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復活節第5主日礼拝説教「証しをする生き方」

日本基督教団藤沢教会 2008420

24わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。25わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
          (エゼキエル書 362428節)

18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
            (ヨハネによる福音書 151827節)


イースターからペンテコステへ

わたしたちの教会は、今日の午後、年に一度の定期教会総会を開きます。この教会の上に示される神のご計画を祈り求めるときです。わたしたちは、必ず、この期節、イースターからペンテコステに至る歩みの中で、信仰と祈りを整えられて、教会総会に臨ませていただいています。わたしたちが毎年4月に総会を開くのは、あるいは、この世の習慣の年度初めに合わせたものであったかもしれませんが、古来、教会はイースターから数えて三週目の日曜日に教会会議を開くという習慣を持っていたそうですから、わたしたちの定める総会の日付も、そのような古い習慣の中に置き直してみるならば、新しい意味が見えてきます。

わたしたちは、この期節に、信仰の中心とも言うべきことがら、神の恵みの働きを確かめています。十字架に死なれて三日目に復活された主イエス・キリストが、復活の命を信じる弟子たちに聖霊をお送りくださり、教会の営みを始めさせてくださった。この神の恵みの働きを憶えなければ、わたしたちの教会の営みも、その営みを定める教会会議も、虚しく無意味なものとなってしまう。そのことを確かめる歩みの中で、祈りと信仰を新たにして教会総会に臨みたいと思うのです。

 

世に属していない

今日の福音書の御言葉は、先週まで続いたイースターの復活物語を離れて、再び、主イエスが十字架に架けられる前に弟子たちに語られた御教えが告げられました。主イエスが最後の晩餐の席、弟子たちの足を洗った後に語られた長い説教の中の一部です。このヨハネ福音書15章後半は、前半の有名な「わたしはまことのぶどうの木」(1)で始められるぶどうの木のたとえに続く教えが記されています。主イエスは、ぶどうの木のたとえで、枝である弟子たちが主イエスという木につながっているべきこと、そうすることによって父なる神がわたしたちをも確かに養い、実りを結ばせてくださることを、約束してくださっていました。そして、その教えのまとめとして、主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節、また17)と繰り返し命じられて、その中で、弟子たちのことを「友と呼ぶ」(15)とお語りくださったのでした。わたしたちが、そのまま暗誦してもよいような大切な御言葉が、15章前半にはぎっしりと詰まっています。

そのような箇所の直後に当たる15章後半は、わたしたちには馴染みの薄い、あるいは、あまり繰り返し聴き直そうとはしない、敬遠しがちな箇所かもしれません。ここには、キリストに従う者は世に憎まれる、キリストと同じように世の人々に迫害される、そういうことが繰り返し告げられているからです。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(18〜19)

わたしたちは、この御言葉を聴いても、もしかすると、どこか他人事のように感じるかもしれません。もちろん、わたしたちの中にも、その信仰について家族の理解を得られないという苦しみを抱えている方がいらっしゃいます。そういう意味では無関係ではない。けれども、わたしたちの時代のキリスト教会は、どちらかといえば「世のための教会」を標榜したり、この世に理解され、喜ばれる教会を目指しているところがある。ですから、教会にしろ一人ひとりのキリスト者にしろ、世に憎まれるような態度でいてはいけない、というように当たり前に考えるわけです。「世に属さない」などと言わないで、「教会こそ積極的に世にまみれるべきだ」と言うわけです。そこで、ここに記されているような主の御言葉は、主イエスの時代やその後の迫害時代の教会にとっては励ましになったけれど、あるいは、教会が激しい迫害を受けるような社会状況の中では今でも有効かもしれないけれど、激しい迫害のもとにいるわけでもないわたしたちの教会にとっては、あまり聴き学ぶべきところがない、と思ってしまっているかもしれません。

けれども主イエスは、ここで明確に告げられます。主に従う者は、主によって世から選び出されたのだから、もはや世には属さない。この世はキリスト者たちをかつては身内として愛していたが、今は、世に属さなくなったので、憎むようになった。キリスト者とは、そういう者のことなのだ、と。

無論、わたしたちは、間違ってはいけないと思います。キリスト者は、世に憎まれるような生き方をするべきだと、主イエスが言われているわけではないということです。教会は、またキリスト者は、二千年の歴史の中で、繰り返しこの間違いを犯してきました。キリスト者であることを誇り、信仰を根拠にして自分の正義を振りかざして世の人々を批判したり裁いてみせ、その結果、世の人々に煙たがられたり疎まれたりするようになることを、正当化してきた。わたしたちも、うっかりすると、そういう正当化の過ちを犯すのです。

