知られ、主イエスの赦しのうちに置かれていることを認めたからなのだと、語られている。そうだとすれば、それは、もはやペトロだけのことではない、むしろ、わたしたち復活の主と出会い、主イエスの呼びかける言葉に聴き、主の食卓にあずかるすべての信仰者について言われていることなのでありましょう。

「わたしはよい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10:14)と、主イエスが告げられたことを思い起こします。何よりもわたしたちが忘れてならないのは、真の羊飼いは主イエス・キリストお一人であるということです。主は、わたしたち一人ひとりを、ご自分の羊として世話し、守り導いてくださる。今も、復活の主キリストとして、直接に、わたしたち一人ひとりを牧してくださっている。にもかかわらず、主は、わたしたちに、ご自分の羊を飼いなさい、世話しなさいと、命じられるのです。わたしたちに、ただ囲われた安全地帯の中だけで人生を終えればよいとは言われない。むしろ主は、わたしたちをこの世に遣わされる。この世に出て行って、そこで主イエスに従い、倣い、主と同じ道を歩む者として人生を全うすることを、わたしたちに期待してくださっている。だから、命じられるのです。「わたしの羊を飼いなさい」と。

キリストに従うならば

最後に主は、繰り返し「わたしに従いなさい」と告げながら、言われました。

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

ヨハネ福音書は、これをペトロの死に方を語られた言葉だと解説しています。ペトロは迫害のもと捕らえられ殉教の死を遂げた。そのような死に方を告げているというのです。けれども、多くの説教者も語ることですが、この主イエスが語られた言葉は、わたしたちの行き着くべきところを示されているのだと思います。

まず何よりも、これは、すべての人にとって死を迎えてゆくときの現実でありましょう。わたしたちの多くは、人生の終わり、年をとったり、病気をしたりして行くとき、若いときの自由を失い、誰か他の人の世話になって、他人の意志の中にすべてを委ねてゆかなければならない現実を迎えるのです。そのような現実を、わたしたちは、必ずしも自然に受け入れられるわけではないと思います。受け入れがたい現実として、わたしたちの前に迫ってくることもある。多くの場合、仕方なくその現実を受け入れてゆくのです。

けれども、主イエスは、むしろ、わたしたちに、そのような現実を、ご自分に従う者の行き着くところだと告げられている。主に従い、主のご命令のうちに主の羊であるお互いの世話をし合う信仰者たちの行き着くところは、主の道の最終地点は、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれるような生き方なのだと、主は言われる。それは、主ご自身が、十字架に至る歩みをそのように歩み抜かれた、ということに他ならないでありましょう。

わたしたちは、信仰によって何ものにも縛られない自由を得させられます。だから、信仰を与えられたときには、ある意味で怖い者知らずであった。主が味方なら、という強い思いで、自分自身のことにしろ、教会のことにしろ、行きたいと思ったところに行くことを当たり前に考えていたのではないでしょうか。けれども、主は、そのようにわたしたちを導かれるのではない。わたしたちを、自分では行きたくないところに連れて行かれるような生き方へと、導かれる。そんな生き方は、自尊心を傷つけられるものでしょうか。真っ平ご免でしょうか。民主主義社会の現代人の性に合わないことでしょうか。そうかもしれません。それでも、主が導かれる道は、そこにある。主が愛の掟と共に示される生き方は、そこにある。わたしたちが神の栄光を現すようになる死に方は、そこにある。そこに、主が共にお働きくださる恵みの現実がある。

あなたは、わたしに従いなさい」。主は、わたしたちに呼びかけてくださっています。主の道の幸いを一つずつ確かめる群れとして歩みたいと思います。

 

祈り

主なる神。あなたは何もかもご存じです。このようなわたしでも愛に生きる者とならせてくださいます。主の道に従う幸いを深く悟らせてください。アーメン