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復活節第6主日礼拝説教「勝利のキリスト」

日本基督教団藤沢教会 2008427

モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主は、モーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
                (出エジプト記 33章7-11節)

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは、わたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じるからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスは、お答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」  
            (ヨハネによる福音書 16章25-33節)

  今日のこの箇所を含む「告別説教」と呼ばれる、14-16章の主イエスの言葉は、主が、その十字架に架けられる日の前日に語られた言葉です。亡くなる金曜日の前の、木曜日、弟子たちの汚れた足を洗い、食事をされた、最後の晩餐の席で、主イエスはお語りになりました。そしてそこを立たれて、弟子たちと共にオリーブ山の方に歩きながら語られた言葉であると言われます。ご自身は、この告別の説教を、いわば遺言のようにしてお語りになりました。ご自分の「時」が差し迫っている、心迫る思いがあったと思います。弟子たちの心にしっかりと留めておいてもらいたいことを、繰り返しお語りになる。今日の箇所は、その「告別説教」の最後部分にあたります。この後、主イエスの長い祈りが始まりますけれども、その最後の、いわば遺言となる言葉を、しかし弟子たちは、なかなか理解しなかったのでした。私たちの主が、何か謎めいたことを語っておられる。怪訝な表情で、語られる主イエスをじっと見つめていたのでしょうか。主イエスの言葉に心騒がせ、不安を感じて言葉を発した者もありました。「主よ、どこにおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道がわかるでしょう。」(14:5)「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」(14:8) それに対して、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。」(14:9)と、主イエスはお答えになりました。主イエスのそばで、多くの時間を過ごした弟子たちです。どの人々よりも近くに聞いてきた主の言葉が、突然、理解し難いものに聞こえる。しかし主イエスは、最後まで、弟子たちを教え導かれようとされます。
  「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(25節)「たとえによって」とは、いわゆる譬え話のことではありません。この告別説教において語られる主イエスの言葉は、地上の事柄でないゆえに、弟子たちにとって理解し難いものでした。謎めいたものであったということです。しかしもはや、謎めいた形ではなく、公然と告げる時が来る。主イエスがお語りになるのは、ご自身が去った後の話です。それは、地上のイエス・キリストの時ではなく、聖霊の時であり、助け主である聖霊によって、はっきりと、明らかな仕方で教えられる時が来る、そのことをお語りになったのです。「その日には、あなたがたは、わたしの名によって願うことになる。」(26節)主イエスの名によって、父なる神様に祈る時として、この聖霊の時が来る。「父ご自身があなた方を愛しておられる。それは、あなたがたがわたしを愛したため、またわたしが神のもとからきたことを信じたためである。」この主の言葉は、弟子たちの信仰を導く言葉となります。主イエスが「父のもとから出て、世に来たが、今、去って、父のもとに行く。」(28節)ということを信じる信仰を、です。キリストは、父のもとから出た方、この地上に誕生する前から神と共におられた方であることを信じる信仰。そして神が、肉体をとられ世に来られたことを信じる信仰。十字架と復活により世を去り、父のもとに行く、その方の栄光を信じる、という信仰。主イエスは、丁寧に信じるべき事柄をお示しになりました。これは弟子たちにとっても、明らかで、今までの目の曇りが晴れていくような言葉だったに違いありません。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。」(29節)主イエスが、何もかもを知っておられる方であることが、今分かった、と言います。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」主イエスが神から遣わされた方であることを信じる、この信仰の核心に、弟子たちは出会ったのでした。私たち人間が、通常の仕方で知りうることは本当に少ないものです。