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主日礼拝説教「キリストのもとへ!」

日本基督教団藤沢教会 200861

1  わたしは歩哨の部署につき

砦の上に立って見張り

神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

2  主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。

走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。

3  定められた時のために

もうひとつの幻があるからだ。

それは終わりの時に向かって急ぐ。

人を欺くことはない。

たとえ、遅くなっても、待っておれ。

それは必ず来る、遅れることはない。

4  見よ、高慢な者を。

彼の心は正しくありえない。

しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 
                 
(ハバクク書 214節)

 

22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神がを限りなくお与えになるからである。35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

   (ヨハネによる福音書 32236節)

「みんながあの人の方へ行っています」

主イエス・キリストのもとへ、ひとりでも多くの方をお連れしたい。

このことのゆえに、私たちの教会は、一年間の準備期間をかけて、来週の創立90週年記念伝道講演会を備えてまいりました。この私たちの礼拝堂では入りきれないほど多くの人をお招きしたい。それにふさわしい講師をお呼びし、会場を準備したい。教会は、昨年の4月に大きな伝道の幻を記した《わたしたちのビジョン2007》を掲げ始めていました。そして、一年前に祈りのうちに思い描いた幻が、確かな形を整えられて、私たちの目の前に据えられたのです。

主イエス・キリストがご復活なさった後、地上で人としてのお姿をいつまでも保たれていたら、そのキリストがお出でくださる集会にはどれほど多くの人が集まってくることになっていただろうか。そのような想像をすることがあります。地上で人として活動なさっていた間、主イエスの人気は絶大であったようです。いや、もちろん、大衆の気分は移ろいやすいものですから、大勢が押し寄せたときもあれば、その人々が引き潮のように離れていくこともあったでしょう。しかし、概して言えば、主イエスの大衆的な人気は、相当のものがあった。

主イエスが登場するまで、ユダヤ人の間で大衆的な人気を誇っていたのは、洗礼者ヨハネでした。荒れ野で弟子たちと質素な暮らしを続け、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を呼びかけていた洗礼者ヨハネのもとに、人々は、続々と押しかけていたのです。大衆に大きな影響力のある宗教家として、ときのヘロデ王も一目置いていた人物でした。すでに年齢を重ねて老成した人物像をイメージするかもしれませんが、ヨハネは、主イエスと同年齢、ルカ福音書によると主イエスよりも六ヶ月早く生まれただけです。主イエスがおよそ三十歳でヨハネから洗礼を受けられたときには、すでにヨハネの人気は確立していたというのです。ところが、主イエスがヨハネから洗礼を受けられて、弟子たちを招き寄せ、宣教活動を始められると、そのヨハネの人気に陰りが見られるようになったというのです。

「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

実際には、ヨハネの人気は、まだまだ絶大なものがあったのだろうと思います。ヨハネは、ヘロデ王に捕らえられた後に処刑されましたが、処刑された後もなお、人々はヨハネの再来を待ち望んでいたといわれるほどなのです。しかし、ヨハネのもとに集まってきていた人々が、主イエスの方へ行き始めていたことも、事実でした。いや、事実はむしろ、ヨハネは、自分の弟子たちや自分のところに集まってくる人々を、主イエスの方へと向かわせることに積極的だったのです。

見よ、神の小羊だ」。「あの人、イエスのもとへ行きなさい」。主イエスがまだ無名であったときから、ヨハネは、主イエスに目を向け、主イエスの方へと弟子たちや人々の関心を向けさせたのです。人々の間で絶大な人気を誇っていたヨハネだからこそ、人々の関心を主イエスに向けさせることができた。ヨハネ自身、そのことを知っていて、主イエスを指し示し、人々を主イエスに向かわせた。そのことと、主イエスがその後、人々の間で絶大な人気を博するようになったこととは、確かに無関係ではないように思えます。

「みんなが主イエス・キリストのもとへ向かっています」。

伝道講演会の後、講師の先生にそのような報告をさせていただけるならば、幸いなことではないでしょうか。

 

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」

私たちには、今度お迎えする講師の先生のような人を集める力も魅力も無いかもしれません。けれども、すでにキリストと出会わせていただき、主の僕となるべく洗礼を授けられ、自分のためではなく、主のため、人のために生きる生き方へと導かれて歩ませていただいている者です。あるいは、いずれそのような生き方へと導かれて行かれる皆さんでいらっしゃるでしょう。そうであれば、私たちも、私たちなりに、ヨハネが告げている言葉を学んでおく必要があると思います。

