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主日礼拝説教「キリストの言葉をお聞きください」 日本基督教団藤沢教会 2008年5月25日 16あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。 20将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、21あなたの子にこう答えなさい。 「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。22主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、23我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。24主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。25我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」 ペンテコステの祝い、そして三位一体主日の記念のときを終えて、教会は、《教会の半年》と呼ばれる期節を迎えました。わたしたちの教会暦の呼び方では、「聖霊降臨節」として続く期節です。この期節を表して、聖壇上の掛布は、伝統的な典礼色の《緑》色に掛け替えられました。 この期節の典礼色に《緑》色を用いるのは、この色が自然色、中間色と考えられたことによると言われます。教会の特別重要な祝祭日が定められていない半年を、特色のない期節であると特徴付けるために、自然色、中間色と考えられた《緑》色が用いられるようになったというのです。しかし、また、この《緑》色の典礼色の意味を、このように語る人もいます。それは、緑の葉を茂らせる草木を指し示している。その草木に代表される被造世界が、今や御子キリストの復活と昇天、聖霊の降臨によって、神の祝福のうちに回復された。この被造世界に神の国の回復する希望が与えられた。だから、《緑》色の典礼色で特徴付けられるこの期節は、わたしたち人間のみならず被造世界全体に新しい希望が与えられたことを確かめながら歩んでいく期節なのだ、というのです。 そのことを別の言い方で言うならば、《緑》色の典礼色を用いるこの期節は、わたしたちがこの世界に出て行って、キリストの福音、神の国を宣べ伝える期節だと言ってもよいでしょう。主イエス・キリストのお出でくださったことによって、また主の十字架と復活によって、神から与えられた希望を、わたしたちは、この世界に向けて告げ伝えるのです。混沌とした、不安ばかりが増していくこの世界にあって、しかし、決して希望が失われているのではありません。むしろ、不安の中にあっても、苦難の中にあっても、ますますはっきりと、ただ一つの確かな希望、キリストを通して神がお与えくださる恵みの希望を、確かなものとして語ることができる。キリストの希望を共にする交わり、キリストの教会の群れに、この世界を、世界中の人々を、隣人も、友人も、家族も、すべての人をお招きすることができる。自信をもって、お招きすることができる。そういう意味で、この期節は、わたしたちの伝道の期節だと言ってもよいと思うのです。 多くの教会が、春に、秋に、伝道の取り組みをいたします。わたしたちの教会も、今年は、この春から夏に向かう時期に、多くの方をお招きして伝道講演会を開こうと準備してまいりました。それも、いよいよ二週間後となりました。皆さんが、それぞれに祈りをもって親しい方をご招待くださっています。ご招待くださった方と共に伝道講演会にお出でくださるとき、皆さんも、また招待されて来られる方も、ただ講師の先生と会い、楽しいお話を聞くだけなのではありません。講師の先生を通して、また皆さんを通して、講演会に集った者が皆、キリストと出会うのです。キリストのもたらしてくださる真の希望を聞くのです。そのようなときとして備えられるよう、祈りをもって臨みたいのです。 「主を信じる者は、だれも失望することがない。」 使徒パウロが、ローマの教会に宛てて記した手紙の中で、旧約聖書を引用して告げているこのことを、わたしたちも、確かなこととして信頼したいと思います。パウロが言うように、わたしたちも、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるのだと信じて、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と確信して、この期節の歩みを進めて行きたいのです。 わたしたちが宣べ伝える《信仰の言葉》 今日も、この礼拝には、すでに洗礼を受けた信者教会員だけでなく、まだ洗礼を受けるに至っていらっしゃらない方が、幾人もいらっしゃいます。そのお一人おひとりに、いずれ洗礼の恵みにあずかられるときが来ると、私は信じておりますし、教会の皆さんもそう信じて、おぼえてお祈りくださっていると思います。伝道の営みへと歩み出すときに、わたしたちは、今まで以上に、そのような祈りを深くしたいと願います。ひとりでも多くの方を、この礼拝へとお迎えしたいと思います。そのための備えが導かれるよう、祈り深くありたいと思います。 入門講座という小さな学びの会を続けてきました。今、学んでいることは、『みんなのカテキズム』という問答形式で書かれている信仰入門の書です。