目に見えること、言葉で聴いて、あるいは触ってみて、認識し、うなずく、人間の仕方はそれほどのことでしかありません。信じることは、これらを超える知を受け取ることです。聖霊の助けを受けて「知る」のです。そして、今、分かったと言った弟子たちの信仰告白は、何度も耳で聴いた主イエスご自身の言葉を、繰り返したものなのですが、「そうです、あなたは神のもとから来られたのです。」という告白。それは、正しい言葉でした。それに対して、「イエスは、お答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(31節)弟子たちの信仰告白に対して、主イエスはうなずかれます。しかし、改めてここで、主は弟子たちに告げられます。ご自分の死に際して、弟子たちの裏切りが起こることをほのめかすのです。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」(32節)
  先の水曜日に、聖書研究祈祷会を担当した際、そこに集われた3名の方々と村上牧師とで、今日のこの箇所を読み味わってまいりました。少ない人数ではありましたが、大変に恵まれた、導かれる時を過ごしましたけれども、今のこの箇所で私たちは、立ち止まって一議論交わしました。主イエスは「今ようやく、信じるようになったのか。」と言って、弟子たちの信仰告白をお認めになったかと思えば、すぐに、「だが、あなたがたは」と言って、弟子たちの裏切りをほのめかす。主イエスの十字架を前に、逃げ去っていく弟子たちの破れを予告される。弟子たちの信仰告白は、借りものに過ぎないことを、主イエスは確かに知っておられたではないか。確かに、この「今ようやく、信じるようになったのか。」という主イエスの言葉は、少し意訳でありまして、素直に読むならばこうです。「今、信じているのか。」弟子たちが信じたことを、主イエスは、必ずしも認めていないかのようです。「今、信じているのか。あなたがたが、散らされ、自分の家に帰り、わたしをひとりきりにするような時が来る。いや、もう来てしまっている。」弟子たちの裏切りを知っておられ、その時が来たことを告げられる主。しかし主は、そのような弟子たちの躓きを知りながらも、何も知らない弟子たちの言葉を、やはりきちんと受け止められたのだと思います。「今ようやく、信じるようになったのか。」それでよい。弟子たちのキリストへの理解は、十分ではない、試みに遭うとたちまち崩れだしてしまうような脆いものであるけれども、しかし、主は、その告白をそのままで受け止められた。そしてこのように続けるのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」(33節)
  「平和」という言葉は、教会の中だけで使われる言葉ではありませんけれども、聖書の言う「平和」とは、いつでも、関係を表す言葉です。神様との関係において、また人との関係においてどうあるか、ということです。復活節第6主日の歩みを迎えた私たちは、最も印象深く心に刻んでいる言葉の一つとして、復活の主の言葉を思い出すことができます。「あなたがたに平和があるように。」そう3度も主は、弟子たちの前に現われて、お語りになった。しかしこれは、当時の弟子たちにとって何も特別な言葉ではなく、日常の生活の中で繰り返し交わされていた挨拶の言葉でした。けれどもその状況は特別でした。弟子たちは、散り散りになり、それぞれの家で身を縮めていました。自分たちの主が、十字架の刑に処せられたのです。その出来事が忘れられない、そして自分たちもまた、主の仲間として、捕らえられ、ひどい仕打ちに遭うのではないか。そのような恐れの中で、何とか生きていたのです。そこに復活の主イエスご自身がやってきてこの挨拶を告げます。「あなたがたに平和があるように。」(20:19,21,26)福音書記者のヨハネは、この時、主が十字架にお架かりになる直前に話された言葉を思い出したのではないでしょうか。あなたがたがわたしによって平和を得るように、と主は言われた。そして、本当に主は、死に勝ち、よみがえられたのだ。
  けれども、主イエスが勝利者であると言うことで、この先、弟子たちの生きて行く道は困難であることには変わりありませんでした。しかしこの弟子たちには、約束されていたことがあります。「聖霊」の約束です。聖霊が助けてくださる。他でもなく、苦難の道であるからこそ、聖霊が、確かにお働きくださることが、ものわかりの悪いような私たちにもよくわかるのです。弟子たちの時代も、またこの現代においても、世界が平和に遠い状態にあるからこそ、私たちは苦難が与えられていることに意味見出します。神様は、こういう時代であるからこそ、私たちのうちに聖霊を注ぎ、この世の様々な苦難や誘惑に打ち勝つ生き方へと招くのです。聖霊の力を、私たちの内に息づかせるのです。私たちが日常生活で直面する苦難を乗り越える力が、私たちのうちに注がれます。神様の平和が、惜しみなく私たちに与えられるから、私たちはその力を得るのです。神様は、御子イエス・キリストを十字架に送ることによって、本来、その罪のゆえに死に値する私たちを受け入れ、赦してくださいました。神様は、敵対する世と、罪のゆえに背いてきた私たちと、キリストをもって和解してくださり、平和を与えてくださいます。私たちは神様に造られたものすべては、そのことを何よりも待ち望んでいると言えます。