主イエスは、そういうことを言われているのではないでしょう。主は、世の生き方に染まった生活をしていた者をご自分で選び出して、ご自分と結びつけたからには、今や、その人は世の生き方とは違う、新しい生き方、新しい言葉と行動とを身に着けるようになるから、世の生き方からはずれてくるし、疎んじられるようになる、遠ざけられるようになるはずだ、と言われるのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(12〜13)

結局、主イエスのこの教えに何度でも帰ってくるのです。けれども、問題は、わたしたちが、この世の生活を送っていると、主のお示しくださった愛に生きることを本当にすぐに忘れてしまうということです。わたしたちは、有り余るものの中から何かを与えるような愛の実践はできる。ところが、この世の中では、自分を捨てる愛、自分のものを削る愛、自分自身を与えるような愛というようなことを実践しようものなら、すぐさま周りから激しく奪い尽くされてしまいます。ですから、わたしたちもまた、自分という殻の外にあるものは与えても、殻の中のものは頑なに手放そうとしない。命はもちろん、知識も考えも、場所も時間も、「これは自分のもの」と思ったら、それに執着しないではいられない。そういう生き方から、わたしたちは、なかなか離れられないでいるのではないでしょうか。

 

聖霊を受ける信仰の内に

わたしたちキリスト者が、本当に主イエスのような自分の命を捨てる愛に生きる者としてこの世に立ち続けるならば、一体、何がそこで起こるのでしょうか。

主イエスのように自分の心の殻を開いて隣人に接することができるならば、わたしたちは、もっと多くの人を、もっと深く、受け入れることができることを知るでしょう。主イエスのように自分の時間や生活を隣人に差し出すことができるならば、わたしたちは、もっと多くの人が、もっと大きな可能性の中に歩むことができるようになることを知るでしょう。しかしまた、主イエスのように自分の何もかもを明け渡していくならば、わたしたちは、命さえ求めてくる人々に激しく奪い尽くされることになるかもしれません。けれども、そのときにこそ、わたしたちは、本当に神にのみ立ち帰ること、神にのみ生かしていただくことを、知るようになるのかもしれません。

主イエスは、この教えの中で言われました。わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26)。そして、十字架に死なれた後に、弟子たちの前に復活者として現れられたときには、「聖霊を受けなさい」(20:22)と言われたのでした。ご自分の命を差し出され、すべてを人と神とに明け渡して十字架に死なれた主イエスは、復活の命と共に、神の聖霊を受ける信仰に生きることを、弟子たちに、わたしたちに、お教えくださったのです。

神の聖霊を受けて生きると、どうなるのでしょうか。わたしたちの内側から、神ご自身がお語りくださり、お働きくださり、そのご存在を現してくださることを知るようになるのでしょう。けれども、そのためには、わたしたちは、神の聖霊がお語りいただくための、お働きいただくための、そのご存在を現していただくための、スペースを明け渡しておかなければいけないのでしょう。主イエスが十字架に至る道行きの中で、一つまた一つと、しかし徹底して、ご自身のすべてを明け渡してゆかれたように、わたしたちも、自分の内で、またわたしたちの共なる営みの中で、祈りのうちに一つまた一つと明け渡してゆくのです。

もちろん、それは、自分では何もしないでよいとする静寂主義ではありません。わたしたちの想像を超えたことをなさってくださる神のご計画の内に、わたしたちの言葉と行動とを整えていただくために必要なプロセスなのです。それによって、わたしたちの生き方が、神の恵みにこそ土台を持つようになる。それによって、わたしたちの人生が、神のお与えくださる使命によって目標を与えられるようになる。それによって、わたしたちが、この世にあって、主イエス・キリスト、神と一つであられたあの方を証しする者とされるのです。

神は、わたしたちの歩みが遅いからといって、後ろから追い立てたり、急かしたりはなさらないでしょう。けれども、主イエスは、繰り返し、「わたしに従いなさい」と呼びかけてくださり、歩みを止めてしまわないようにと励ましてくださっています。わたしたちは、だから、今日も一歩、主に従って前に進ませていただくものでありたいと思います。主に倣って、自分の中の一つを差し出して、聖霊にお働きいただく場所を明け渡したいと思います。神は、そこに新しい隣人を招き入れてくださるかもしれません。新しい働きの使命をお与えくださるかもしれません。新しい幻を映し出してくださるかもしれません。神の大きな恵みの御業に参与させていただく幸いな道を、わたしたちは主に導いていただくのです。

 

祈り

主よ。思いがけず、あなたに選び出されてここにおります。主が導いてくださる、世のものとは違う、神の恵みのうちに生きる道を歩ませてください。アーメン