印刷用PDFA4版2頁

三位一体主日礼拝説教「信仰の道に踏みとどまろう」

日本基督教団藤沢教会 2008518

12 手のひらにすくって海を量り

手の幅をもって天を測る者があろうか。

地の塵を升で量り尽くし

山々を秤にかけ

丘を天秤にかける者があろうか。

13 主の霊を測りうる者があろうか。

主の企てを知らされる者があろうか。

14 主に助言し、理解させ、裁きの道を教え

知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。

15 見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく

天秤の上の塵と見なされる。

島々は埃ほどの重さも持ちえない。

16 レバノンの森も薪に足りず

その獣もいけにえに値しない。

17 主の御前に、国々はすべて無に等しく

むなしくうつろなものと見なされる。
               
(イザヤ書 401217節)

11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

17この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。19真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

20テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。21その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。

恵みがあなたがたと共にあるように。
           (テモテへの手紙一 
61121節)

《三位一体主日》からの歩み

今日、ペンテコステに続く日曜日は、伝統的な教会暦に基づいて《三位一体主日》と呼ばれます。キリスト教会の信仰する神は、父・御子・聖霊と呼ばれる三つの位格(人格)をお持ちの、しかし本質的には唯一の神であるという、《三位一体》の教えを確かめる日曜日として、十四世紀にローマ・カトリック教会で定められた祝日です。四世紀にニカイア信条という信仰告白文が作られて《三位一体》という教えが全教会の公式の教えとして明文化されてから、およそ千年後のことです。ローマ・カトリック教会からプロテスタントの諸教会が分かれていった後も、多くのプロテスタント教会が《三位一体主日》という祝日を残して覚えてきました。わたしたちも、そのような伝統を受け継いでいます。

ペンテコステの祝いの日に《赤》であった聖壇上の典礼色は、すでに掛け替えられて、《三位一体主日》を示す《白》になりました。クリスマスの《白》、イースターの《白》が、《三位一体主日》に再び用いられます。クリスマスに御子キリストを地上にお送りくださった父なる神をおぼえ、イースターに死者の中から復活なさった御子なる神をおぼえた教会は、ペンテコステに聖霊が与えられたことをおぼえた後に、その聖霊もまた父と御子と一つの神であられることをおぼえて、神のご栄光と永遠の命をあらわす《白》の典礼色を掲げるのです。

しかしながら、今日、わたしたちが《三位一体主日》と定められている主日の礼拝を通して心に刻むべきことは、今申し上げたような内容の教会の教え(教理)についてではありません。

もちろん、教会の教えとして《三位一体》を心に刻むことも、意味のあることです。特に、今年になってからヨハネ福音書を共に聴いてきたわたしたちは、主イエスがお教えくださっていたこととは、要するに、父なる神と御子キリストは一つであられること、その一つであられる父と御子のもとから聖霊がわたしたちの間に送られて、その聖霊のゆえにわたしたちも父なる神と御子キリストと一つにされること、このことでした。このことを、わたしたちは深く心に刻んできました。《三位一体》の教えを、教会が勝手に創り出した教えのように考える人がいますが、決してそうではなく、主イエスご自身がそのようにお教えくださっていたこととして、教会は《三位一体》の教えを大切に受け継いできたのです。

けれども、それにもかかわらず、そのような教会の教えを学ぶことで、今日の礼拝を終えるのではないのです。この日、父・御子・聖霊なる《三位一体》の神こそが信じるべき方であることを、わたしたちは確かめます。そして、その上で、わたしたちは、ただちに、次の歩みへと押し出されている、そのことをこそ心に刻む。そのように、わたしたちは今日の主日に導かれているのです。

ペンテコステの日に、わたしたちは、聖霊が父なる神と御子キリストのもとから、わたしたちのただ中にこそ注がれていることを確かめました。わたしたちのただ中に与えられている聖霊は、父なる神と御子キリストと一体です。その父・御子と一体の聖霊がわたしたちのただ中に与えられていることを確かめるとき、わたしたちは、神がわたしたちのただ中、教会のただ中で御力をもってお働きくださることをこそ、信じて、心に刻むのです。神が、今や、わたしたちを聖霊の働く新しい神の民としての教会の歩みへと押し出してくださっていること、信じる者の教会の群れのただ中でこそお働きくださる神のお働きを力強く証しする歩みへと押し出してくださっていることを、わたしたちは心に刻むのです。

それゆえに、プロテスタント教会は《三位一体主日》からの半年間を《教会の半年》と呼んできました。主なる神ご自身に目を向けてきたクリスマスからペンテコステに至る《主の半年》を終えて、わたしたちは今、主なる神がわたしたち教会の中でお働きくださることに目を向ける《教会の半年》を歩み始めるのです。

 

「神の人よ」

わたしたちの聖書日課は、この《教会の半年》の期節に、おもに新約聖書の中の使徒書(使徒言行録からヨハネ黙示録まで)に耳を傾けるように定めています。今日の使徒書の御言葉として聴いたのは、使徒パウロが若き伝道者テモテとテモテの教会に宛てて書き送ったとされる「テモテへの手紙一」の最後の部分です。