  私たちの生きる現実は恐れに満ちています。緊張関係、あるいは矛盾と言ってもいい、この地上では苦難があります。悲しみがあり、恐れがあり、悩みがある。これでどうして、キリストの勝利に与るキリスト者と言えるだろうか、そう思うのです。なぜこの世にこれほどの悪があり、罪が蔓延っていて、キリスト者が1%に満たないようなこの国で、教会さえもその聖なることを諦めようとしているような、様々な問題が起こっている。聖なる神様に希望を置くことは、内に引きこもるような、弱い体質のものではないだろうか。私たちは、この問いに対して、どう答えるでしょうか。閉口するでしょうか。この世の様々な悪い事柄、私たちの直面する、とても勝てないと思うような途方もない悪の前に、立ち尽くす経験をするのです。私たちの生活には、苦悩が横たわっています。私は、キリスト者がその苦悩を避けて通ることができるようになったと、無理を言いたいのではありません。そうではなくて、私たちが信仰をもって生きるということは、希望の中に生きることであると同時に、苦難の中に生きることだということをきちんと受け止めたいのです。
  苦難に直面する時、私たちは、どうして自分が今このような苦難に遭うのかわからないと悩みます。けれども私たちは、その苦難と向き合ううちに、自分の力でどうにかしようとすることを止めるでしょう。そうすべきでないことに気づくのです。それはまず、自分にこのような苦難の道を歩ませているのは、神様ご自身であることを見出すからです。どのような苦難であっても、神様がその道の最後までを知っておられる。神様が共に歩んでくださるから、その途上で持つ希望は、決して枯れることはないのです。大きな挫折の前に、立ち尽くす時があるかもしれません。しかし、私たちの主イエスご自身の約束によれば、神様が、この悲しみに、この孤独に、屈辱に、痛みに、人知を超えた平安を与えてくださる。平和を得させてくださるのです。それは、この苦難の時にあって、神様に支えられ、導かれているという確信です。その信仰によって、そして私たちも、神様の前でこの苦難を耐えて行くという面と、この苦難は永遠に続くのではなく、いつか神様の手によって終わりが来る、完全に悲しみが去り、ことごとく涙が拭い去られる時が来るということを期待するのです。弟子たち裏切りや苦しみ、死に至る苦難を経験された主イエスが、復活の後、ご自分を裏切った者たちの元へ、まっすぐに会いに行き、平和の挨拶を贈る、ご自身の勝利を確かなこととして証しされる。
  その出来事によって私たちは、私たちの主は、悪に対して勝利している、と大胆に言うことができます。私たちのうちに、悪い業ではなく、よい業を始められた父なる神様が、それを全うしてくださることを信じるからです。そして、苦難をなめ尽くされた方、十字架の御子イエスが、私たちの主であり、主が共におられる。主イエスを死からよみがえらせることによって、神様は、私たちの世に対する新しい希望を与えてくださいました。世では戦いがあります。けれども、この勝利は、奪い取る勝利ではなく、「和解」という勝利です。この世にあって、父なる神様と私たちとの和解の実現すること、それはわたしたちの間に聖霊の力が働くことです。キリストの勝利は、罪だらけの世との対立の中で、世を滅ぼしたということを意味しません。罪に勝つことで、世と和解したというこの勝利が、私たちにもたらすものは、「キリストの平和」であるのです。平和は、互いに愛し合う関係です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさい。」(15:9)と、主は言われます。「わたしがあなたがたを愛するように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(15:12)「神は愛です。」(Tヨハネ4:8)晩年のヨハネは、自らの手紙の中に、神が愛であられること、愛は神からくることを繰り返し書き送りますけれども、おそらくそれは、ヨハネの最も感動した神の真実でした。ヨハネは言います。愛の反対は「恐れ」。私たちが愛することに必要なこと、それが「勇気」ではないでしょうか。私たちには不安があるのです。愛されなくなる日がいつやって来るか。自分の弱さを知られる日いつ来るだろうか。また、自分がこれほど愛して、愛が受け入れられなかった時、みじめな思いになることを恐れ、疑う。信頼する一歩に踏み出せないのです。しかし、そのように尻込みする私たちに、主は語りかけるのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)私たちの内の恐れは根強いけれども、キリストの愛は、それを乗り越える愛です。死の恐れにさえ勝利する十字架の愛、「恐れを締め出す」(Tヨハネ4:18)愛です。私たちは、キリストの平和を得ることによって、父なる神を本当の神様として愛すことができます。そして神様の愛の担い手として、信頼する勇気をもって、隣人を愛することができる。教会の愛の業が、ここに一歩前進するのです。