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復活節第7主日礼拝説教「命の水を、どうぞ」 日本基督教団藤沢教会 2008年5月4日 1主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。2エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。3ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。4エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。5エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。6エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。7預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。8エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。9渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。10エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」11彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。12エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。13エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、14落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。 15エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。 (列王記下 2章1〜15節) 32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」 37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。 キリストの昇天 主イエス・キリストのご復活を記念するイースターの祝いから四十日が過ぎました。復活なさった主イエスが四十日にわたって弟子たちと共に過ごされ後に天に昇られたことを記念して、教会は、「キリストの昇天」をおぼえてきました。 「キリストの昇天」の出来事は、使徒言行録1章前半に伝えられています。そに伝えられる出来事は、淡々と、全て予定されていたことであったかのように、また弟子たちもすべて承知であったかのように描かれています。もちろん、主イエスが以前から弟子たちにこのことを告げ教えていらっしゃったわけです。ヨハネ福音書には、主が繰り返しこのことを教え諭していたことが伝えられています。 主イエスは、ご自分が天の父のもとから遣わされ、父なる神の御心に従って言葉を語り、業を行われたこと、そして、その歩みに弟子たちを選び招き入れて従わせ、友として歩んでくださり、いずれその先に弟子たちをも天の父と一つとなるところへと導き入れてくださることを約束くださったのでした。そして、天の父のみもとに至る道をお拓きくださるために、主は十字架と復活そして昇天という道を進み行かれる。それが、あらかじめ弟子たちに教えられていたことでした。 私たちもまた、「キリストの昇天」を記念するときに、そのような主の教えと約束とをあらためて思い起こしたいと思います。十字架、復活、昇天という主の道筋の中にこそ私たちの歩むべき場所があることを、もう一度心に刻みたいと思います。キリストの赦しのうちに繰り返し罪の悔い改めへと招かれ、キリストにある新しい命に生かされ、キリストと一つにされて聖められた生活へと導かれていることを、神の深い恵みとして共におぼえる群れの内で確かめたいと思います。 「渇いている人は…」 「キリストの昇天」を記念した後、教会は、次主日にはペンテコステ(聖霊降臨祭)の記念の祝いのときを迎えます。復活の主を信じた弟子たちの群れに聖霊が降り、キリストの命のうちに生きる教会の営みが始まったことを記念します。ペンテコステの日に、信仰者の群れに聖霊が降る約束が実現しました。福音書が繰り返し主の教えとして伝えることは、聖霊は、主イエスが十字架の上で死なれ、復活、昇天なさった後に初めて弟子たちのもとに降るのだということです。 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている《霊》について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、《霊》がまだ降っていなかったからである。(39節) 主イエスがお受けになられる栄光というのは、十字架、復活、昇天という出来事を指しています。それら一連の出来事が起こり、弟子たちもその出来事を経験しなければ、約束の聖霊を受けることはない、というわけです。別の言い方をすれば、私たちは、主イエスの十字架と復活・昇天という出来事を、自分自身に関係のあることとして経験するのでなければ、主のお約束くださった聖霊を受けて生きるということも分かるようにならない、と言うことでありましょう。 私たちには、聖霊というものは、とても分かりにくいものかもしれません。主イエスがお約束くださった聖霊というのは、どういうものなのでしょうか。なぜ、私たちは、その約束の聖霊を受けるべきなのでしょうか。 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。 