この手紙で、パウロは、テモテに対して、教会に仕える伝道者としての心構えを教えているようです。その教えを記していく筆が熱くなっていたのでしょうか、ここでパウロは、テモテのことを「神の人よ」と呼んでいます。新約聖書では他に出てこない、めずらしい呼び方です。しかし、旧約聖書では神の人という呼び方は良く知られていました。あのモーセやダビデ王を指す呼び方、またサムエルやエリヤ、エリシャなどの大預言者を指す呼び方であり、神の御使いを指す呼び方でもあります。パウロは、旧約の偉大な信仰者を思い起こさせる神の人という呼び方を用いて、若き伝道者テモテを励まそうとしたのかもしれません。

わたしたちの教会(教団)でも、新しく伝道者・教師を立てるときに、神の人という呼び方をもって励ます讃美歌を歌うことがあります(『讃美歌2198番)。しかし、わたしたちは、今日、この手紙の御言葉を聴く中で、神の人という呼び方は、決して、伝道者や教師など特別な職務に就く者だけを指すものではない、わたしたち皆のためのものでもあるということを、確かめたいのです。

神の人」。「神のものとなった人」という意味です。わたしたちは、民主主義という価値観の社会の中で生活していますが、その中で当たり前のように、「自分の主人は自分自身」という観念を深く植え付けられていると思います。もちろん、現実には、民主主義社会の中にあっても、手を替え品を替え、他人を支配しようとする力が働きかけてくることを知っています。それでも、そのような支配から抜け出して、わたしたちは、誰にも支配されない者、自分自身が主人である者として生きるべきなのだと、そう思って生きています。それは、ある意味では正しいことでしょう。わたしたちは、他の何者にも支配されるべきではありません。また、わたしたちは、他の誰のことも支配すべきではありません。しかし、にもかかわらず、いや、それだからこそ、わたしたちは、一つの支配だけは、一人の主人だけは、正しく認め、受け入れなければならないはずです。神の支配、わたしたちの主人としてのキリストのご存在です。

パウロは、聖霊によって「わたしたちは贖われて神のものとな(エフェ1:14)ったと教え、また繰り返し「あなたがたはキリストのもの(Tコリ3:23。ロマ1:6Uコリ10:7、ガラ3:29参照)と告げていました。あるいは、洗礼についての教えがまとめられているといわれる「ペトロの手紙一」にも、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民(Tペト2:9)と教えられています。「神のものとなった人」、「キリストのものとなった人」。それが、わたしたちキリスト者にとって最も大切な自己理解、アイデンティティなのです。

 

信仰の道を踏み外さないで

神のものとなった人、神の人の生き方とは、どういうものか。パウロは、若きテモテに向けて、懇切丁寧にこの手紙で教えています。わたしたちも、今、あらためてこの手紙を熟読し、傾聴したいと思います。何度でも読み返して、聴き直して、わたしたちは、神の人、キリストのものとなったキリスト者として、どのように生きるべきかを、学び直したいと思います。

この手紙には、ある意味では、とても厳しいことが書かれています。わたしたち自身の何の気なしにおこなっている日々の振る舞いを、厳しく指摘されているように思います。パウロは、しかし、この手紙で、そのような神の人にふさわしくないわたしたちの生き方や振る舞いを指摘して、責めているのではありません。むしろ、そのようなことから離れていなさい、そのようなことを避けなさい、ただ、キリストの言葉と教えに従って信仰の道を歩み続けることに、思いを集中しなさいと、そう勧めているのだと思います。

わたしたちは、すでに神の人、神のものとなった人です。洗礼を受けた者は、洗礼を受けたときに、はっきりと自分がキリストのものとされていることのしるしを与えられました。そして、キリストの切り拓いてくださった信仰の道に立たされている者であることを、教会の中で確かめたのです。わたしたちは、教会に連なる神の人、キリスト者として真実に歩み続けるために、避けるべきことと守るべきこととを、しっかりと見分ける信仰の目を養われたいと願います。わたしたちの信仰の目が、何よりも、聖書の御言葉によって養われることを、わたしたちは知っています。御言葉に養われて、避けるべきことを避け、守るべきことを守り、主イエスの切り拓いてくださった信仰の道に留まり続ける歩みを導かれるよう祈りたいと思います。何よりも、そのことを共に祈る仲間が、教会にいます。教会に連なり、留まることの幸いを、わたしたちは確かめたいと思います。

《教会の半年》が始まります。共に主の道を歩む群れとして導かれてまいりましょう。信仰の道に留まる幸いを知る教会としての証しを続け、わたしたちの家族、隣人、多くの人々を迎え入れる群れ、神の民として成長させられますように。

 

祈り

主なる神。私どものただ中でお働きくださる聖霊によって、神の人、神の民として成長させてください。家族や隣人がこの群れに導かれますように。アーメン