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ペンテコステ礼拝説教「さあ、立って、出かけよう」 日本基督教団藤沢教会 2008年5月11日 1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。 11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
主イエス・キリストのご復活を祝うイースターから七週間を経て、わたしたちは、ペンテコステの祝いのとき、主がお約束くださった聖霊が弟子たちの群れである教会に降ったことを記念する祝いのときを迎えました。聖壇上の典礼布は《赤》、教会を誕生させた聖霊の炎と、キリストを証しすることに命をささげた証人たち、教会の殉教者たちの血潮とを指し示す典礼色に掛け替えられました。教会は、今日から約半年間、《聖霊降臨節》と呼ぶ教会暦の期節を過ごします。 ペンテコステ(聖霊降臨祭)は、クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)と並ぶ、キリスト教会の三大祭の一つです。クリスマスよりもずっと古くから記念されてきた、イースターと並ぶ祝いです。イギリスでは、この日のことを《ホワイト・サンデー(白衣の日曜日)》と呼ぶそうです。昔から、イースターと並んで洗礼式が行われる日曜日であったため、洗礼式に用いられる白い服を指して、そう呼ばれたのだと言います。イースターの祝いの余韻を受け継ぎながら迎えるペンテコステは、祝祭の日として大切にされてきたのです。 しかし、あるいは皆さんの中には、今日がペンテコステの祝いの日であることを知らずにお出でになられた方もあるかもしれません。それも、無理のないことです。私たちの教会の習慣では、実際これまでも、クリスマスやイースターほどにはペンテコステを盛大に祝うことをせずにきました。教会は、ペンテコステを迎える日々を、クリスマスに備えるアドヴェント(待降節)やイースターに備えるレント(受難節)のような期節としてではなく、イースターの祝いの余韻を心に刻みつける《復活節》の期節として過ごしてきました。また、今日から《聖霊降臨節》が半年にわたって続くといっても、伝統的な習慣から、ペンテコステを指し示す典礼色(赤)は、今日からの一週間しか用いません。来週には《三位一体主日》を指し示す白色の典礼布、その後は、《教会の半年》を指し示す緑色の典礼布に掛け替えられるからです。そのようなこともあって、ペンテコステは、わたしたちの教会生活の中でも影の薄い祝祭であるのが事実なのです。 わたしは、ペンテコステをもっと盛大に祝うべきではないかと、ずっと思ってきました。わたしの母教会では、「ペンテコステの会」なるグループができて、ペンテコステに洗礼を受けた人たちを中心に、ペンテコステの祝いを盛り上げようと試みていたことがあります。ペンテコステを、クリスマスほどではないにしても、せめてイースターのように祝いのときとして覚えたいと考えてきました。けれども、最近になって、わたしは、ペンテコステの祝いは、少し控えめぐらいの祝い方で良いのではないかとも考え始めています。現状にあわせて、というわけではありません。主イエスがペンテコステにお約束くださった聖霊の働きは、本来、控えめで自己主張せず、真に謙遜なものであろうはずだからです。 キリストの平和 ヨハネ福音書から、主イエスが聖霊の約束をお語りくださった御言葉を、わたしたちは聴いています。 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしたちは、だれよりも主イエスその方が、真に謙遜な方であることを知っています。もちろん、主のお語りになられた御言葉も、なされた御業も、力強く、権威に満ちていたと、福音書は伝えます。けれども、特にヨハネ福音書は、そのような力と権威に満ちた言葉を語り、御業をなされた主が、ご自身のことを全く控えめに、謙遜にお語りになられていたことを、繰り返し伝えています。 「わたしは自分では何もできない」(5:30)。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7:16)。「わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」(8:42)。「…わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった…」(12:49)。 主イエスは、ご自身が何よりも、ただ父なる神の教えを語り、御業を行うために来られたのだと、そのようにお語りになられていました。別の言い方をすれば、主イエスは、ご自身のために生きておられるのではなく、わたしたちのために父なる神に至る道を切り開き、その道を指し示してくださるために、そのご生涯を生き、また死なれた。いや、死んで復活なさり、天に昇られて父なる神に至る道を確かなものにしてくださったのです。 主イエスがお約束くださっていた聖霊もまた、父なる神のもとから遣わされる方、主イエスの名によって遣わされる方であると言われます。聖霊ご自身の存在を誇示するためではなく、父なる神の教えをすべてわたしたちに教え、主イエスの語られた御言葉をことごとくわたしたちに思い起こさせるために、つまり、わたしたちのために、聖霊は遣わされて、お出でくださったというのです。その意味で、主イエスのお約束くださった聖霊は、元来、主イエスと同じ、控えめで真の意味で謙遜な性質をお持ちなのです。 しかし、わたしたちが今日、心に刻みたいことは、ただ、聖霊の性質はそのようなものだということだけではありません。そのような聖霊が、信じる者の教会に降り、わたしたち一人ひとりに与えられているということ、このことをこそ、わたしたちは心に刻みたいのです。 そのことを深く受けとめるならば、続いて主イエスがお約束くださっていることの深みも見えてくるように思います。聖霊が与えられるとき、わたしたちに平和が与えられる、主の平和、キリストの平和が与えられる、という約束です。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 世の中で考えられるように与えられるのではない、主の平和、キリストの平和。今、あえてその違いを説明しなくてもよいと思います。主の平和、キリストの平和。それは、十字架に至る歩みの中でご自身の全てを神と人とに差し出されることによって実現なされた平和です。自己主張することによってではなく、自分を捨て、自分の思いや考えを引っ込めて、場合によっては人の罪の中に自分を引き渡すことさえして、人と共にいてくださろうとしたキリストの平和です。主イエスが、わたしたちに聖霊を与えるとお約束くださり、また平和を与えるとお約束くださったとき、主は、わたしたちに、そのような主の道、平和への道を歩むようにと招いてくださっている。それは、もしかすると、心騒がせ、おびえる心に捕らわれてしまうような道であるかもしれない。苦難があり、困難な道かもしれない。しかし、その道を主イエスがまず進んでくださり、切り開いてくださり、その先にある新しい平和、主にある平和をかいま見せてくださっているのです。 「さあ、立て。ここから出かけよう」 「さあ、立て。ここから出かけよう」。 主イエスは、聖霊と平和の約束をお語りくださったとき、すぐに、弟子たちに、そう呼びかけられました。主は、どこに出かけようと言われたのか。十字架に至る道です。十字架と復活と昇天に至る道です。真の平和、自分の知恵や力によってではなく、自己主張によってではなく、自分を捨て、自分を引っ込め、あるいは命を差し出すことによって実現する主の平和。すべての人と共に生きる新しい世界。そこに向かって、出かけよう。立って、起きあがって、聖霊の息吹を吹き込まれて、新しく命を与えられて、新しい世界に出かけよう。ペンテコステの聖霊の約束と共に、主は、そのようにわたしたちに呼びかけてくださっています。 「聖霊を受けなさい」(20:22)。わたしたちの歩みは、ここから始まるのです。聖霊の導きのうちに、主の道、新しい命の道、キリストの平和の道に歩むのです。 祈り 主なる神。謙遜なる主がお約束くださった謙遜なる聖霊を私どもの深いところに注いでください。私どもも主の平和への道を歩ませてください。アーメン
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