二部に分かれていますが、その第一部は、こども向けに書かれたものです。けれども、決して幼稚なものではありません。教会が長い歴史の中で聖書に基づいて語り継いできた信仰の言葉が、こどもにも分かる素朴な言葉で綴られているのです。六十の問いと答えから成っています。そのまま暗記しても良いと思えるような言葉が語られています。もちろん、六十の問いと答えを暗記することが目的ではありません。それをもとにテストをして合格すれば洗礼を受ける資格を取ることができる、というようなことでは決してないからです。そうであっても、なお、そのような教会の営みの中心で受け継がれてきた信仰の言葉を繰り返し学び直すことは、わたしたちにとって大切な意味があるのだと思います。わたしたちが家族や友人や隣人や多くの人々を教会の群れへとお招きするということは、そのような信仰の言葉を伝えるということと切り離すことができないことだからです。 パウロは、「信仰による義については、こう述べられています」と言って、申命記30章の御言葉を引用しながら、こう語っています。 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 初期の教会で洗礼を受けて教会に加わるときに求められたのは、「イエスは主である」という告白の言葉であったといいます。また、教会の教えの中心は、「神がイエスを死者の中から復活させられた」という言葉で言い尽くされていたと言います。そのような信仰の言葉を教会は宣べ伝えていました。そのような信仰の言葉を自分のものとすることができた者が、洗礼を受け教会に加わったのです。 わたしたちも、本質的には同じ営みを受け継ぐ教会です。パウロが信仰の言葉とした二つの言葉に加えて、わたしたちの教会は多くの信仰の言葉を新約聖書から取り上げ、宣べ伝え、教え、自ら告白しています。礼拝の中で共に唱える「使徒信条」もまた、そのような信仰の言葉の一つです。そのような信仰の言葉の一つひとつを自分たちは告白しているのだ、信じているのだ、ということを、わたしたちは確かめながら、そのような信仰の言葉を持つわたしたちの教会の群れに、家族や隣人、多くの人をお迎えしようとしているのです。 キリストの言葉を聞く歩みの中で もちろん、わたしたちは、そのような信仰の言葉を、だれに対しても、無理矢理教え込んで、強引に告白させたり、信じ込ませたりすることはできません。いや、正直なところ、わたしたち自身ときに、自分は本心からイエスは主であるという信仰の言葉を告白しているのだろうか、心の底から神がイエスを復活させられたと信じているのだろうかと、不安になることもある。そうであれば、なおさら、わたしたちは、誰かにこのような信仰の言葉を宣べ伝えて教え、告白にまで至らせることなどとてもできないと思わざるを得ません。牧師や伝道師のような専門家に伝道のことは任せておくべきだと思われる方も少なくないと思います。 けれども、わたしたちは、本当のところ、自分の持つ信じる力や信仰の確信に頼る必要はないのです。わたしたちの告白する信仰の言葉とは、キリストがわたしたちにお語りくださる言葉に他ならないからです。わたしたちの心で信じる信仰の言葉とは、キリストがお聴かせくださる言葉に他ならないからです。 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 キリストがお語りくださる御言葉、キリストがお聴かせくださる御言葉が、あるのです。その御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあると、パウロは言ったのです。キリストがわたしたちにお語りくださる言葉があるから、その御言葉をわたしたちの口は告白し、心は信じることができる、というのです。キリストがわたしたちのただ中までお出でくださって「わたしが主である」とお語りくださるから、わたしたちは「イエスは主です」と告白することができる。キリストが「神は死者の中から復活させられる」とお語りくださるから、わたしたちは「神が主イエスを死者の中から復活させられた」と信じることができる。 不思議なことかもしれませんが、わたしたちが宣べ伝えていることの本当の中心とは、このことに他なりません。主イエス・キリストがお語りくださる言葉が、わたしたちを新たにし、新しい命へと誘い、新しい言葉と新しい信仰とを植え付けてくださる。そうであれば、わたしたちは、もはや、自分の持つ信じる力や信仰の確信に頼る必要はないのです。わたしたちに必要なのは、ただ、キリストへの信頼、キリストの御言葉への信頼です。キリストがわたしたちのただ中で親しく御言葉をお語りくださるのを待つ姿勢です。御言葉を傾聴する態度です。 わたしたちの伝道の営みが、キリストを信頼することによって、大胆に導かれるよう、祈りたいと思います。御言葉をお語りくださるキリストが、御言葉を聞くわたしたちを、お遣わしくださいます。わたしたちの一人ひとりが、家族のもとへ、隣人のもとへ、この世のただ中へと、主から遣わされて、ただキリストの御言葉を届ける者として用いられますように。 主なる神。主の御言葉をお聴かせください。御言葉を信じ、告白する者とならせてください。御言葉を携える私どもを、どうぞ遣わしてください。アーメン
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