「…あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

礼拝で聖書の御言葉を説き明かして説教を語る職にいる私ども牧師がいつも問われるのは、結局、説教を聴かれた会衆の皆さんが何を心に留めることになられたか、ということです。皆さんは、いつもどうでしょうか。礼拝においでになり説教を聴かれたその週の間、心に留めているのは、聖書の御言葉そのものでしょうか、それとも、例話として語った小話や体験談でしょうか。主イエス・キリストについてでしょうか、それとも、牧師やゲスト説教者についてでしょうか。

ある人は、「説教者は説教を語っている間に説教者自身が消えてゆくような説教を目指すべきだ」と言います。説教は、説教者の言葉と思考を用いて語られますから、どうしても説教者その人が目立ってしまう。説教を聴く人も、語る説教者その人を無視して説教を聴くことはできないでしょう。そうであっても、説教者は、説教を通して自分を宣伝したり際だたせたりしてしまうことを極力避けて、ただ主イエス・キリストその方だけを際だたせるように語ってゆくべきだ、というのです。そのためにも、このヨハネの言葉を肝に銘じるべきだ、というのです。

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」

私たちの主である方を立てることをわきまえた、謙遜なへりくだった姿勢を、私たちは、確かに見習いたいとも思います。けれども、本当のところ、私たちは、ヨハネが告げた言葉どおりの生き方などできるのだろうか、とも思うのです。自分は主イエスのために自分を捨てて生きてゆきたい、と願うところまではよいかもしれません。ところが、自分は主イエスのために自分を捨てて生きているのだ、と思い始めた途端に、私たちは、自己犠牲的に生きる自分を誇り始めてしまう者なのではないでしょうか。一所懸命に頑張って自己犠牲的に生きている自分のことを、だれも分かってくれなくても神さまだけは認めてくれるだろうと、自分の栄光を求め始めてしまう者なのではないでしょうか。私たちは、いつも、キリストを伝えているつもりでいて、実は自分を誇り、自分を宣伝し、自分を売り込むような生き方から離れられないでいるのではないでしょうか。

だからこそ、私たちは、ただ人気絶大であった主イエスのことを知るだけでは足りないのです。もうひとつの主イエスのお姿、人々から捨てられ、蔑まれ、踏みにじられ、殺された主イエスのことを、心に刻まなければならない。「キリストは栄え、人間は衰える」はずなのに、主イエスは、「私たち人間を栄えさせるために、ご自分を十字架の死に至らせるまで衰えさせられた」のです。

「あなたがたのために、わたしは衰え、死ななければならない」。主イエスがそのようにお語りくださって、そのとおりに生き、いや死んでくださった。そのことがあったからこそ、初代教会の弟子たちは、主イエスのように自分を捨て、神のため人のために生きる者とならせていただくよう、ひたすらに祈り続けたのではないでしょうか。自分の努力によっては不可能であることを認めた上で、なお、主イエスのように生きることを願って祈り続けたのではないでしょうか。そのような祈りの歩みの中で、弟子たちは、ただ主イエスのみを見上げ続けた。自らキリストを見上げ続ける歩みの中で、人々にも主イエス・キリストを指し示すことになっていった。人々をそのような祈りの歩みの中へと招き加えていくことになっていった。そのような弟子たちの祈りの歩みを受け継ぐのが、今の私たちの信仰の歩み、教会の営み、伝道の取り組みに他ならないのではないでしょうか。

 

《もうひとつの幻》

預言者ハバククが敵の攻めてくるのを砦の上で見張り待ちながら聴き取った主の言葉を合わせて聴きました。

幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

「わたしは衰えねばならない」という主イエス・キリストの生きる道は、決して敗北の道ではありません。神の祝福という勝利へ至らせられる幸いの道、命の道です。それは、道の途上にある私たちには十分に理解し得ていない祝福かもしれません。けれども、主イエスを通して神の約束くださっている祝福です。幻としてすでに示され、書き記されている祝福です。私たちは、その幻を、歩みながらも走りながらも、いつも心に刻み確かめるのです。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主が告げておられるのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)

この世で人気があろうとなかろうと、主イエス・キリストの道に続かせていただくことの幸いを知る者とならせていただきたいと願います。そのように祈り続ける歩みが、主イエス・キリストを人々に指し示すことになりますように。

 

祈り

主なる神。主の死に至られたご生涯を思い起こします。神の祝福に至る主の命の道を歩ませてください。すべての人が主のもとへと導かれますように。アーメン