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日本基督教団藤沢教会 200868

こどもの日花の日合同礼拝説教
【生き方の発想─水平の生活と垂直の生活】

玉川平安教会員 日野原 重明

1信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
           (ヘブライ人への手紙 1113節)

私は、人間が死ぬということを初めて感じたのは10歳の時でした。母が尿毒症で痙攣を起こして、今にも死にそうでした。お医者さんに「お母さんは死ぬの」ということを聞くのが怖くて、「お母さんの病気は治るの」と聞きました。そして、私は神様に「母の病気は治らなくてもいいから死なないでほしい」と初めて真剣にお祈りしました。

 小学生のみなさん、自分が生きていると思いますか? みなさん生命は目に見えないけれど、みな持っていますよね。見えないものの中に大切なものがあるのですよ。本当のもの、大切なものは目に見えないものなのです。

 今日はその見えない大切なものは何かということを大人のみなさんに伝えたいと思います。

 讃美歌第二編に「丘の上の教会へ」という讃美歌がありますが、この曲に子ども向けに歌詞をつけた阪田寛夫さんという方がおられます。今日はその阪田さんが芥川賞を受賞した小説「土の器」から、お話したいと思います。

この小説は70歳あまりのご婦人でオルガニストであった阪田さんの母上が膵臓癌の最期の苦しみによく耐えて生き抜いた闘病の記録です。「痛いのは我慢しなさい」と、今のようにモルヒネを使わない時代に、彼女がこの苦しみによく耐えることができたのは、その耐える力を聖書から引き出し、その言葉に生きたからです。彼女の親しい医者の友達が「そんなに苦しいのなら苦しいともっと言ったらいいのに」と申しますと、彼女は「だってこのくらいの苦しみに耐えるのは当たり前でしょう」と言いました。彼女はこの耐える力を聖書のコリント人への第2の手紙第4章にある御言葉から得ていたのです。痛みくらいではノックダウンされても、決してノックアウトはされない。例えノックダウンしてまいってしまっても、真に生きる心の支えがあれば、決してノックアウトされて、場外に出されることはないという。

彼女の苦しみに耐える力は信仰の力でありますが、彼女はイザヤ書406-8にある御言葉を愛していました。「人はみな草の如し。その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」私たちの体は朽ち焼かれて灰になってしまうかも知れないが、私たちの見えない生命の元である魂はいつまでも残るという、このイザヤ書の御言葉を阪田さんのお母さんは非常に好きで、このために苦しみに耐えることができたと思います。

草は枯れ花は散るという、そういう決定的な生きるリミットがあります。私たちの体には二万二千の遺伝子があって、遺伝子のとおりに体のなかで細胞の死が繰り返されています。ただ、新しい細胞ができるから私たちには生命があるわけで、私たちの体には必然的に死があります。死の種があります。しかし、種が良い畑に植えられれば、そこで生命が見えるようになるという意味において、死と一緒に生きています。

私は、私たちはどうよく生き、どうよく老い、どうよく病み、どうよく死ぬかということが私たちのこれからの生き方であると思います。その生き方を病気を持っている人も、あるいは癌を持っている人も、どういう生き方を選択するか、その生き方の発想と選択が課題です。

みなさんが、週一回でも、教会に行き、日常の生活、忙しい生活や煩いから逃れて聖書を読み、お祈りをし、一緒に讃美歌を歌うなかで、水平の生活から見えない神様、そして、十字架にかかって三日後に復活されたイエス様が、見えない姿で私たちに語りかけてくださる。この聞こえない声、見えない姿を日曜日にしばらくでも感じる。そのために、一週間に一回教会に来て、水平の生活から少し上を見るような気持を持つことで、私たちには見えない空気、見えない酸素、見えない光を得ることができます。

死ぬということは外なる体です。しかし、外なる体の中には、内なる自分がいるということを考えてほしいのです。そして水平に生きるのは地上の生活でありますが、上を、天を向いて垂線上に生きる生き方があると思います。

生命を与え、生命を創った方というのは絶大な、人間の知力では想像できないような大きな力があって、その力を目に見えるような形にするために、イエス・キリストが生まれました。イエスはわずか3年の伝道生活の後、ゲッセマネの園で祈られた際この苦い杯、イエスにとっても死亡する、十字架にかかることはつらいことですので、何とかこのつらさを神様どうかしてください、しかし、これがあなたの思し召しであれば私はその苦い杯を受けますと言われました。

阪田さんの母上はこの痛みが私に課せられたものであれば、その痛みに耐えましょうと努力され、そのモデルはイエス・キリストであったのです。

 私たちは内なる自分はどのようにして自分自身で感じながら生きるかというと、寿命を長く生きるということではなく、今現在、私たちは上を向いて大きな神様の恵みのもとに生かされているのだということを感じるべきです。私たちは生きているのではなく、生かされているのだという感謝をどういうふうにしてどこに返すかです。受けた神様の恵み、人からの好意を知らない人に返すことが広がれば世界は平和になります。

どうよく生きるかという生き方の一つにキリスト教を選ぶ人や他の宗教を選ぶ人がいるかも知れませんが、キリスト教では、十字架の上で本当に苦しんで死なれたイエス・キリストの苦難の意味を理解しながらどんなつらいことがあっても、耐えるということを学ぶのです。

 神様は耐えられないような試練は決して与えられない。神様は真の方で、耐えられないような試練にあわせることはなさらない。試練と共にそれに耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださる。信仰とは目に見えないものがあるということを確信することです。見えないものがあると信じて確信を持てば心の支えができると思います。

水平の生活は、この世の生活ですが、私たちは垂直の、上を見て歩く。山の頂を見て、そこから救いが来ると信じながら、現実のつらさに耐える。その垂直の生き方をすることで内なる自分が持ち上げられているのではないかと思うのです。曇っていてもそこに山があるということを確信するのが信仰です。空気や酸素が見えなくてもあるのだということを私たちが確信しているように、神の大きな救いのみ手があるのだということを確信する。見えないものの中に本当のものがあるということを信じるのです。

生命を大切にするということを、そして生命のなかには目に見えない生命、信仰によって存在が証明されるような生命が私たちには与えられているのだというふうに私は感じています。

目に見えないものの中に本当のものがある。そしてそういうものを週一回は実感し、そのことを繰り返すために教会に連なるということはすばらしい生活だと思います。

これから日本は若者がだんだん少なくなり、老人大国になりますが、若者たちがこの教会の信者の「あのような、おじさん、おじいちゃん、おばあちゃんのようになりたい」と思うようなモデルに、齢を取った人はならなくてはならないと思います。

体が壊れていてもあの生き方がすばらしい、子どもたちが、その生き方を自分も生きたい、そのために100歳までも生きたいと考えるようになればすばらしいと思います。病んでいても内なる自分は健やかに生きることができます。このすばらしい奇跡的なことを信じ、苦難に耐えることによって、より不幸な人のことがよく分かる感性の深い人間になれると思います。

私たちはどのような姿勢で生きるべきか、水平の、ただ長寿を望む生活から、垂直の生活、天を見上げるというポーズ、それが私たちには必要であり、そのためには、聖書の御言葉によって、助けを得るのだということを確信する。そう考えながら私たちが毎日毎日生活できればすばらしいと思います。

(聖路加国際病院理事長)