印刷用PDFA4版2頁

主日礼拝説教「神の住まいとなる」

日本基督教団藤沢教会 2008615

1ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。2彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。3主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」4主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」

5そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。6すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。7ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。8日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」

9神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」

10すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
                  
(ヨナ書 4111節)


11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。       (エフェソの信徒への手紙 21122節)


キリストはわたしたちの平和

一年間の準備を経て開催した伝道講演会を終えました。スタッフとしてご奉仕くださった皆さんが、本当によい備えをして当日を迎えてくださったと思います。また多くの教会の皆さんが、ご家族や隣人方をお招きになるために、本当によく祈って当日を迎えてくださったと思います。心配していた天候も守られて、伝道講演会が祝福と恵みに満たされたことを、あらためて神に感謝したいと思います。

伝道講演会にお招きした皆さんのご家族や隣人方は、どのような印象を持ってお帰りになられたでしょうか。著名な講師に惹かれて来場された方も少なくなかったと思います。今回来場されたからといって、日曜日の礼拝にお誘いしても、応じられる方は少ないかもしれません。ましてや、私たちと同じ信仰の仲間にまでなっていただくためには、私たち一人ひとりが、なおそのお一人のために祈り続ける日々が続くことを覚悟しなければならないかもしれません。そうであっても、皆さんのご家族や隣人方が伝道講演会の会場に共に集ってくださったことは、決して小さくはない大きな一歩であったと信じてよいのではないでしょうか。私たちは、伝道講演会においでになられた方たちは、まだ信仰を拒んでいる人でさえ、すでに私たちの主イエス・キリストと出会われたのだと信じてよいのだと思うのです。

今日、私たちに与えられた御言葉として聴いている「エフェソの信徒への手紙」の中で、使徒パウロは、こう告げています。

実に、キリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。(1417)

キリストがおいでくださったのは、平和の福音を告げ知らせ、私たちの間で平和を実現するため。しかも、すでに信じてキリストの近くにいる者に対してだけでなく、神から遠く離れている人々に対しても、キリストは、平和の福音を告げ知らせ、神と人との、また人と人との間の平和を実現してくださる。パウロはそう言うのです。そうであれば、キリストの平和の福音が告げられ、キリストの平和が実現するところには、キリストご自身がおいでくださっていると、信じて言うことができるのではないでしょうか。

伝道講演会で講師の先生は、何よりも真摯に主イエス・キリストを指し示して平和のメッセージを語ってくださいました。キリストをすでに信じている者にも、まだ信仰をご自分の者とされていない方々にも、キリストの平和の福音が告げられたのです。そうであれば、講師の先生を通して、講演会に来場されたすべての人がキリストと出会われていたのだと、私たちは、まず確信をもって信じる者でありたいと思うのです。

聖なる民に属する者、神の家族

さて、今日、もしも初めて礼拝においでになられた方がいらっしゃるのであれば、今日ご一緒に聴いた聖書の御言葉が、キリスト教会とはどういうところなのかということを教えているということを知っていただきたいと思います。いや、すでに洗礼を受けている教会員の皆さんにも、また、まだ洗礼を受けていなくても教会に通い続けていらっしゃる皆さんにも、そのことをもう一度確認していただきたい、心に刻み直していただきたいと思うのです。

パウロは、先ほど触れた箇所に続いて、こう告げています。

それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。(1820)

キリストによってお互いの間の敵意が取り除かれて、一つの神の霊に結ばれて、キリストの「御父」と呼ばれる神に近づくことができるようになっている者たちの群れ。それが教会だと、まず告げられています。

私たちが信仰をもって生きるということは、教会堂に来たときだけでなく、日々の生活の中でも、一人心鎮めて神の御前に頭を垂れて祈りをささげる、そのような歩みを深めていくということでありましょう。主イエスも、しばしば、喧噪を離れて一人祈る時間を大事になさっていたと、福音書は伝えていますし、一人密室にこもって祈る祈りの大切さも教えていらっしゃいます。けれども、それと同時に、主イエスは、私たちがただ一人で祈るばかりではなく、信仰者の群れの中に加わって、祈り、礼拝し、神の御前に進み出ることも、大切なこととして教えていらっしゃるのです。