このとき、主イエスは、当時のユダヤ人にとって最も楽しみに待たれていた仮庵祭の祝われるエルサレムに来ていました。仮庵祭は、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出した後に四十年間荒野を旅したとき、常に神の恵みによって生かされていたことを記念する祭ですが、神殿では、他のどの祭よりも盛大に祝われ、祭に来た人々は一週間の祭の期間中、興奮に包まれていたといいます。中でも、荒れ野を旅していたときに、神が岩から水を湧き出させてくださったという故事を記念して行われる儀式では、祭司がシロアムの池から黄金の器で水をくんできて神殿の祭壇に注ぐのですが、ただそれだけのことに人々は大興奮して、歓喜の叫びをあげたと言われます。そういう、人々が自分たちの祭典に酔いしれ、興奮している中で、主イエスは、立ち上がって大声で言われたのです。 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」 ある説教者は、このときの主イエスの言葉は、まったく虚しい叫び声に終わったのではないかと言います。自分たちの祭に熱中していた人々は誰も、主イエスの言葉に注意を払ったり、応じたりすることはなかっただろうというのです。確かにそうかもしれません。ただ弟子たちの何人かが、この虚しい叫び声、誰も応じない招きの言葉を、胸の内に記憶した。それが伝えられている。しかし、そうであればこそ、私たちにとって、この御言葉は、聞き流してはならない、繰り返し聴き直さなければならない主の招きの言葉なのだと言えないでしょうか。 私たちは、生理的な喉の渇きを深刻に経験することはあまり無いかもしれません。けれども、精神的な渇きは、恐らく深刻なものがある。自分自身のこともそうです。しかし、それ以上に自分の生きる社会、この国、この世界、そこに生きる人々の中にある激しい渇きを見過ごしにしてはいられない現実に、日々さらされているのではないでしょうか。それは、単に物や知識が不足していることからくる渇きではない。人間の能力が最大限発揮され、財力が十分注がれている中でも、私たちは深刻な渇きを覚えないではいられない。にもかかわらず、私たちは、なお、その渇きをいやすために、しばしば、自分自身の能力や財力、物や知識をさらに用いようとして、ますます深い渇きに陥っているのではないでしょうか。 主イエスは、人々が自分たちの営みである祭によって満たされようと集まってきていた中で、その人々に対してこそ呼びかけられた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そして主は、この世の現実の中で、なお人間自身を頼りにし、キリストに従うことによってではなく、世の習わしに従うことによって渇きをいやそうとしてしまう私たちに対しても、呼びかけてくださっている。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。 命の水が湧き出るところ 主イエスは、主に渇きをいやしていただくことを求める者に、お約束くださいました。命の水が与えられること、すなわち聖霊が与えられることを。 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 これが信じる者に約束された聖霊を指し示していると、福音書は教えています。生きた水、命の水が与えられること。それが溢れ出し、流れ出るようになること。そのように言い表されることこそ、約束の聖霊を受けることだというのです。 主イエスが十字架の上で死なれたとき、兵士の一人が槍で主イエスの脇腹を刺すとすぐ血と水とが流れ出た(ヨハ19:34)と福音書は伝えています。生きた水、命の水は、何よりも十字架の上でご自身の命を差し出してくださった方から流れ出てくる命のことです。すべてを神にゆだねるところから与えられる命です。そのような命の泉となって、主イエスは私たちに新しい命を注いでくださっている。 そして、そのような命の水を主イエスからいただいた私たちもまた、その命の水に満たされることによって、主イエスと同じ道に生きるよう導かれているのです。ただ、私たちは、主がくださる命の水を受けとめる場所を、器を、自分自身の中に用意しなければなりません。自分の好きなものを腹一杯食べていては、差し出されたコップ一杯の水さえ、ありがたく受け取りはしなくなるでしょう。どうしてか、私たちは、自分の好みのものばかりで腹を満たしたくなるのです。だとすれば、私たちは、霊的な意味で断食をしなければいけない。せめて、自分の好きなものは腹八分目、腹半分にしておくということを、霊的に学んでいかなければいけない。そして、何よりも、主イエス・キリストがくださる命の水を味わって飲ませていただくことを、深く知るようにならなければいけないのです。 そのような歩み営みの中で、主が注いでくださった命の水は、私たちの中からもまた溢れ出て、周囲の人々へと注がれて行くのでしょう。私たち自身が、主のくださる命の水を溢れんばかりに受けとめることに集中できるならば、主の命の水は、自然に私たちの中から溢れ出て隣人へと注がれていくことでしょう。 私たちは、ただ、主のくださる命の水を求めて祈りましょう。人を惑わせる美食ではなく、人を酔わせる飲み物ではなく、ただ、真の神からの命に生かしていただくための命の水を、溢れんばかりに注ぎ入れていただくために、心を虚しくして祈りましょう。そして、私たちの内からも溢れ出る主の命の水を、惜しむことなく、教会の仲間に、隣人に、家族に、出会うすべての人々に、差し出し、キリストの命へとお招きする営みにあずからせていただくために、祈りましょう。 祈り 主よ。天に昇られた主の脇腹から今も注いでくださる命の水を飲ませてください。溢れるほどいただき主の命を隣人にもたらす器とならせてください。アーメン |