主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と教えられました。また、《教会》としての歩みの始まりとして私たちが憶えているのは、主イエスが十字架で死なれて三日後に復活なさり、弟子たちの前に現れられた後に天に昇られ、そして主が約束された聖霊が弟子たちに降ったペンテコステの出来事ですが、その出来事は、キリストの復活を信じた120人ほどの弟子たちが一つになって集まっていたときに起こったと、聖書は伝えています。そのペンテコステの出来事によって始まった《教会》の歩みが、キリスト教の歴史となったのですから、キリスト教会とはそもそも、一人ひとりが自由気ままに祈り、礼拝するというのとは違う信仰のあり方の中で生まれてきたのだということです。

ですから、教会に来て礼拝をするというのは、ある意味では、不自由なことです。自分の好きなときに来て、好きなだけ祈ったり礼拝したりするのではない。そうではなく、大抵は日曜日の決まった時間に、教会の皆が歩調を合わせて集まり、共に祈り、共に礼拝をささげる。自分の自由な時間を明け渡して、教会の集まりに加わるのです。しかし、そのようにして自分の自由な時間を明け渡すとき、私たちはただ他の人たちにその時間を明け渡しているだけではない。実は、そうすることによって、自分の自由にしていた時間を神に、キリストに明け渡している。だからこそ、そのように共に集まるときに、私たちは、神に招かれて共に神の御前に進み出、キリストと出会わせていただく、と言いうるのでありましょう。

そのようなあり方で共に歩む教会の群れ、信仰者の共同体のことを、パウロが聖なる民に属する者、また神の家族と呼んでいることを、私たちは喜んで受け入れたいと思います。聖なる民、神の民です。神の家族です。神の者とされた人の群れ、ということでありましょう。神を中心にしてかたく結び合わされた人の群れ、ということでありましょう。この世にあって神の御業を証しする共同体、ということでもありましょう。いずれにしても、キリストによって原型を形づくられた教会は、そもそもそういう存在なのだというのです。私たちが礼拝する生活を通して努力してそのようになる、というのではありません。キリストが平和を実現してくださる方だと信じてキリストと結びついているならば、そのことのしるしとして洗礼を受け教会の交わりに属するならば、私たちは、キリストの教会の歩みの中で、聖なる神の民、神の家族として歩む者とされる、というのです。


神の住まいとなる
 この教会の歩みの中へと、キリストは私たちを招いてくださっています。キリストに結びつく洗礼が、この教会の営みの中へと、皆さんを導き入れるのです。その教会の歩み、営みの中で、私たちが経験するのは、神が本当に私たちと共にいてくださるという経験、神のご臨在の経験です。

そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(20後半〜22節)

教会の建物が神のご存在をあらわす祈りの家として整えられることは、私たちの望むことです。しかし、それ以上に、私たちは、パウロが示すように、私たち信仰者の共同の歩み、営みこそが、神のご存在を証しする神殿、神の住まわれるところとなることを、期待し、祈り望みたいと思います。私たちが、キリストと結びついて、キリストによって一つにされることを信じて、聖なる神の民、神の家族という共同の歩み、営みへと招き入れられていることを信じるならば、私たちは、キリストによって成長させられ、聖なる神殿、神の住まわれる交わりとならせていただくことができるのだと、教えられているからです。

教会という、神の共にいてくださる共同の歩み、営みの中へと、私たちの家族、隣人が皆、導き入れられますように。キリストが、一人ひとりを招き入れてくださいますように。

 

祈り

主なる神。キリストが平和を実現してくださると信じます。主が、聖なる民、神の家族として歩む者と共にいてくださると知ることができますように。アーメン